第1話 エリチェの風
ティアが見上げた空は、高く澄んでいた。
朝露を含んだ風が、丘の上の木々をそっと揺らしている。
山間に広がるエリチェ村は、まだ眠たげな薄青の空気に包まれていた。
畑の土は冷たく、足元には靴に馴染まない小石が当たっていた。ティアはスコップの柄に体重をかけながら、小さな溜息を吐いた。
「はあ……今日も石ばっかり」
腰を伸ばして畑を見渡す。まだ誰も来ていない。早起きは苦手な村人が多い中、朝の農地はティアにとって静かな時間だった。
草の匂いと、乾いた土の感触。頬に触れる風だけが時間の流れを告げていた。
ふと、村の方から声がした。
「おーい、ティア!またひとりで畑かい」
顔を上げると、麦袋を担いだカリムじいさんが笑いながら手を振っていた。
「おはようございます、カリムさん。今日は早いですね」
「腰が痛くて眠れなかっただけさ。若いもんはまだ布団の中だろうな」
そう言って、カリムは近くの木の根元に腰を下ろすと、ティアの手元を眺めた。
「丁寧な仕事だ。ほんと、器用だなあ」
「いえ、まだまだです。……土が固いのは苦手で」
「いやいや。おまえさんが来てから、ここの畑もよく育つようになったよ」
ティアは少し困ったように笑ってから、スコップを肩に立てかけた。
「ちょっと水を汲んできます」
小走りに畑を離れ、川沿いの水汲み場へ向かう途中、ティアはいつも通りの朝を感じていた。子どもたちが駆けていく声、犬の吠える音、パン屋の窯が開く匂い。
それらはどれも、彼女が大切に思っている“日常”だった。
「おはよう、ティアちゃん」
道の途中、老婆が腰をかがめて薪を拾っていた。ティアは駆け寄って手伝いながら挨拶を返す。
「お手伝いしましょうか?」
「いいのいいの、重くないから。……でも、ありがとうねぇ」
ほんの少しのやりとりが、朝の空気に温度を与える。
水を汲み終えた帰り道、ふと、ティアは歩みを止めた。
空を仰ぐ。風が、草の穂と彼女の前髪を撫でた。まるで何かを囁くように。
──そのときだった。
「ティア、戻ってくれ! 北の森に……魔物が出た!」
村の若者が血相を変えて走ってきた。
水桶を置いて駆け戻ると、広場には数人の村人が集まり、討伐隊の編成を話していた。
「おい、誰か武器の扱いに覚えのある者は──」
その声に、ティアは思わず名乗りを上げた。
「……わたし、行きます」
声に出した瞬間、自分でも驚いた。けれど、体がもう決めていた。
一瞬、場が静まる。けれどそれを破ったのは、村の年寄り“リゼ婆”だった。
「その子を連れて行きなさい。風が、あの子を選んでおる」
誰もが、少し戸惑いながらも頷いた。
ティアの足元に、そっと風が吹いた。