神取篤『現実時間』一月三十日
『現実時間』一月三十日、十三時。
都内大学、神取篤の研究室。
机の上には本が積み上がり、顕微鏡や測定器具、データロガーなど、高価なものが高価に扱われておらず、
物が多過ぎる部屋はひどく散らかっている。
おそらく、他人が研究室という聖域に足を踏み入れることを激しく嫌っているのだろう。
したがって誰も清掃に入らないし、そのくせ自分で片付けるということもしないのでこのような部屋が出来上がるのだ。
フィールドワークの多い神取の衣類は常に土で汚れていて汗臭く、
髪もボサボサで無精髭という、仮にも聖職者とは思えない風貌である。
毎朝、縁の汚れたカップでコーヒーを飲みながら、メールをチェックするのだが、
デスクの上にはカップを置くスペースが既に無かった。
前までは積み上がった本の上に置いていたのだが、その本の山が賽の河原で積み上がった石よろしく高くなり、
神取はそれにも負けじと腕を伸ばして、頂上にカップを置いていたのだがそれもできなくなった。
今は、デスク傍に置いてある古くなった乾燥標本の、ガラスカバーの上にカップを直置きしている。
今朝はちょっとした悲劇がおきた。
今まで奇跡的な加圧と重心状態で積み上がっていた本のジェンガだったわけだが、
メールのチェック中に、ついに雪崩事故が起きたのだ。意外なことに初めてのことだった。
幸いカップを手に持っている瞬間だったのでコーヒーへの直撃は免れたのだが、雪崩がおきた瞬間に反射的に体を引いてしまったので、
カップからコーヒーがこぼれた。
キーボードに、新しいコーヒーのシミが出来た。
ため息と舌打ちの後、とりあえず崩れた本をどうにか片付けている時に、新着メールのタイトルが目の端に映った。
『奈森真仁、北ロシア日本大使館、ロシア環境省』
先ず誤送信を疑った。奈森なる人物のことを知らない。
なにぶん同業者は多く、いろいろなところで名刺を配っているものだから、連絡先ぐらいは知っている仲なのだろうが、メールをやりとりするような間柄ではない。
、ロシアとも、自分は接点がない。
メールを開いてみると、過度な森林伐採が進められているコーカサス地方の生態調査の内容だった。
それまでロシアは温暖化対策など環境問題に対しては後むきな姿勢をとっていたが、昨今は世界中からの批判を受けてその姿勢が変わりつつある。
このプロジェクトもその一環だろう。
それにしても、このメールはやはり誤送信だと思う。
そんな話は自分のところには来ていない。来るはずがない。
神取は数年前まで、政府の機関で働いていた。
急速に広まった大気汚染の原因が、1900年代のニュータウン計画で大量の山を切り崩した事によるものなのではないかと海外から指摘され、
森林生態回復プロジェクトという名目で組まれたチームに神取はいた。が、
外国人の顔色を窺ってばかりで現場を知らない政治家連中や、その息がかかった者ととにかく反りが合わずにストレスのみ溜まっていく生活をしていた。
ある日、酔い潰れたふりをして夜の街にて大声で、政府の環境対策批判を朗々と語った。その結果、チームを追い出されたのである。
政治家連中のウケが悪い神取が、このような国家規模のプロジェクトに参加するわけがないのだ。
それにしてもこのメールは、一応機密情報じゃないのか。
相変わらず管理が杜撰なお役所仕事だ。しかも送った相手が、よりにもよって政府と険悪な立場の自分である。
このメールを送った奈森とか言うやつは、今頃大目玉を食らっているだろうな。ざまあみろってなもんだ。
神取は、かろうじてカップに残ったコーヒーを腹に収め、苦笑いを浮かべた。
* * * * *
運命に呼ばれている感覚、などというものをそれまで神取は信じたことが無かったが、
呼ばれてるのでないとしたら説明のつかない事実は確実に存在するようだ。
神取は運命なんていう言葉を信じたことはない。
例えば、手元には、こぼれたコーヒーをすったティッシュペーパーがある。それを2m離れたゴミ箱に投げたとしたらそれも、ティッシュペーパーからしてみれば運命と言えるだろうか?
投げたティッシュがゴミ箱からこぼれて地面に落ちる。しかしそれを、気がついた別の誰かがやはりゴミ箱に放り込んだら、道筋が多少異なるだけで同じ運命だ。
別の誰かが来なかったとしても、自分がいつか気になって地面に落ちているティッシュベーパーをゴミ箱に放り込めば、やはりそれも同じ運命である。
要するに、人間は起こった事実の上澄みだけを掬い上げてそれを運命と言うが、実際にはその運命とやらに至るまでの道筋は思ったよりも多いものである。
だから、これから自分の身に起きる奇妙な出来事も、運命ではなくただただ、そういう事実があっただけである。
「神取くん、すまんが今すぐ髭を剃って、パスポートを取りに行ってほしい」
午後、突然学長に背中から話しかけられた。
「パスポート!? ……無理です授業はどうするんですか」
「もちろん代行は用意してるよ。大江くんを呼んであるから授業の引き継ぎをしてくれよ。まあ……君のその髭を剃りながらになるがな」
「なんでまたそんな……」
「君には直江くんの代理で来月ウィーンに行ってもらう。向こうの大学で『アジアの森林管理と持続性』というテーマで講演を開いてほしい。
というのもだな。本来向かうはずだった直江くんの体調がいよいよ怪しくてな」
直江とは、職場における神取の先輩格である。
確かにここのところ腎臓の数値が良くないという話を聞いてはいた。
……しかし、そういう大事な事は事前に、自分にも一言あってもよさそうなものではないか……。
「……直江さんからご指名を受けたということですか。……わかりました。一ヶ月でどこまで準備できるかわかりませんが引き受けます」
こうして神取の、二週間後の予定が突然決まった。
* * * * *
何度も言うようだが、運命なんてものはない。
この二週間後に開かれたこの学会で、神取が与えられたテーマの講演を無事に行い、
会場で名刺交換をした人物がいつぞやに、誤送信で自分に送られてきた『コーカサス環境調査』の隊員だったことも、些細な事実だ。
さらにその数ヶ月後に、本当に自分も隊員としてコーカサスに行くことになった。
パスポートを取るのも面倒くさいし、日本から出るのも億劫だったがなんとなく……「間違いでも自分にメールが来た」ことが縁で引き受けたきっかけである。
縁も運命なんかではない。事実の一つだ。
一通の、誤送信のメールから始まった、奇妙な出来事。
……もちろんその裏では、『事実』を演出するものたちがいた。




