あなたが癒してくれるなら
目の前で苦しむ誰かを救いたいと思うのは、おかしいことなのだろうか。
「ほら。これを飲んでください」
メアはそう言いながら、壁へぐたりと凭れ掛かる男の口元へと小瓶を近づける。飲ませようと傾ければ、とぷり、と中で夕暮れの色をした液体が音を鳴らした。
「……いやだ」
その音を耳聡く聞きつけたらしい、プイッとそっぽを向く男に溜息を吐く。思わず首元に垂れた自身の黒髪に、くるくると指を絡めた。思っていたより、酔っ払いとは面倒なものである。
「嫌、じゃないです。不味いですけど、効果はありますから」
「やなものはやだ。おれはくすりなんてのまない……!」
「でた!! 団長のイヤイヤ期だ!!」
ケラケラと周りで笑う酔っ払い達に、はらはらと様子を見守る酒場の女将。更けに更けた夜の真ん中では、助けてくれる者はいないらしい。一杯引っかけようと思ったのが間違いだったか、薬師として顔見知りだった女将の頼みを聞いたのが間違いだったか。
再度、メアはハァ、と溜息を吐く。
「普段とのギャップが凄いよなほんと」
「これ見てる時だけ団長が人間だって思うわ」
「うるさいぞおまえら!!」
耐えかねたのか、メアを通り越えてオーディエンスへ振り向いた男。彼は予想以上にどこまでも酔いが回っているようだった。赤らんだ首筋、上気した頬。とろんとしたヘーゼルの瞳は、精一杯睨め着けようとしている。がたいの良い身体とさっぱりとした金の短髪はいかついはずが、どこか可愛げさえあるのだから不思議なものだ。
「あしたおぼえておけよ!! ――んぐっ」
「はい、そのまま」
よ、の形のした唇にすばやく小瓶のフチを付けて、液体を流し込む。腰を引こうとするが、その後ろは壁だ。さりげなくもう片方の指を添えて、骨ばった男の顎を少しだけ上げる。注ぎ切ったのを確認してから小瓶を近場のテーブルに置いて、視線を合わせる。メアはそうっと淡い緑の瞳に力を込めて。
「“ごくん”」
「……ん」
言うやいなや、連動するように形の良い喉仏が上下に動いた。ちゃんと全部吞み込めたらしい、呆然と薄く開いた口の中は空っぽだった。小瓶を回収して振り返れば、唖然としたような顔がズラッと並んで。
「ヒューゥ、やるねえ嬢ちゃん!!」
「あの団長に薬飲ませるとは大したもんだ!!」
どっと湧き上がる歓声。普段遠巻きに見ている空気に、メアの口元には苦笑いが浮かぶ。
「薬代は後ほど請求いたします。女将、一番高いのを奢ってください」
「エエッ!? メアちゃん!?」
やんややんやと飛ぶ野次を背に、元いたカウンター席へと戻る。するとすらりと銀髪が美しい青年が隣に座ってきた。洗練された所作は、他の酔っ払い共との格の差を滲みださせている。
「女将、折半しますよ。値段の半分は会計にツケておいてください」
「な、なら仕方ないね!! もとはと言えば、アタシが言い出しっぺだ。覚悟決めるよ」
「いいんですか?」
「勿論です。あなたの偉業を鑑みれば、ね。薬代はこれで十分でしょうか」
そう言って出されたのは銀貨が三枚。ぎょっとして押し返そうとするメアの手を、剣だこで硬い手が押しとどめ、しいっと口に人差し指を立てた。
「お釣りは、いりませんよ」
「だーんちょ、ほらいじけてないでこっち来てくださいー」
「さあさあこれ飲んで! つめたーいお水っすよ!!」
「……大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。私も彼らも慣れてますし、それに」
からん、と氷が音を立てながら、グラスがメアの目の前に置かれる。気持ち多めに注がれている琥珀色の液体からは、今までに嗅いだことのない芳醇な香りが匂い立つ。
「はいよメアちゃん! 黄金の夢渡の氷割り、大事に飲みな!!」
「ありがとうございます。それに?」
「それに、――明日覚えてないのは団長の方ですから」
そう笑みを溢しながら、街を守る騎士をまとめる副団長の一人は告げる。ちら、と背後を見遣れば、すっかり出来上がった酔いどれたちに輪に戻る団長と、ぱちり、と目が合った。それに言いようのない不安を覚えて、メアはくっとグラスを傾ける。冷たい筈のウイスキーは、かっと喉を焼くような熱さで通り抜けていった。
「そうだといいですけど」
それがおよそ半年前のこと、メアとヴェルナー・フェアリス騎士団長の出会いだった。
「んでぇ? それで気に入られたアンタは、清く正しくお付き合いを続けてる、と」
「まあ、周りから見たらそういうことになるんだろうね」
