二月三十日「あ2号」作戦4
プロジェクト・タナトスの進捗状況並びに、Cチームの活動実績。
・ 和知輝樹を、与那国島へと向かわせました。
・ 上田美代子に、『昆虫大全』を持たせました。
・ アルフレッド・マーカスに、『奥多摩』を植え付けました。
・ 上田美代子に、『パパーハ』を入手させました。
・ 神取篤の、コーカサス行きが決まりました。
・ 上田美代子に、『高山植物図鑑』を持たせました。
* * * * *
白い部屋。三田村の端末から『現実世界』のニュース速報が届いたことを知らせるアラームが鳴る。三田村は端末を開く。
あきる野市、臨界事故発生。
思わず、ハンニバルという男を睨んだ。相変わらず余裕そうな顔をしている。
三田村は彼にしては珍しく奥歯を震わせて、感情を表に出している。
「やってくれたな……」
「アルフレッドに核の悲惨さを伝えたいなら、この手が一番合理的だと私は思うんだがね」
「ナンセンスだ! 世界大戦終結のために、臨界事故を起こしてどうする!?」
「なんだって? ……nonsenseって言ったのか。
『大』より『小』を選んだ結果だよ。わかってるだろう」
「これで、何人死ぬんだ」
「前例からすると、三人から五人くらいじゃないか? しかし、もっと救おうとしているのだろう? Cチームは」
「違う!! これは僕たちのやり方じゃない! もっと自然で! もっとさりげなく!」
「だから、いつまで経っても本を届けたりとか、帽子を届けたりとか、そういう任務しか来ないんじゃないのか? おたくのチームは。
ともかく、これが我々Aチームのやり方だ。今後ともよろしく。では、失礼」
ハンニバルは立ち上がり、紳士的な挨拶を三田村にすると、そのまま、霧のように消えた。
* * * * *
『現実時間』十七時過ぎ。あきる野市「きぼう臨界実験施設」
陽は傾き始めていた。
横田基地の搬送車両があきる野市の「きぼう臨界実験施設」に到着すると、そこはすでにサイレンと怒号が入り混じった異様な空気に包まれていた。
赤色灯を点滅させた消防車と救急車が列をなし、防護服姿の職員たちが慌ただしく出入りする。
施設の正門前には黄色いバリケードテープが張られ、地元警察が交通を遮断していた。
車両から降りたマークは、防護マスク越しに冷たい空気を吸い込む。だがその冷たさは、むしろ汗ばんだ首筋をじりじりと焼くようだった。
見慣れたはずの多摩の山並みが、背後でただ静かに佇んでいる。自然の穏やかさと、目の前で人間の混乱の落差が、かえって不気味に思える。
「負傷者、こちらです!」
消防隊員が英語混じりに叫ぶ。担架に横たわるのは二人の日本人作業員。目を閉じ、呼吸は浅く、皮膚は不自然に蒼白だった。
火傷も外傷もない。ただ、何かに全身を削られたような表情だけがそこにあった。
マークは反射的に一人を担架ごと持ち上げ、救急車へと走る。だが、すぐに異様な感覚に襲われた。
煙もない、炎もない。にもかかわらず、肺の奥がざらつき、喉に金属の味が広がるような錯覚。耳の奥では、線量計のカチカチというカウント音が途切れることなく続いている。
「早く、外へ! 外気に!」
日本語で叫ぶ声。マークは仲間と共に、倒れた作業員を外へ搬出する。
その間にも、施設の奥から別の職員がよろめきながら現れる。足取りはふらつき、白い手袋の指先が震えている。
彼を支えようと駆け寄った瞬間、マークはためらいを覚えた――触れていいのか、触れれば自分も“何か”をもらうのではないか。
だが次の瞬間、身体は迷わずその肩を抱えていた。背中にのしかかる重さ。人を助けることと、自分の恐怖のあいだに、選択の余地はなかった。地上は、まさに地獄だ。
担ぎ出した瞬間、マークの脳裏にまたあの言葉が浮かぶ。
――Pray fucking underground.
笑い話になったフレーズが、いまや現実の皮肉として突き刺さる。
火も爆発もないのに、人は崩れ落ちていく。核は、目に見えぬ形で生を奪う。祈る以外に何ができる?
搬送を続けるうち、汗が背中を流れる。防護スーツの内側は蒸れ、息は苦しい。
だがその苦しさよりも、目に見えない“敵”に触れているかもしれないという想像の方がはるかに重い。
周囲のサイレンは途切れることなく鳴り、職員たちの叫びが混じる。救急車のドアが閉まる音が響くたびに、マークは無力感に打ちのめされた。
自分が運んでいるのは人間か、それとも“既に奪われつつある命”なのか。
その問いに答える者はいない。あるのは、冷たい冬空と、見えない放射線の雨だけだった。
救急車が最後の負傷者を載せて走り去った頃には、太陽は山影に沈みかけていた。
赤と青の回転灯だけが、施設の前庭に乱反射している。サイレンはまだ鳴り続けているが、初動の慌ただしさはすでに静まり、代わりに疲弊と沈黙が漂っていた。
マークは防護スーツのファスナーを下ろし、厚いマスクを外した。
外気が一気に流れ込む。肺いっぱいに冷たい空気を吸い込むはずが、胸の奥には金属的な重さしか残らなかった。額から滴る汗が顎を伝い、凍える風に触れて冷たくなる。
「マーク! 大丈夫か?」
同僚が声をかけるが、マークは応えられなかった。足元がふらつき、膝が勝手に折れる。アスファルトに手をついた瞬間、全身が小刻みに震えだす。
体力の限界ではない。恐怖と、理解したものの重さが、彼を内側から崩していた。
――煙も、炎も、爆発もなかった。
それでも、人は倒れ、命を削られていた。
彼が運んだ担架の上の顔は、みな同じ蒼白さを帯びていた。
そして、彼らが助かる見込みは、限りなく少ないことが直感でわかった。
マークは空を仰いだ。冬の空は澄み渡り、星の瞬きさえ始まっていた。その清澄さと、地上で起きた惨禍の落差に、吐き気が込み上げる。
脳裏に、しつこくあの言葉が浮かぶ。
――Pray fucking underground.
この言葉を、基地内で笑う人間はもういないだろう。それはマークも同じだった。
祈る以外に人は何ができるのか。人間は、目に見えぬものに支配されてしまったのか。
「核は……爆弾じゃなくても、人を殺す」
自分でも驚くほど小さな声が、マスクの内側に残った息の匂いとともに漏れた。誰も答えない。答えられる者などいない。
装備を脱ぎ捨てた彼の手はまだ震えていた。爪の下にこびりついた埃を見つめながら、マークは胸の奥で確信した。
これは兵器ではなく、人類が抱えた“罰”そのものだ。
戦場でならまだ、敵を撃ち落とすという理屈がある。だがここでは理屈などなく、ただ「存在する」というだけで人間を壊す。
嫌悪感は、恐怖を越えて憎悪に変わっていった。
彼は二度と忘れないだろう。この日、二月三十日の夕刻に見た、炎のない地獄を。




