風よ、もう一度
あなたが現れた日のことを、私は今でも、鮮明に覚えています。
それは、風が強く吹いていた日でした。台風が近づいているわけでもないのに、なぜかやたらと風が強かった日。小さなころから長く保っている髪が風に舞って、少しうっとおしいなあと思っていた、そんな日でした。
その日は、風が強いこと以外はいつも通りの一日になるはずの日で、なんの期待もせずに私は家を出て、いつものように学校に向かいました。
どこにでもあるガラクタみたいなその一日を、あなたのせいでいまだに忘れられないままでいます。
劇的な出会い、なんかじゃありませんでしたね、私とあなたが初めて会ったのは。
塾で、たまたま隣同士の席に座った。ただそれだけのことでしたね。あなたは覚えていますか?
その時は私、別にあなたのことをなんとも思っていなかったんですよ? その時のあなたは、「私の人生」という名の物語の中の、名もないエキストラの一人。村人Bってやつですよ。
でも、不思議ですよね。村人Bだと思っていたら、実は白馬の王子様が姿を変えていただけだった、なんて。小説の中でなら、ありきたりなストーリー展開かもしれないですけど。
あなたに出会って初めて、私は、主役をやめてもいいかなと思いました。私が主役で、何十人かの脇役がいて、ただの雑踏、エキストラがうじゃうじゃいる。それが私にとっての「人生」というものでした。それが今では、主役でなくてもいいや、なんて思ってしまうのです。あなたが主人公で、私がヒロイン。そんな物語だったらいいな、なんて、今では思います。
もしそうだったら、どんなに素敵なことだったでしょう。この物語を書き換えられるのなら、どれほどよかったでしょう。
だって、主人公が死ぬ物語なんて、私は一作も知りませんから。
小さな物語でよかったんです。超大作なんかじゃなくてよかった。感動のエンディングも、最後の最後のどんでん返しもいらない。私がヒロインでなくてもよかった。ただ、私の人生は、あなたが主役の物語であってほしかった。私には、王子様にひそかに思いを寄せる、誰も知らない一人の少女、そんな役さえあてがってもらえれば、それで十分だったのに。
私は、悲劇の主人公になりたいなんて思ったことは、ただの一度もありませんよ。ただの、一度も。
初めてあなたの顔をみてから、どれくらいの時間が経った頃だったでしょう。いつのまにかあなたは、村人Bから王子様に大変身していました。言葉を交わすことも、だんだんと増えていきました。きっとあなたにとってみても、会ったばかりのころの私は村人Bだったのでしょう。じゃあ、時間が経ってからの私に、あなたはどんな役を与えてくれていたのですか?
とにもかくにも、私とあなたの距離はみるみるうちに近づいていきました。あとは、私とあなたが結ばれさえすれば、文句なしのハッピーエンド。単純だけど幸せな、素晴らしい物語になってくれるはずだした。
ですが、あなたは死んでしまったんですね。
塾で、あなたの友達だという人に教えてもらいました。君さ、あいつと仲良かったよね、って。あいつさ、言いにくいし、俺もつらいんだけどさ、あいつ、死んじゃったんだよ、って。
あなたのお葬式には、ちゃんと行ってきましたよ。涙は流しませんでした、褒めてください。頑張って我慢したんですよ。
家に帰ってからは、ただのモノになってしまったあなたの姿を思い出して、涙があふれて止まらなくなってしまったのですが。
それから、私の中で、風は吹いてくれません。あなたと出会ったあの日からずっと吹いていた風が、冷たくて、暖かくて、激しくて、優しかった風が、私の中ではすっかり止まってしまっています。
あなたがいなくなってしまった日から、もう、一年になりますね。ずっと、ずっと、ずーっと、風は吹いてくれないままです。
いつか私が死んでしまう日に、私の隣にあなたがいないなんて、信じられません。あなたが言ってくれたこと、してくれたこと、いっぱいあるのにだんだんその記憶が薄れていってしまっているだなんて、信じたくありません。
前みたいに、駅で待ち合わせとか、しましょうよ。ねえ。隣にいてくださいよ。
叶わない願いだなんてことくらい、もうとっくにわかっているのだけれど。
あの日みたいに風が激しく日には、あなたにまた会えるんじゃないかって、そう思ってしまいます。
ああ、どうか。
風よ、もう一度。