二月三十日「あ2号」作戦 3
プロジェクト・タナトスの進捗状況並びに、Cチームの活動実績。
・ 和知輝樹を、与那国島へと向かわせました。
・ 上田美代子に、『昆虫大全』を持たせました。
・ アルフレッド・マーカスに、『奥多摩』を植え付けました。
・ 上田美代子に、『パパーハ』を入手させました。
・ 神取篤の、コーカサス行きが決まりました。
・ 上田美代子に、『高山植物図鑑』を持たせました。
* * * * *
『現実時間』十四時二十分、あきる野市「きぼう臨界実験所」
壁のアナログ時計がカチリと音を立て、実験棟の換気ファンがかすかな低音を響かせていた。
白い蛍光灯に照らされたステンレスの配管とバルブ。床には黄色と黒の縞の注意テープ。空気には薄く、金属と酸のにおいが混じる。
「急ぐぞ、今日中に済ませておきたい」
現場責任者が短く言う。
「……」
作業員は、言葉を返さず、ただ虚に透明の防護フェイスシールドを下ろした。
現場監督は、この時点で何か違和感を感じていた。
作業台に置かれたのは、無害そうな家庭用のじょうごと、化学実験室でよく見かける青いバケツ。ラベルには手書きで「硝酸ウラニル」とある。
「未来を担う国家事業」を謳う会社なのにも関わらず、経費削減とノウハウ不足で備品も機械も人員の練度も作業マニュアルも、一昔前のものだった。
本来の手順なら、専用の移送ラインと中間タンクを経て、規定の体積・形状管理下で徐々に送る――はずだった。
だが目の前の作業員は、何かに取り憑かれたようにただただ……バケツを沈殿槽に注いでいった。
バケツの液面が揺れる。黄色がかった溶液がじょうごを伝い、沈殿槽の口から音もなく落ちていく。沈殿槽は太く背の低い円筒――“扱いやすい”形。扱いやすさと核のご機嫌は、往々にして相性が悪い。
十四時二十五分。
最初の「それ」は、音ではなく、色で来た。
青白い閃光が一瞬、室内を洗い流す。蛍光灯の光とは違う、芯の冷たい青。誰かが「え?」と半拍遅れて声を漏らす。
視界の端で、壁の線量計のバーグラフが跳ね上がった。次の瞬間、天井スピーカーから発報音――耳障りな、だが全員が聞いたことのない速度で脈打つ警報。赤い警告灯が、無表情に点滅する。
「止めろ!」
責任者が叫び、バケツを持っている作業員はようやく正気に戻る。手が硬直する。止める――何を?
手順書のページはすべて、起こしてはならない事象の前で止まっている。起きてしまった“今”のためのページは薄い。沈殿槽の奥で、目に見えない計算が進む。落ちた滴は質量を重ね、形を取り、やがて“臨界”という、人間の名付けた境界線を越える。
ピカという一瞬の光と共に作業員の一人がよろけた。額に汗が吹き出す。顔色が引く。
もうひとりが急いで肩を支えようと手を伸ばし、ためらって引っ込める。触れていいのか、悪いのか、判断と恐怖が一歩ずつ絡む。
フェイスシールドの内側で息が荒くなる。喉の奥に鉄の味がひろがる錯覚。視界の隅で、携帯用の中性子計数器が怒り出したようにカチカチと跳ね、やがてカチ、の単位では追いつけない連続音に変わる。
「退避! 退避!」
訓練で聞いたことのある言葉が、現実の空間でまるで別物の重さを持つ。防火扉が自動で閉まり始め、空調の風量が落ちる。誰かが非常停止を叩き、別の誰かが電話に飛びつく。番号は貼り紙に書いてある――が、指が震えて数字が飛ぶ。
沈殿槽の脇に置かれたじょうごから、黄の一滴がまだ垂れている。止まっているのか、続いているのか、見た目には分からない。ただ、装置の奥の『計算』だけが止まらない。
最初に倒れたのは、青いバケツを持っていた若い作業員だった。膝が床に落ちる乾いた音。周囲の二人が駆け寄り、腕を取って引きずる。防護服の外側に散った液体が、床の微かな傾斜に沿って細い線を描く。シューズの裏がきしむ。
「救急要請! ――いや、まず線量測ってからだ!」「測ってる暇はない、外だ!」
正しい言葉と、生き残るための直感が、同時に叫ぶ。どちらも正しい。どちらも遅い。
中庭に通じる扉が開き、冷たい空気が流れ込む。外光にさらされた瞬間、室内の“青”が色を失う。警報だけが変わらない速さで鳴り続けている。
