アルフレッド・マーカス『現実時間』二月二十五日
『現実時間』二月二十五日。
冷たい風が奥多摩の谷間を抜けていく。二月の終わり、山肌にはまだ霜が残っているが、陽の当たる水面には微かに春の気配が揺れていた。
渓谷の流れは澄みきっていて、岩影にはイワナの影がちらつく。
「……さむい、でも……とってもキレイ」
マークことアルフレッド・マーカスは、かじかむ手をこすりながら竿を構えていた。厚手のジャケットの下から覗く頬は、冷気で赤い。
隣で糸を直していた銀髪まじりの男、ギン……と言う男を演じる中条が大きな『くしゃみ』をした。
もう、奥多摩でマークと会うのはこれが何度目なんだろうか?
マークは釣りを覚えてから、すっかりハマってしまったようだ。
嘘だと思うが、銃の手入れより、釣り竿の手入れの方が時間がかかると言っていた。
中条扮する、渓流釣りマスターのギンとマークは、予定を合わせることなどしない。マークがふと、ここ鳩の巣渓谷にやってくるとギンが既にいると言う具合に、
偶然二人は居合わせるのだ。……マークの視点では。
他の場所も行くには行くが、やっぱり奥多摩は特別だとマークは言う。
特に冬。奥多摩の冬は、トーキョーじゃ感じられない本物の「冬」を感じられるのだそうだ。
「奥多摩の冬はこういうもんさ。慣れりゃ、この冷たさも悪くねぇ」
「マスター・ギン(そう呼ばせている)、ワタシ……モンタナで暮らしていました。川広い。でも……こんな、山の声……ない」
言葉を探すように、マークはぎこちなく日本語を紡ぐ。
ギンは笑って、軽く顎をしゃくった。
「んなことないと思うがね。でも山の声、ね。いいこと言うじゃねえか。ここはな、谷全体が生きてる。魚が釣れなくても、それを聞くだけで十分だ」
なんてそれっぽいことを言ってはみるが、それはマスター・ギンの全く釣れない時の言い訳だ。
……別にこれは任務なのだから、魚が釣れようが釣れまいが関係がないのだ、とギンは思っている。
しかし、思いのほかマークにはその言葉が刺さったのか、彼は耳を澄ました。雪解けの滴る音、枝を渡る風、遠くでカケスの鳴く声。都会のざわめきとはまるで違う。
突然、水面が弾けた。
「おっ!」
ギンが竿を軽くあおる。銀色の魚が跳ねて、あっという間にタモに収まった。
「ヤマメだ。ほら、見てみな」
マークは身を乗り出し、子供のように目を輝かせた。
「amazing……。マスター・ギン、すごい!」
「はは。どんなもんだ」
マークは深呼吸をして竿を握り直す。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、心まで澄んでいく気がした。奥多摩の山と川が、少しずつ自分の内側に入り込んでくる。
「……ワタシ、ここ、好きです」
ギンは笑い皺を深くして頷いた。
「そうか。じゃあもうお前も、山に呼ばれた男ってことだな。……いっそここに住んじゃえよ」
ギンは、いや、中条はさりげなく核心に触れた。
ついつい忘れがちだが、アルフレッド・マーカスと言う軍人を、将来的に奥多摩に住まわせることが任務の本質である。
「ウーン、お金、ない。山の神サマ、貧乏に厳しネ。sorry」
「金か。まあ、金はな。……でも金ができたら、奥多摩に住むか?」
「ワタシ、ソンナ金持ちになる予定ないヨ。山の神サマ、マジでsorry」
人懐こい笑顔でマークは笑う。
……いいやつなんだろうなこいつも。山の声が聞こえる、誠実な青年。
そんな奴を、騙すというか……都合いいように操作する。
神様でもあるまいに……
「……ま、神様みたいなもんか」
「Hun?」
「いいや、なんでもねえよ。金持ちね」
「デモ、お金持ちなったら、ワタシここで住みたいデス。奥多摩好き。
私、ここで、musicianになりたいです」
「ミュージシャン?」
「ココで静かに暮らして……play guitar……アー……like a Bob Dylan」
「なるほど、夢があるってことだな」
中条が『夢』と言う言葉を使うと、マークはそれに強く反応し、思わず中条を指差した。
「yes! ハイ! ソレ!! ワタシのユメです!!」
夢。
あれは多分ベトナムのどこかだと思う。
土臭い昼下がりで、生ぬるい風が吹いていて、車も、原付バイクも、一台も走ってなかった。
木が風に揺れていて、煙があちこちに登っていて、動いてるものはそれ以外何も無かった。
民家の窓はどれも空いていて、人間が身を乗り出して、窓枠から垂れ込んでいる。
道端にも人間が、胎児のようにうずくまっていて、その顔は……
その顔は……自分で顔の皮膚を掻きむしって絶命している。
「マスター・ギン!!」
中条が正気に戻ると、マークが心配そうにこちらを見ている。
「ん!?」
「hit! ヒイテルよ!!」
マークにそう言われて、釣竿を魚に引っ張られている感覚が蘇った。
慌てて竿を引き上げるが、そこには剥き出しの釣り針だけ残っていた。釣り針が中条を笑っているように見えた。
(よかったな。お前は窒息しなくて……)
中条は、逃げていった魚に心でそう、語りかけた。
近くでは、マークが笑い転げている。
「『コウボウモ、フデニ、ゴメンナサイ!!』」
弘法も筆の誤り、と言いたかったのかな? 間違ってるが変な日本語を知ってるな。
中条は、アルフレッド・マーカスのことが嫌いになれなかった。いや、正直、友情めいたものは感じていた。
いい奴だと思う。
……Cチームの次の任務は、このマークが対象らしい。
まだまだ、どこに転がるのかわからないこの任務が続く。
……終わらないんじゃないかとすら、中条は最近思い始めている。
人類に訪れる大惨事を食い止めるには、大掛かりで、回りくどいことを何度も、何度も繰り返さないといけないと言うことだ。




