柳楽国昭『現実時間』四月二十日 2
地獄。地獄である。地獄なんてものをみたことはないが、これ以上の地獄を国昭は知らない。
婚約者の誕生日に渡すはずのプレゼントが、大昔の恋人(それも今の婚約者の知り合い)からもらったハンカチにすり替わっていた。
他人からすれば、腹を抱えて笑ってもらえる類の話だろうが、本人からすればそれは、地獄だ。
ここから何を言い訳すればいいだろう? 逆転の目はあるだろうか?
婚約者が、前の旦那と別れた原因は、元旦那の浮気。本当に逆転の目はあるだろうか?
国昭に悪気は全くない。こんなものは呪いだか祟りだかが起こした不幸な事故だ。
そう考えると、己の不幸さに涙が出てきた。
「ごめん、本当に、何かの間違いなんだ。何を言っても言い訳だけど……どう償ったらいいかわからない。本当にごめん」
土下座。それも本気の土下座である。二人に注目が集まる。
「ちょっと! やめてよ! ……悪戯じゃ無いんだね?」
婚約者の顔に、表情が戻った気がする。彼女にしたって、国昭がそんな悪戯を楽しむような人間ではないと、わかっている。
大きなしこりは残るし、二度と忘れられないようなトラウマには違いないが、一旦、この場は治った……はずだった。
国昭が土下座をといて、顔を上げたのをキッカケに着信音が響く。
それはレストランのテーブルの上。国昭のスマホである。
発信元は……小峰望美。
国昭の元恋人で、クラスメイトで、婚約者の友人の一人で……大昔、案件のハンカチを国昭に送った張本人である。
矢も盾もたまらずに体が動き、国昭はスマホを切った。
……それがかえって仇になった。婚約者の顔がまた、無表情の「素」の顔に戻った。
「……でなくてよかったの?」
頭はぐちゃぐちゃ、感情もぐるぐる、足腰はガクガクだ。
ただでさえ目を回して倒れそうなのに、婚約者からの問いに答える体力が国昭には既に無かった。
口を開いても、言葉ではなく虚しい呼吸が漏れるだけだろう。
すると、次は婚約者のスマートフォンから、ラインの着信音がした。
……ラインの発信元は、小峰望美。内容は、「そっちにアッキーいる?」であった。
「……お邪魔だったみたいね」
婚約者はそう言って立ち上がり、わざと大きく足音を響かせながらレストランを出ていった。
取り残される国昭……。
この状況から、いくら泣こうが喚こうが、誰も助けてはくれなかった……。
* * * * *
それ以来、国昭の生活は荒れた。
毎晩飲み歩き、婚約者ができてから控えていた風俗にも通うようになった。
……さて、泣いて飲んで発散して済まされるのが子供の恋愛なら、そうは問屋が下さないのが大人の恋愛である。
具体的に言うと、第三者に説明が必要なケースが発生するのである。
この一件以来、国昭は望美とまだ恋人同士であるというありがたくない噂話が、元クラスメイトの間で広まっているとのことを友人から聞いた。
この暇人どもめ。と一蹴できない理由は……既に小峰望美は結婚しているからである。
夫婦喧嘩も、フッたフラれたの痴話喧嘩も、興味を示さない連中のくせに、不倫となると謎のバイアスがかかるのだろうか。
元がつく恋人とはいえ、相手に迷惑がかけられない国昭は火消しに回らなければならなかった。
……正直、なんで今更自分に数々の嫌がらせをしてくるのか聞きたい気持ちもあり、十数年ぶりに連絡を取って問い詰めてみても……
「ごめん、電話のことは、かけた理由あんま覚えてなくてさ。覚えてないってことは大した用事じゃないと思うんだけど」
などというものであり、お前のそのいい加減な部分が気に入らなかったと数十年ぶりの痴話喧嘩が再発してしまう始末に。
事態が進展したのは、婚約者の親から国昭に連絡が来た時である。
それは、「結婚を前提に交際していることを報告しに来なさい」なんてものではなく、「大事な一人娘を傷物にした説明をしにこい」というニュアンスに近かった。
しかし……
一方的に距離を置かれて、話も聞いてくれない婚約者に対して誤解を解く最後のチャンスかもしれないと国昭は思い、すがるような気持ちで婚約者の実家へ。
本人と、ご両親を前に、泣いて縋って歯茎をむいて謝って、自分の持ちうる精一杯の誠意を見せて、しどろもどろになりがならも言葉を尽くして……
とにかく婚約者を想う気持ちだけは嘘偽りの無かったことを伝えた。
それでもやり直すチャンスは、限りなくゼロに近いかもしれないが、誤解だけはようやく解けた……かに見えた。
国昭が、婚約者の誕生日に渡しそびれた誕生日プレゼント。それをあらためて渡したのが……決定打になってしまった。
反省を活かして何度も何度も確認し、彼女の実家の前でも確認したつもりだったハンカチ。
今度こそちゃんと渡せた……と思っていたのに、畳まれたハンカチに包まれていたのは、誰がいつ撮影したのか、自分が風俗嬢と行為に及んでいる時の写真だった……。
これで、完全に火は消えた。いや別の火がついた。
とても消火できそうにない規模の火が……。
命まで奪われなかったのがよかったのか、むしろ悪かったのか……
むずばれるはずだった二人が、お互いを思い出すだけでトラウマになってしまう存在になった。
国昭は、ここ数日間の己の数奇な運命を辿ってみた。何が悪かったのか。何を反省すればいいのか。
しかし、何をどう考えても、自分に何か非があったとはとても思えないのだ。