王都に次ぐ大都市の、裏通りの奥の奥、メアが構える薬屋にて。自作の薬研で草葉を碾いているのを横目に、カウンターに座ったチェムがニヤニヤと笑う。ぎい、ぎい、と石同士が擦れる音が響く店内。久しぶりに訪れた知己は、赤毛の三つ編みを楽しげに揺らしてふぅん、ふぅーん、とコロコロと声を転がしていた。
「それでメアは、何に困ってるのぉ?」
「……全部よ、ぜんぶ」
すべては、その酒場でメアがヴェルナーに飲ませた薬に端を発する。
酔ったまま薬は飲まないと譫言のようにこぼす騎士団長殿がそうなったのは、単に薬嫌いという訳ではなかった。体質的に、薬師によって調合された薬を飲用することで気分が悪くなってしまうらしい。
身体的な損傷を癒すためにはポーション薬を飲む必要があるため、騎士としては致命的な弱点である。しかし、本人の薬への嫌悪感が才覚を目覚めさせ、とうとう騎士団長になってしまったとヴェルナーが告げたのが三ヶ月前のこと。
そんな彼にとって、メアが酒場で飲ませた薬は衝撃的なものだった。普段ならば飲んだ瞬間から襲ってくるはずの不快感が、全く持ってなかったのである。
『君の薬なら、何も気にせずに飲むことができるんだ。俺にとって、唯一無二の薬師なんだよ』
素面のヴェルナーは初めて酒場で見た時のような可愛らしさはどこへやら。休みの日らしいラフな服装でもわかる逞しい身体に、精悍な顔つき。武骨そうな出立ちをする騎士団長であったが。
『君と食べる食事は一段と美味しいね』
『すごい、君の髪は陽の下だと時折緑を帯びてて……素敵な色合いだ』
『こうやってゆっくり過ごせる時間が、とても癒やしになっているよ』
笑ったときに下がる目尻は優しく、口角を上げた笑顔はどこまでも柔らかく素朴なのである。
「薬を褒められるのも、傍に居ようとするのも、困るのよ」
「それに、彼を受け入れてはじめる自分にもぉ?」
「うるさいわね」
ぎい、ぎい。石で碾きながらメアがじとりと睨むと、頬杖を付きながら心底楽しげにニヤリ、チェムが笑う。
絆されるな、という方が難しい。
そんなことは分かっていた。
「でも、私は薬師じゃない。魔女だもの」
魔女。それは魔力を扱い、少しのまじないと大いなる魔術を使う者。
生まれながらの魔女と後天的な魔女の二種類がいる中、メアは魔女の子として生まれながらの魔女だった。多くの魔女が人里離れて暮らすのに対し、メアは人の近くに営みを置く異端の魔女の一人である。
他者との関わりに価値を見出し、人を助ける薬を作る魔女として過ごすこと早十年。魔力に対する知見と、草花に対する知見を駆使した薬は、多くの人を救ってきた誇らしきものである。
「ちなみになんだけどぉ。その彼がなんでふつーの薬が駄目なのか、わかってるの?」
「うん。薬師が調薬に使う守媒滴には、微量に魔力が含まれてる。それが彼が持つ微量な魔力と反発して気分が悪くなるのよ」
「え、守媒滴ってそうなの? 知らなかったわぁ」
「私は調薬のときに守媒滴の魔力を吸い取って使うから、何も感じないんでしょうね」
調薬をする魔女は少なくはないが、癒すためのポーション薬や人に使える傷薬を作り出す魔女はほとんどいない。そういう意味では、確かにヴェルナーの体質にとってメアは唯一対策ができる薬師だといえる。
「まだ引き摺ってるの? アルザスのこと」
ぎ、と音が止む。
間延びしない鋭い口調のチェムに、少しの間口を噤んでから。
「別に。魔女と人が支え合うなんて、出来っこないって思ってるだけ」
「やだもう引き摺ってるじゃあん。アタシはそんなことないと思うんだけどなぁー」
「チェム、“静かに”。そして“帰りなさい”」
じっと視線を合わせた瞳に力を込めれば、さっと口を閉じるチェム。そして不満そうな顔をしながら、カランコロン。ぎこちない動きで退店していった。
一人きりになった店内で、重苦しい溜息が空気に溶ける。静かに薬研を握り直して、新たに薬の元となる草葉を追加した、その時。
カランコロン。
「いらっしゃい、ま――」
せ。
そこまでメアは言えなかった。
「ここが、君のお店だったとは」
視線の先。店の出入り口に立っていたのは、ついぞ今まで噂をしていたヴェルナーであったから。
「なんで、こちらに?」
「たまたま目に止まったんだ。雑貨屋さんかと思って入ってみたら、君がいて」
びっくりしたよ。
そう照れ笑う顔は柔らかに、嘘をついているような様子はない。
おそらくは、チェムの仕業であろう。彼女は糸紡ぎの魔女である。彼女の縫製術もさることながら、縁までも編み上げるのはまさしく魔女の魅技だった。
