上田美代子『現実時間』二月一日
年度が変わっても、上田美代子の生活に変化はなく、
時々仕事終わりにレイトショーを観にいくことだけが唯一の趣味の、美人ではあるが垢抜けない研究員のままだ。
ただ少し変わったことと言えば……
コートを新調した。
というのも去年の年末に買った白いパパーハを気に入ってしまい、研究所まで着ていったら今までの茶色いコートだと悪目立ちするのだ。
黒いコートに変えたら、なんだか本当にロシア人っぽく見える。
パパーハは暖かいし、帽子を『似合う』と言われたことが、上田の人生では初めてのことだった。
何よりこの手触りがいい。
モヤモヤすることがあっても、フワフワした帽子を触れば少しは落ち着いた。
人間は突発的な怒りを押し込めるのに六秒かかるという。
それを上田は半分の時間で乗り越えることができるようになった。最高の買い物だ。
おかげで、以前より動物が好きになった。犬とか猫を、撫でていれば幸せになれるという人間の心理が、今ならば理解できる気がする。
……と、思っているのは、上田が自分でそう思ったのか、それとも、『他者に思わされていたのか』……
* * * * *
『現実時間』二月一日。上田家。午前七時。
「……おはよー……」
上田美代子がリビングの入り口から入ってきて、
毎朝そうするように「うがい」をしようとキッチンシンクに向かう途中で……
ガン! と足が何かを蹴飛ばした。
「痛!!」
相当、強く蹴ったみたいで、その場でうずくまった。
ようやく母親が美代子に声をかける。
「おはよう。どうしたのよ」
「うぅぅ小指ぶつけた……」
「何やってんのよ……」
毎朝惰性で歩けるほど慣れた道に、トラップが仕掛けてあるなんて、大概の人間はまず思わないだろう。
ましてそれが、他者が仕掛けたものだとは絶対思わない。
微妙な、本の出っぱり、わずか数センチの棚のズレ、いつもと数センチ違うドアの開きを、人間は認識できないのだ。
そしてぶつけた小指は、単にぶつけた以上の痛みがある。
記憶に植え付けるには十分な痛みだ。
* * * * *
『現実時間』二月一日、午前十時半、県立大学の研究室。
全くついてない日だ。ぶつけた小指がなんだかまだ痛いし、その足を駅で踏まれるし、今日の天気は雪……。
そしてついてない日は、ついてないことが重なるものだ。
研究室について早々に、久保井さんに話しかけられた。
「今度の日曜、時間があれば――古書店を覗いてきてもらえないか」
古書店の話は、「よく」久保井さんから聞く。
そういう掘り出し物は久保井さんの趣味だし、だいたいそんな趣味を持ったのは久保井さんの家の近所に『ある』からではないか。
古書店が……。
なのになんで私が? 上田はそっと、デスクの上に置いた帽子を触った。
「いやね、最近ちょっと面倒なことがあってさ」
「面倒……」
「うん。昔の培養法、昭和の頃の和書なんだけど、どうにもネットには情報が上がっていないんだよ」
……? ?『昔の培養法?』なんのだろう? 今研究所が取り組んでいるのは、新型感染症ウイルスの研究だけれどもそれに、『昔の培養法』が関係するのだろうか?
「図書館の目録みましたか?」
「見たけど載ってないんだよ。
いや、別にすぐ必要ってわけじゃないんだよ。
ただ、今の研究テーマの補強資料になるかもしれなくてね」
「はあ……」
「僕が自分で行けたらいいんだけど、次の休みは地方に講演で呼ばれててね……
できれば上田さん行ってくれたら助かるんだけど」
「え、わかりました……」
「ありがとう! 上田さんなら任せられるよ。
現物を見つけたら、タイトルと出版年だけでもメモしてくれれば助かる。
もちろん、なければそれで構わない。
ついでに、何か気になる本があったら、君の勉強用に買ってきてもいいから。
どうせ研究費で落とせる範囲の安価な古書だろうし。
頼めるかな?」
「わかりました……」
どうせ休みは何もすることがないから、別に良いのだけれども雑用とは……。
それも、今の仕事とは関係なさそうな、要するに久保井さんの個人的な何かのフォローということじゃないのか。
全然釈然としないまま、NOとも言えないので引き受けてしまった……。
* * * * *
『現実時間』二月一日。二十一時。
なんだか気分が晴れない日は、以前はお酒の力に頼っていたが最近は、図書館に行くことにしている。
この図書館は去年の年末に知った図書館で二十四時間会館している。
図書館は落ち着く。
人間に囲まれるというのは不愉快極まりないことなのに、本に囲まれるというのはどうしてこうも多幸感を得られるのだろう。
そういえば、本の虫の久保井さんが言っていた。
「人間は裏切るが、本は裏切らない」
……久保井さんを思い出して、同時に明後日の休日に雑用を押し付けられたことを思い出した。
別に用事があるわけではないのでいいのだが……。
席を一つ選んで、荷物を置いて帽子とコートを脱ぐ。
図書館は今日も、こんな時間でも何人かの人間がいて、本を探したり本を読んだりして、全員でこの静かな時間を共有している。
本が好きなわけではない上田は、なんとなくサイエンスコーナー、それも、細菌や微生物の書物が並んでいる棚に引き寄せられてしまう。
別に意識が高いわけでも、向上心が強いわけでもないと自分では思っているのだけれど、やはり無趣味なのだろう。
化学書がずらりと、お行儀よく並ぶ棚の間を歩いていると、目を引くものを見つけた。
……本が、一冊出っぱっている。
それと連動して、思い出したように足の小指が痛くなった。
おそらく誰かが適当に棚に突っ込んだのだろう。
とは言え、ただ本が出っぱっているだけだ。いつもの上田なら別にこんなものに興味を示さないのだ。
いつもの上田なら。
しかし今日はそうもいかなかった。この出っぱりに誰かが、ぶつかって痛い思いをしたら可哀想だ。
ふうとため息を漏らして上田は、不自然に飛び出ている本を押し込もうとして違和感を覚えた。
……『高山植物?』
ここは微生物の欄のはずだ。高山植物の本が置いてあるのは不自然だ。
思わず手に取ると……
表紙が古い本のようなモアレ生地だった。
フサフサした触感で触り心地が良く、しばらく触ってしまった……。
するとそこに……
「お? その本が気になるのかい?」
近くにいた、優しそうなおじさんに話しかけられた。




