第3話 ミーニャ消える
今日は朝から雨です。昨日の夕方から降り続いて、まだ止む様子はありませんでした。シモーン邸の台所では、y人達が忙しく朝食の準備をしています。そこにクーニャがやってきました。今日も、赤いネクタイをきちっと締めています。この赤いネクタイは、王に仕えるy人の長の印なのです。
「おはようございます、クーニャ様」
えんじ色のエプロンをつけたy人達が、クーニャに気付いて口々に挨拶しました。
「おはようございます。ミーニャ様は、まだお部屋に?」目の下にくまをつくって、クーニャは疲れている様子です。
「はい、そうだと思います。まだお姿を見ておりませんので」目玉焼きを焼いているy人が、答えました。
「私、様子を見てきましょうか?」野菜を洗い終わったy人が、クーニャに言いました。
「いや、いいです。他の者に頼みますから。あなた方は、朝食の準備を急いでください」
クーニャは丁度、台所を出た所で、玄関の掃き掃除を終えたドジy人に会い、彼にミーニャの様子を見に行かせることにしました。
「頼みますよ、ドジy人」
「はい、分かりました。クーニャ様」
ドジy人は階段を上って、ミーニャの部屋に急ぎました。ガタガタ、と何かが落ちる音が、ドジy人の消えた方角から聞こえました。彼がまた、階段を踏み外したのでしょう。彼はいつもどこかに怪我をしていて、バンソウコウやら包帯を巻いているのです。
ドジy人は二、三回転びながら、ミーニャの部屋にたどり着き、扉をノックしました。
トントン。しばらく待っても、何の返事もありません。
トントン。またノックしてみました。それでも、やはり何の返事もありません。
ドジy人はそっと扉を開けようとして、ドアノブを回して引きました。しかし扉は開きませんでした。ドジy人は、今度は少し強く引っ張ってみました。それでも、やはり開きません。鍵がかかっているのでしょうか。ドジy人は、ドアノブを回したままなのを忘れ、扉に寄り掛かって、物音がしないかと聞き耳を立ててみました。
あっという間に、扉は内側に開き、扉に寄り掛かっていたドジy人は、バランスを崩して、部屋の中に転がり込んでしまいました。彼は慌てて起き上がり、顔を真っ赤にして毛並を整えました。この扉は引くのではなく、押し開けるのだと忘れていたのです。
「あ、あの、すみません。あの…、あの…。お、おはようございます、ミーニャ様。ミーニャ様?」
ドジy人は部屋を見回しました。ベッドは空で、部屋の中には誰もいません。
「あれ、ミーニャ様?」
ドジy人はもう一度、部屋を見回してみました。やはり誰もいません。
「トイレかな?」ドジy人はミーニャの部屋から出て、トイレに行ってみました。しかし、トイレには誰も入っていませんでした。
「おかしいな。ミーニャ様は、どこに行ってしまったのだろう?」
ドジy人は下に下りていきました。途中で、音y人に会いました。
「あ、音y人。ミーニャ様を見なかった?」
「え、ミーニャ様?お部屋の方じゃあないの?」音y人はキョトンとします。
「ううん。今、お部屋の方に見に行ったんだけど、いらっしゃらなくて」
「じゃあ、もう食堂に行ったんじゃあないかな」
音y人の言葉に、ドジy人は食堂に急ぎました。
「ああ、ドジy人。ミーニャ様はどうでした?」
クーニャは食堂で、エプロン姿のy人達と一緒に、テーブルにお皿を並べていました。
「それが、クーニャ様。ミーニャ様はお部屋にいらっしゃらなくて」
ドジy人が言うと、食堂にいたy人達が一斉に顔を上げました。
「お部屋にいらっしゃらない?」クーニャは驚きました。
「はい。一応トイレも見に行ったのですが、そこにもおりませんでした」
「誰か、今朝、ミーニャ様を見た者はいませんか?」クーニャはy人達に尋ねました。
しかしy人達は、口々に見ていないと答えます。
「おかしいですね、どうしたのでしょうか」
そこに、変人y人がミルク壷を持って、食堂に入ってきました。
「んもう、これ本当に重いんだから」
変人y人はミルク壷をテーブルに置いて、ふーっと息をつきました。そして、食堂にいるy人達の神妙な顔つきに気付きました。
「あら、どうかしたの?何かあったの?」
「変人y人、ミーニャ様を見ませんでしたか?」クーニャが尋ねます。
「あら、クーニャ様。おはようございます。ミーニャ様?いいえ、今朝はまだよ」
「そうですか…」クーニャは心配そうに、あごに手をやりました。
「どうかしたの?ミーニャ様を探していらっしゃるの?」
「ええ、お部屋にいらっしゃらないんです」
「もしかしたら、シモーン様のお部屋かもしれないわ」変人y人は思い出したように言いました。
「え、シモーン様のお部屋?」クーニャが驚きました。
「ええ。ほら、昨晩の見回りの当番は、私だったでしょう?それで夜、ミーニャ様のお声を、シモーン様のお部屋から聞いたのよ」変人y人が答えました。
「私、見てきます」ドジy人が一度ずっこけてから、走って食堂を出て行きました。
一瞬しーんとして、食堂に重い空気が流れましたが、クーニャが声を掛けると、y人達はまたすぐに忙しく働き出しました。
それから十分後、全ての料理が食堂のテーブルに並べられ、朝食の支度が完了しました。そこにドジy人が戻ってきました。少し息を切らしています。
「どうでしたか、ドジy人。ミーニャ様は?」
そう尋ねたクーニャに、ドジy人は首を振りました。
「シモーン様のお部屋にも、どこにも…、いらっしゃいませんでした」
y人達が、ざわざわと騒ぎ始めました。
「どうしたのだろう、ミーニャ様は」
「どこにいらっしゃるのだろう」
「ちゃんと、確かめたのですか?」クーニャは、ドジy人にもう一度尋ねました。
「はい。ベッドの下ものