タナトスの気配
『現実時間』五月十七日。都内、早朝。
神取篤が目を覚ます。
相当に寝相が悪かったのか布団の脇に置いた本の山が激しく崩れていた。
またあの夢だ。窒息の夢。あの、妙な『木』の夢。
……木の怒りが、自分に見せる夢だ。
神取は、夢の場所が中国のどこかであることまでは突き止めた。実際に行ったことはないが、おそらく中国の農村部もしくは山間部だ。
木の方はまだわからない。
これでも、木には詳しいはずだが、あんな「木」は見たことがない。逆に言えば、今まで見たことがないとはっきりと言い切れる木だ。
外観から察するにポプラ属か柳属だと思われる。
そして、あまりにも同じ夢を見続けて気がついたのが、あの『木』は明らかに『開花』している。
最初は実だと思っていた。しかし今朝あれは花だと確信した。
それも非常に小さい、黒い花だ。
一般的に、黒い花を咲かせる木など存在しない。
『未だ』存在しない木なのだ。
しかし、元来木は、酸素を放出する生き物だ。
それがなぜ、窒息の原因になる?
……ありえないことだが、仮にそれが酸素を吸って二酸化炭素を放出する木だとする。
同じ事をする生き物は、人間をはじめとする呼吸をする生物だ。
従って、そんな木が一本、二本生えたところで、周りの生き物が窒息死するなんてことはありえないことである。
わからん。こればかりは、「木の怒り」が見せるビジョンだとしか言いようがない。
神取篤が日本に帰ってきてから、彼の怒りに火がついてしまった。
小さい島国日本には、資源がない。
従って独立し続けるために必要な要素は原子力と、林業である。
当然神取は前から知ってはいたものの、ロシアから帰ってきた後に日本の、森林伐採による環境汚染を再調査した。
すると……政治家たちが呑気な頭で考えているセーフラインを超えており、危険水域に突入していることがわかったのだ。
日本の森林率は67%で、そのほとんどが人工杉だ。
これまでは、伐採利用が進まない傾向にあり海外からの輸入依存が続くという捩れた構造が生まれていた。
しかし昨今のウッドショックにより、海外からの怪しい業者もしくは、日本の企業を買収した業者が次々と山を買い取り、森林伐採と土壌汚染が進んでいた。
すでに国際問題になっている。放置していたら、本当に人類は、木をめぐって争い事を起こすかも知れない。
最近見る夢は、木からの警告だ。
神取は、その考えに取り憑かれていた。ここで声を挙げないといけない。
しかし、自分は政界に嫌われており、一人で手を上げたところで誰も耳を貸さない。
本など出版しようとすればそれこそ奴らの思うツボだ。世間からは不安を煽る「狂人」のレッテルを貼られることになるだろう。
まだ太陽の登らぬ空を睨み、神取は生ぬるい孤独を感じていた。
そこに……
「ガコン!」とポストに何かが放られた音が聞こえた。
新聞にしては早すぎるし、そもそも新聞なんてとっていない。
何事かと神取はポストの中身を見た。そこには、一冊の本が入っていた。
最近出版された本らしい。
神取は、その場で数頁読んでみる……。
矢も盾もたまらず、神取がこの本の著者と連絡を取ったのは、早朝六時のことだった。
* * * * *
神取篤が、『本』を受け取る数時間前……。
白い部屋。白い会議室に黒スーツが二人。
三田村と、彼の前で立たされている藤田が、なんとなく学校の先生と問題を起こした生徒のように見える。
「上田美代子からの連絡を拒んでいるそうだな」
眼鏡の奥の冷たい視線で、三田村が藤田を睨む。
「……黒スーツが人間と関わることは良くない……と三田村さんがおっしゃったことスけど……」
藤田が言い返すと、三田村は大仰なため息をついた。
「事態をちゃんと把握しないと、せっかくこなした任務の意味が無くなる。なぜ理解できない」
「え……全然わかんないっす。ごめんなさい」
「上田とお前が険悪になった結果、上田がパパーハを身につけなくなったらどうする、と言っているんだ」
「…… ……じゃあどうすれば……」
「自分で考えろ。ここまでの状況を作り出したのは藤田。お前の責任だ」
藤田には、そう言われると弱い部分がある。
「……じゃあ、会いにいくのは問題ないんですね?」
「大有りだ馬鹿。任務外で黒スーツが人間と密会するなど」
「もうどうしたらいいんですか」
もう、どうしたらいいんですか。藤田の心の声だった。
流石に三田村も、彼なりに助け舟を出すことにした。
「『特別な関係』はもつな。かといって『喧嘩別れ』もやめろ……上田がパパーハを被り続ける状況を作り続けろ。責任をとってな」
「それはいつまでですか……」
「分かれば言っているし、お前に頼ったりしない」
そう言ってそっけなく、視線を端末に戻してしまった。
釈然としない顔で藤田が会議室を出ていく。
* * * * *
次に会議室に入ってきたのは、中条だった。
「呼んだか」
中条からは既にタバコの匂いがしていた。
普段ならここで機嫌が悪くなる三田村だが、この日は違った。
「次の任務が来たのか?」
「はい。……この本を、神取篤教授に届けることです」
「今度は神取か……」
中条が三田村から受け取ろうとするが、三田村は指に力を入れて本を放そうとしない。なかなかの握力だ。
「……なんだよ」
「この本、なんだと思います?」
「ああ? ……昆虫図鑑か高山植物の図鑑だろ?」
「違います。中条さん、ようやく、点と点がつながり始めましたよ」
「…… ……どういうことだ」
三田村が本を離す。中条が本の表紙を読む。
「…… ……『森と海の循環学──森林伐採が海を殺す日』」
「それ、誰が書いたと思いますか?」
なんだか三田村の機嫌がいいように見える。
中条は著者を読み上げる。
「……和知輝樹。誰だ?」
「忘れたんですか!? 我々の初任務ですよ!」
「……ああ、沖縄に旅行に来てた彼か。確か……与那国島に行かせたんだっけか。
懐かしいなあ。去年の夏かあ」
「そうです。どうして我々は、本来東京に帰るはずの彼を、与那国に寄り道させたのか? ……この本を書かせるためだとしたら?」
「……珊瑚礁か」
「和知はもともと、水質学の権威で下水濾過装置の研究開発をしている人間です。
和知が与那国島で、珊瑚の減少という現実を目にした。
そして、この本を書いた……」
「なるほど。我々のおかげだったってわけだな。いくらか印税をいただきたいところだね」
「それだけじゃありません。この本を、神取篤に渡すということは……」
「……この二人を、引き合わせたいのか。上は」
「そうです!」
三田村の機嫌がいいのは、Cチームの任務が現実に実を結びはじめたからだろうか。
個々には全く意味を持たなかった一つ一つが、ようやく巨大な何かになりつつある。中条にはそんな予感がした。
そしてなんであれそれは、対戦を終結させるものだ。