「色々な薬の匂いがするね。でも不思議とどれも嫌じゃないな」
「薬の匂いも、お嫌いですか?」
「あまり得意とは言えないかな。だけど、君の薬は何故か大丈夫なんだよね」
微量の魔力は魔力持ちと判定されることもなく、その数自体も少ない。故に一概に言うことはできないが、どうやらヴェルナーと守媒滴の魔力の相性はすこぶる悪いらしい。揮発した液体に残存する魔力ですら反応しているのは、薬師としても、魔女としても大変興味深い現象であった。
「ところで、あの。考えては、もらえましたか」
急な歯切れの悪さにヴェルナーの方を見れば、彼の赤くなった耳の先が見える。
『貴女と一緒に、居させてもらえませんか』
そうメアの目の前に、騎士団長が跪いたのはつい三日前のこと。夜の食事には絶対に行かないとしていたメアが、ヴェルナーと珍しく夕方まで一緒に散歩をしていたそのときに彼は告げたのだ。
『添い遂げるなら、貴女がいいと思うのです』
とろりとしたヘーゼルの瞳は、いつか見た酔いどれのそれとよく似て、そして異なっていた。蜜を煮詰めたように色濃く、気のせいではない熱が視線から伝わるようだったのをメアは覚えている。
「考えては、います」
苦し紛れの答えだと分かっていて、零す言葉。割り切れない心も擦り潰してしまえたらと、薬研をぎゅっと握りしめる。
「……っ、それなら。よければこれから、出掛けられないかな?」
「これから、ですか?」
「そう、今から。どうかな」
畳み掛けるように自信なさげに下がった目尻。いつのまにか、ヴェルナーのそんな些細な変化まで捉えられるようになってしまった。
ことり、と薬研から手を離す。
「片付けますから、待ってください」
その言葉に、今度は嬉しそうに彼の目尻が下がる。いつだってその顔を向けられると、メアはどうしようもなく心が暖まるのであった。
「こうして歩くのも、もう何十回目かな」
見慣れた街を、二人ただ並んで歩く。大通りから一つ隣の道を歩けば、喧騒も少し遠く人の流れも緩やかだ。ゆったりした時の流れを、こつこつと鳴る靴音が彩りを添えていく。
「ヴェルナーさん。どこか、行きたいところでもあるのですか?」
「特には。いつもと同じ、当てのない散歩、かな」
「では、どうして急に?」
「さて、ね」
誤魔化すように目が逸らされる。時折こうしてあやふやな回答で、ヴェルナーは明言を避けようとするのだ。しかし半年間の年月は、メアにも対処法を教えてくれていた。
ただ見つめる。それだけのことで、十歩も歩かないうちに陥落する。
「……眉根が、寄っていたから。それだけだよ」
恥ずかしげに言うヴェルナーに、きょとりと目が丸くなる。耐えきれない視線に頬を染めるその姿は、どこかいじらしささえ感じさせるものだった。
「それは、その。ありが――」
「――おい」
かき消すように響く声と、ガシリと掴まれた手首。骨ばったそれに引っ張られるように前進を阻まれて、メアは振り返る。
「すみません。手、を、……!」
そうすべきでなかったという、結果を連れて。
「こんなところで会うとはな。魔女」
アルザス、と音にならない声が空気を震わせる。忌々しげに細められた目に、びくりとメアの身体が竦む。
結婚を目前にして別離を歩んだ、元恋人。
アルザス・ベッカーが、仁王立ちでメアを引き留めていた。
「あの港街を出たとは聞いていたが、まさかこんなところに居るなんてな」
商人の息子のアルザスとは、メアが調薬の原料を仕入れる際に出会った。メアが独り立ちをして初めての住まいであっり、アルザスが一番大きな商会の子というのもあり、顔を合わせる回数が多くなるのは必然。段々と顔馴染みになり、仲を深めて恋人になるのも時間が掛からなかった。
お互いを想い合い、幸せになれるはずだった。
『魔女と婚姻だなんてまっぴら御免だ!』
その関係性の転機となったのは、アルザスが毒を盛られたことだった。持てる力の全てを以て、苦しむ恋人を救ったメア。しかしその魅技が、港町随一の薬師によって暴かれたのだ。
『おぬしは、“生まれながらの”魔女だの』
世に蔓延る人々の魔女に対する嫌悪は、狂い荒ぶる後天性の魔女によるもの。熟練の薬師はそれとは切り分けるために“生まれながらの”と付けたようだが、世間はその意図を正しく捉えられなかった。
アルザスに恋人関係を破棄されてからは、転げ落ちるようだった。後ろ指を差され、だんだんとなくなっていく居場所に不安定になる心。
