第6話 黒猫と英雄譚
──むかしむかし、このノクティリアの地に、魔王がいたそうな。
火を吐く竜を従え、空を切り裂き、大地を焼き尽くす者。
誰もがその名を口にするのを恐れたという。
けれど、その魔王を打ち倒した者たちがいた。
ひとりは、白き刃を持つ勇者。
そしてもうひとり──
「……このこ、ボクとおんなじ耳。ネコの子なんだ!」
まるで鏡みたい、とニャエルは目を輝かせた。
子供部屋の絵本をめくりながら、幼いニャエルは絵の中の登場人物に目を輝かせていた。
窓から陽が差し込む。ふかふかの絨毯の上で寝そべりながら、繰り返しそのページを見つめる。
「えいゆうって、ボクでもなれるんだ……!」
ぱたん、と絵本を閉じると、ニャエルは勢いよく立ち上がった。
部屋の窓を開け放ち、庭へ飛び出す。
朝露に濡れた芝生の上、小さな体を構えて──ちいさな拳を突き出した。
「やっ! ふっ! ニャっ!」
黒い尻尾がふりふりと揺れる。
猫耳がぴくぴくと動く。
憧れは、いつしか日課になった。
どんなに叱られても、ニャエルは毎日、ひとりで戦いごっこを続けた。
◇
時は過ぎ──
王都エスカリオンの公爵家。
中央区に構えられたその邸宅は、彫刻が施された白い塀に囲まれ、庭には常に花が咲き乱れていた。
その庭の中央。
ひとりの少女が、拳を構えて立っている。
黒い耳、黒い尻尾。
引き締まった肢体に、短く整えられた黒髪。軽装ながら、どこか気品をまとっている。
「ふっ、ニャっ……はっ!」
ガントレットを付けた拳が、迷いなく空を斬る。
その動きは、まるで自分の未来に挑むような勢いだった。
「……舞台は、整ったニャ」
少女──ニャエルは空を見上げた。
今日の空は、なんだか自分に味方してくれている気がする。
「ニャエルお嬢様!」
背後から、控えの声。
教育係のエリダが、慌てて駆け寄ってきた。
「お庭で鍛錬など、また叱られてしまいますよ……! 今日は礼儀作法の復習日でしたのに!」
「はいはい、わかってるニャ」
答えながら、手についた土をぺしぺしとはたき、スカートの裾を直した。
おてんばなニャエルにしては珍しく素直な返事に、エリダは首を傾げる。
「……ずいぶん聞き分けが良いような?」
思わず、エリダは息をゆるめる。
「わたしも大人になったニャ」
ニャエルはにこりと笑った。
けれど、その笑顔にはどこか、寂しげな影が差していた。
エリダはそれに気づかず、ただ微笑む。
「……そうですか。珍しいですね」
◇
──深夜。
すべての明かりが落ちた屋敷の中。
ニャエルは足音を忍ばせて階段を上がり、天窓の鍵を外す。
月明かりが差し込む隙間を抜け、するりと屋根の上へ出た。
王都の夜。
広大な街並みの灯が、きらめく宝石のように広がっている。
遠く、城の尖塔が月に照らされ、微かに風鈴のような鐘の音が聞こえる。
──ぱたん、と足元にリュックを下ろし、腰を下ろす。
風が頬を撫で、黒い耳がそっと揺れる。
長い尻尾が、瓦の上にぴたりと沿う。
「ほんとに行くんだニャ……」
ひとり言は、夜の静寂に吸い込まれる。
けれど、胸の奥は、ずっと知っていた。
ここでは、きっと英雄にはなれないことを。
家の誰も、その夢を笑いはしなかった。
けれど、誰も本気にはしてくれなかった。
まるで、子猫の寝言みたいに。
──夜空には、果てしない星々。
どこかに、自分の物語があるはずだと信じて。
にやりと笑い、ニャエルは立ち上がる。
「行くニャ。……ボク、ひとりでも、なれるもん」
黒い影が、屋根の上から跳ね、夜の王都にそっと溶けていく。
その先に、自分だけの物語があると信じて。