第3話「初討伐、荒野に響く二つの鼓動」
ギルドール西門を抜ける街道は、雪解け水を吸った黒土と淡い草芽の香りで満ちていた。朝靄の奥で雲が桃色を帯び、春の息吹が大地に滲む。レオンは肩に木製の盾、腰に鉄のショートソード、背嚢には乾いた黒パンと水袋。隣を歩くリアナは粗末なマントに杖一本――だが翡翠の瞳には強い決意が宿っていた。
「ウサギ五体、ですよね……」
「うん。角も牙もない獣型だが、跳躍力と脚力が高い。反復横跳びの鬼ってところだ」
冗談にリアナが目を丸くし、ふっと笑った。昨夜の不安げな表情は影を潜めている。レオンの胸に小さな安堵が灯った。誰かと肩を並べて冒険へ向かう――それだけで世界は輝きを増すらしい。
城壁が遠ざかる頃、低灌木の間を白い影が駆けた。耳の長い、ずんぐりとした野生ウサギ。その背から突き出す骨質の棘が朝日に光る。「棘ウサギ。あれが目標だ」 レオンが囁くと同時に、五体の群れがこちらへ気付いた。ぴょん、と弾かれた石のように跳び、刹那散開。俊敏な個体がリアナへ向かって突っ込む。
「《アクア・スネア》!」
少女の杖先が淡青に輝く。地面から湧いた水の鞭がウサギの足首を絡め、動きを封じた。レオンは駆け寄り、踏み込みと同時に水平斬り。乾いた音、白い体毛を血が染めた。足下でウサギが痙攣し静まる。
残り四体。左右から同時に飛びかかる二体を盾で受け、衝撃を殺した瞬間、後方の一体が跳び越し背後を狙う。だがレオンの視線は通路を読む剣士のように冷静だった。半身でかわし、肘で側頭部を叩く。もつれた獣に逆袈裟。二撃目の抵抗は短かった。
「リアナ、右背後!」
呼吸と共に声を飛ばす。新芽を踏みつけた音。リアナが振り向いた時には第三のウサギが目前だった。少女の頬が強張る。だが足は動いていた。杖を逆手に握り込み、突き出す。木杖の石突きが獣の鼻面を打つ。怯んだ隙に小ぶりな氷塊を拳大に生成し、額へ叩き付けた。きぃ、と悲鳴が上がり転倒。
「よくやった!」
レオンは最後の一体へ駆けた。茂みに潜み逆襲の機会を伺う個体。剣を構えた少年へ向け、白弾丸が飛ぶ。半身を捻り躱す。跳ねた獣の着地点を読み、手首を返し突きを合わせる。刃が柔肉を貫通、土を濡らした。薄桃の空気に鉄の匂いが溶ける。
呼吸が弾む。静寂。風が枝を撫で、朝の鳥が囀る。リアナの肩が上下し、杖を抱える指が震えていた。レオンは剣を収め、ゆっくり歩み寄る。
「大丈夫?」
「……はい。でも、足が、少し」
見ると裾に棘がかすって裂け、小さな傷が赤く滲む。レオンは水袋を差し出し、切創を洗う。リアナは痛みに目を瞬かせつつ笑った。
「思っていたより……私、動けました」
「十分だよ。怯えても足が動いた。あれは勇気だ」
褒め言葉が頬を熱くしたが、リアナは顔を赤らめたまま「ありがとう」と囁いた。朝日が二人の間に黄金の帯を置く。
◆ ◆ ◆
ギルド帰還報告。受付台に並ぶ五体の棘ウサギが注目を集めた。粗野な男たちが「初討伐で五体? ただのガキじゃねえな」と舌を巻く。受付嬢は驚きつつ手早く解体証明を作成し、銀貨五枚を差し出した。
「Dランク新人としては上出来です。明日からは上の依頼も選べますよ」
銀貨の重み。リアナは硬く握りしめ、涙ぐんで礼を言った。レオンは初報酬を見つめる。金貨換算で半枚。だが、これは前世の自分が一度も掴めなかった“自分の力で得た対価”だ。胸が熱くなる。
◆ ◆ ◆
昼食はギルド酒場のランチ定食。塩気の利いたベーコンと豆のスープ、黒パン、酸味の強いヤギチーズ。リアナは頬を赤くしながらゆっくり味わい、何度も「美味しい」を繰り返した。貧しい旅人には贅沢な献立だが、稼ぎの祝賀になら十分だ。
ふと、隣卓の会話が耳に入る。盗賊団〈黒針〉が北の街道で隊商を襲い、十人を斬ったという。王都から討伐令が出たが、討伐対象は最低Cランク推奨――新人には遠い世界だ。だがレオンの胸で火種が弾ける。いつか自分も、弱き者を脅かす闇を払える剣になりたい。
杯を置き、リアナに視線を戻すと彼女も真剣な面持ちで耳を傾けていた。
「いずれ……ああいう人たちも助けられるようになりたいですね」
柔らかな声に揺るぎない芯が見える。レオンは頷いた。
「そのために、できることを一つずつやろう」
◆ ◆ ◆
午後は市場で装備を整えた。リアナには革のスパッツと簡素な胸当て、木製のバックラー。支払いは銀貨三枚。少女は恐縮したが、レオンは首を振った。
「仲間の装備は投資だ。強くなって一緒に取り返そう」
リアナはペンダントの蒼石に視線を落とし、小さく微笑んだ。
買い物を終えると、石畳の向こうで剣戟の音がした。広場の臨時演武台で、旅芸人が“抜剣舞”と呼ばれる曲芸を披露しているらしい。剣を翻し絹のような足運びで舞う女剣士。その圧倒的な速度に観衆が湧いた。レオンとリアナは足を止め魅入る。いつか、あの鋭さを手に入れたい。胸の奥で炎が強まった。
◆ ◆ ◆
夕刻。二人はギルドの依頼板を見上げていた。木札には〈薬草採取〉〈遺跡清掃〉〈森林狼討伐〉〈古井戸調査〉――多種多様だ。リアナが「これ、どうでしょう」と指したのは〈古井戸調査〉。低ランクの中では高報酬、それでいて危険度は不明とある。
「井戸の底にモンスターが湧いたのか、毒虫かもしれない」とレオンは推測した。
「でも、地形が狭いなら遠距離魔法が有利。私、拘束より攻撃魔法を練習してみます」
リアナの声に意欲が滲む。レオンの思考が回る。閉所は剣を振り回しにくいが、盾突撃や短剣なら活路がある。準備次第でいける案件だ。
「やってみよう。装備も整った。明日、朝一で受け付けよう」
木札を外し、受付で仮予約を済ませる。リアナは緊張した面持ちで二度頷いた。
「レオンさんと一緒なら、きっと大丈夫です」
その言葉が胸に熱く染みた。
◆ ◆ ◆
日暮れの鐘が五度鳴るころ、二人は街外れの原っぱで稽古を始めた。レオンは盾突きと抜刀を、リアナは水弾と氷矢を繰り返す。失敗すれば笑い合い、成功すれば掌を打ち合わせた。夕焼けが紫へ変わり、やがて星が瞬く。
「魔法の詠唱、少し速くなったね」
褒めるとリアナは照れてうつむく。
「……レオンさんの剣筋、さっきより伸びが増しました」
互いの成長を分かち合う喜び。孤独な日々にはなかった温かさが胸に満ちた。ふと吹いた風が二人のマントを揺らす。遠く旅路の先で待つ未来が、そっと囁くようだった。
明日、古井戸の闇で何が待つかはわからない。それでも踏み出す価値がある。レオンは夜空の一等星を見上げ、静かに拳を握った。
(本気の旅は、まだたった一日目。ここからだ)
星明かりの下、二つの影が剣と杖を交差させ、明日への稽古を続けた。
やがて宵の口、二人は汗と笑顔を分け合いながら宿へ戻った。石畳が夜露に濡れ、ランタンの灯が点々と続く。レオンは感じた。――この世界の冷たさも、暖かさも、全部ひっくるめて愛おしい。そう思えたのは、隣に並ぶ仲間がいるからだ。