敷地の外で、冬の陽が傾く。スギとヒノキの梢が風に揺れ、遠くを走る救急車のサイレンが、やがてこの場所の警報と混じり合う。
十四時四十五分、施設の守衛所には、緊急通報の赤いボタンが押し込まれたまま、電話が二本、三本と同時に鳴り始める。館内の回線は渋滞し、発信履歴に「関係各所」の名前が積み上がる。
ゲートの外側、私道と県道の境では、警備員が反射ベストを羽織って立ち尽くし、何を止め、何を通すべきかを一瞬で決めることを迫られている。内ポケットのマニュアルは、ここで役に立たない厚みを持っている。
沈殿槽の上では、誰も見たくない“安定”が続いていた。安定――つまり、臨界が持続しているという意味だ。光はもう見えない。だが、見えないことは、ないという意味ではない。
カウンターの数字は、静かに、確実に、上がり続ける。
「……発災を宣言します」
管制室の責任者が、受話器の向こうの声に向かって言う。その声は思ったより落ち着いていた。落ち着いているということは、恐怖が現実になりきってしまったということだ。
十五時。
施設名が、外に流れる。地図が、画面の上で拡大される。
救急車両と消防、自治体、そして――横田基地の司令室にも、通知は届いた。
その時点で、まだ誰も知らない。今日ここで人の未来が複数、突然短くなること。ここで起きたのが「爆発」ではなく、「見えないものの持続」だということのほうが、どれだけ残酷かということを。
* * * * *
『現実時間』二月三十日、十六時を過ぎた頃。あきる野市で上がった緊急通報は、消防庁・警察を経由して米軍基地にも伝達された。
「きぼう臨界実験施設にて、臨界の可能性あり」――日本語と英語が混ざる報告が、横田基地の司令室に飛び込んできた。
分厚い防音ドアの向こう、司令室の空気は即座に張り詰める。巨大スクリーンに関東の地図が表示され、赤い点滅が西多摩の一角を示す。青い制服と迷彩服の人間が入り混じり、ヘッドセットを通じて矢継ぎ早に情報がやり取りされる。
基地内の隊員たちは、「あきる野市」という、聞き覚えのある地名で、恐ろしい事態が起きていることを知った。
それは火災ではなく、「臨界」
「複数の作業員が倒れている」「地元消防が到着中だが、放射線量が不明――」「住民が、基地内のシェルターに避難させてほしいと押し寄せている」
事態は混乱を極めた。
アルフレッド・マーカス二等兵は ブリーフィング席に呼び出された。
パイロットとしての任務は飛行だ。だが今日は自衛隊の救援部隊に補助として加わるよう命じられる。
「マーカス、……地元に詳しいな?」
「はい、先ほど地図を書いたところなので」
皮肉なことに、先ほどの作業が非常に役に立ってしまった。
「ならば輸送班と一緒に行け。ジャパンの自衛隊と連携して負傷者を搬送しろ。現場は混乱している。通訳を兼ねてだ」
彼は短く頷いた。任務に異を唱える立場ではない。だが胸の奥がざらつく。
臨界事故――文字の響きだけで背中に冷たい汗が流れる。
訓練では習った。起きてはならない、だからこそ想定が薄い。爆発のように見えるのに、実際には音も煙もない。ただ「見えない光」が人間を削る。
「装備はNBC対応だ。被曝の危険はある。だが現地は待ったなしだ」
上官の言葉は乾いていた。
準備室に走り込むと、分厚い防護スーツとマスクが並べられている。隊員たちが黙々と着替える。笑いも冗談もない。マークは腕を通しながら、喉の奥でつぶやいた。
「……Pray fucking underground」
誰かの悪戯で、避難誘導マップに書かれていた文言だ。本当にこれは悪戯だったのだろうか、自分は今、悪い夢を見ている最中なのではないだろうか?
タチの悪い言葉が頭の裏でこだまする。誰かの悪戯のはずが、現実の指示のように響く。祈る以外に人は何ができる?
十六時二十分。
搬送用の車両がエンジンを吹かす。赤いランプが回転し、ゲートが開かれる。
アルフレッド・マーカスは車両に乗り込んだ。これが「核の現実」と初めて真正面から向き合う時になることを、彼はまだ知らなかった。