くらくらと眩暈するような心地と共に、メアの膝が震える。
「こんな人の多いところに移動するとは、何を企んでいる?」
「何も、ありません。私は、……ただ、」
「失礼、ミスター。その手を離していただいてもよいでしょうか?」
掴まれていた手が外されてなお冷えていく指先を、暖かな手が包み込むように握りこんでいく。
不審者に気がついたらしいヴェルナーが、メアを庇うようにして間に立っていた。
「なんだ、お前は」
「この街の騎士団長をしている、ヴェルナー・フェアリスと申します」
「騎士団長?」
訝しむように上から下までアルザスは睨め付けから、小さく鼻を鳴らす。
「それにしては軽装だが」
「騎士団はいざというときに備え、日々十分な休息を取るように推奨していますので」
「そうかい。そりゃあ良い、羨ましい限りだ」
唾棄するように言い捨てる声はぶっきらぼうで、あの甘やかで心和むようなメアの記憶の中の男とは別人のようだった。温かな掌の感覚も遠く、するすると視線が下がって地面をただ見つめることしかできなくなる。
「ただ俺はそこの魔女に用があるんだ。どいてもらえますかね」
「それは難しいですね。彼女は貴方に大変怯えており、民の心の安寧を守るのも騎士の役目ですので」
「何言ってんだ、そいつは魔女だ!! 気が触れてんのかお前!!」
「いいえ」
叩きつけるようなアルザスの声を否定する、どっしりとして力強い声。
「彼女は、メアは、心優しき薬煎じの魔女です。この街に住まい心身の不調に悩む多くの方が、彼女の薬に助けられています」
淡い緑の瞳が人知れず驚きに見開かれる。
次いできゅっと握られた手の温かさが、血液と共に身体を循環していく。
「そして貴方は魔女、魔女と言いますが。貴方が憎むのは後天性の魔女だと思われます。人に寄り添い、人を救い生きる“生まれながらの”魔女たるメアに、失礼です」
『遠い遠いむかしから、魔女は人を助けるために力を使ってきた。そんな素敵な人たちの集まりなの』
幼い頃に聞いた、同じく魔女である母の言葉が甦る。
「……くそっ! 俺は忠告してやろうとしただけだっつの!!」
「お心遣い恐縮ですが、今後は結構です。お引き取りください」
慌ただしく駆けていく足音が遠のいていく。足の震えはとうの昔に止まり、心の臓がどくどくとメアの中心で脈打っていた。
「助けるのが遅くてごめんなさい。怖かった、よね」
「……ヴェルナー、さん」
ヘーゼルの瞳と視線が交わる。心配する彼の手を、メアは少しだけ握り返して。
「私は、魔女です」
「はい」
「薬師ではありません」
「はい」
「それを聞いた上で、どう思っていますか」
じっと、緑の瞳に力を込める。
「“言って”」
「――あいしています」
呼吸が止まる、音がした。
「愛しています、メアさん」
メアのまじないは、目を合わせた相手に次の小さな動作を心から従わせるものだった。見上げる目の前の男の言葉に、何一つ嘘がない裏付けを自分で作ってしまったのだ。
「……最初は飲みやすい薬があるなら欲しいな、と思っていただけだった。でも、貴女と話して、過ごして」
目尻が下がり、とろりとヘーゼルの蜜が溶ける。
「貴女が真に心を込めて調薬している姿に惹かれて。貴女の傍に居て、他ならぬ貴女を癒したいと願うようになったんだ」
目の前で苦しむ誰かを救いたいと思うのは、おかしいことなのだろうか。
「メア。俺と婚姻してくれませんか?」
それはきっと自然の摂理のように正しいことであったと。そうメアに伝えるために、ヴェルナーはこの異端の魔女と出会ったのだろう。
「……ハルメア」
「っ、え」
「ハルメア、です。私の大切な、ほんとの名前」
魔女は、魔女としての名と、人としての名を二つ持つ。そして人としての名を知られることは、他人に魂を握らせるのと同じだと教わってきていた。
「となると、同じことを言うのもつまらないかな」
「そんなこと、気にするの? 今?」
「だってもう一回だけ出来るんだよね? しかも、良い未来が必ず来ると分かっているままで」
「もう、いいから。ね、ヴェルナー」
視線を逸らしながら、ぼそりと名前を呟く。恥ずかしげなその声は、普段追い詰められている側のヴェルナー自身とよく似ていて笑みが溢れる。
「ハルメア。これからは俺の傍で、薬を煎じてくれますか?」
「……私が抱えるこの傷をも、あなたが癒してくれるなら」
そう告げたハルメアに嬉しそうに大きく一つ首肯いてから。ヴェルナーはそっと、心優しい魔女へと真実の口付けを返した。