一月二十三日 「か号」作戦
プロジェクト・タナトスの進捗状況並びに、Cチームの活動実績。
・ 和知輝樹を、与那国島へと向かわせました。
・ 上田美代子に、『昆虫大全』を持たせました。
・ アルフレッド・マーカスに、『奥多摩』を植え付けました。
・ 上田美代子に、『パパーハ』を入手させました。
* * * * *
神取篤の、ウィーン行きが突然決まる一週間前の事である。
現実時間、一月二十三日。深夜二時。
直江教授の寝室のデスクには、森林生態に関する論文や、環境問題改善プロジェクトの資料が積み上がっている。
そしてデスクの目立つところに、『アジアの森林管理と持続性、ウィーン』とタイトルが付けられている。
寝室で寝息を立てている壮年男性は、もちろん直江教授本人である。
深くシワの刻まれた顔は、目を閉じているとしても厳格さが伝わってくる。
傍に気配もなく立っているのは黒スーツ、中条である。
暗視ゴーグルを装着し、手には、注射器が握られている。
それはほとんど流通していない、イブプロフェンの静脈注射製剤であり、それは主に手術後の疼痛管理などごく限られた場面で使用される。
それを中条は、全く異なった事に使用しようとしている。
イブプロフェンには、腎機能を悪化させるリスクがある。
それを、静脈に直接打ち込もうと言うのだ。
壁には、おそらく直江教授自身が描いたのであろう野鳥をモデルにしている水彩画が何枚か飾ってある。
おそらく、仕事と私生活とで裏表のない、真面目な人間なのだろう。
そんな人間に今から自分がしようとしていることを考えると、どうにも気が滅入ってくる。
それまで『任務』で行ってきたことが、間接的に大事件になったことは少なくない。
……こんなあからさまな方法で、人間に害を与えることは初めてだ。
目の前で平和に寝ている人間に、恨みなどない。
まして直江教授は、地球環境保全のためにウィーンにまで行こうとしている人間である。
そんな人物を、なぜ苦しめねばならないのか?
もちろん、未だ発生すらしていない世界大戦の終結のためである。それは、地球環境とを秤にかけた時にどちらが『世のため』だ?
ため息が漏れそうになり、必死で押し殺した。
もはや中条には、『任務』の事を理性で考える事に疲弊している。
善悪の所在の関係なく、目の前の善人の腎臓を破壊する。全く嫌になってくる。
アメリカ兵に釣りだけ教えていたかった。
悪いな。
中条は、そっと、直江教授の静脈に素早く注射した。
* * * * *
中条が、直江の腎臓を悪化させ、日本から出られない体にした事以外は、この任務はさほど難しくなかった。
『コーカサス環境調査隊』の中で、神取と連絡先を交換した人物を見繕って、三田村がジャックして調査団内部の情報を神取にメールで送った。
これが一応機密情報で、しかも送った相手が政府と険悪状態の神取である。
メールの送信元の人物は、この誤送信が原因で調査団を外れる事になった。
これで調査団に欠員ができる。
次にCチームは何をしたか?
鮎川が学長の体を借りて、神取にパスポートを取って松本で講演するよう命じた。それだけである。
あとは気味が悪いほどとんとん拍子に話が進んだ。
言い方を変えると、調査団の欠員が出た時にも、ちょうど入院中でやることがない直江教授が神取を強烈なまでに推し、政治家連中を黙らせて神取を押し込んだ。とも言う。
また、直江に代わって松本に向かった神取の、『アジアの森林管理と持続性』と言うテーマは直江の意見や問題定義を完全に補完した内容で、
講演に同席していた『コーカサス環境調査隊』隊員が感銘を受けてその場で名刺交換に至った。
Cチームにしてみれば、横田基地のアルフレッドの件や、前回の金沢の苦労が嘘みたいだった。
それほど、神取の能力が『コーカサス行き』に適していたとも言える。
金沢の時のような妨害も、今回は無かった。
Cチームが手を下さずとも、神取は勝手にコーカサスにでも、どこかのジャングルにでも行ったんじゃないだろうか? そう感じる手応えの無さだった。
* * * * *
白い会議室の外には、白い建物があり、その外にはやはり白い建物群が無限に広がっており、
あたりには黒スーツや、黒いハットを被った黒コートの人間が飛び交っており、その景色はまるでマグリットの絵のようである。
彼らが何者で、何処へ行き、何をしている最中なのか、本人たちにしかわからないし、ここが一体何処であるのかは誰にもわからない。
ただ、そこに居るだけだ。
今回の任務で特にやることが無かった藤田は、白い空に浮かんでいる黒い人間たちをぼんやりと眺めて時間を潰していた。
任務以外の時間は、実にゆっくりと動いており、
それは現実世界のそれに比べたら変化のない動きのようにも思えてくる。
実際には、今、空中を飛び交う彼らにも『任務』があり、現実世界にいる誰かの何かに干渉しているのかもしれないが、
そんなことに藤田は興味も持てなかった。
つまり、仕事が早く終わると退屈で仕方がないのだ。これも元人間の性というやつだろうか。
ひとまず空を見ること以外やることがない藤田が白い路上で固まっていると……
「Cチームの人……ですよね?」
『こっち』で初めて、チームの関係者以外から声をかけられた気がする。
藤田が振り向くと、鮎川と同じくらいの身長だろうか……少女と呼べるほどの小柄な、金髪で緑色の目をした女性が、恐る恐る藤田を見ている。
チームの事を、知らない誰かに言っていいのだろうか……?
対応に困り、何も言い返せない藤田に、少女が告げる。
「Aチームの、『フェイス』と申します。初めまして……、今、お時間大丈夫ですか?」
Aチーム……。まあ、Cチームがあるということは当然、Aチームがあるということなのかもしれない。
「大丈夫ですけど……なんですか?」
「あなたたちがしていること……『プロジェクトタナトス』について、どうしてもお耳に入れておきたいことがあるんです。聞いてくださいますか?」
とりあえずAチームと、『フェイス』とやらは自分の事と、『プロジェクト』の事を知っている。
ただ、信頼していい人間なのかどうかの判断がつかない。
「すみません……俺は……下っ端もいいところなんで……そういう話は違う人間に……」
「あなたは、自分がやっていることが、何に繋がっているか理解してますか?」
フェイスにそう言われて、藤田は心臓を鷲掴みされる感覚を覚えた。
今、一番自分が知りたいことだ。
「……ごめんなさい、やっぱり俺じゃない人に……」
「最近、同じような『夢』を見てませんか? 例えば、窒息して死ぬ夢とか……」
物事の核心を突かれた気がした。藤田はいよいよ、無視ができなくなった。
「何か知ってるんですか……?」
「お教えします。お時間いいですか?」




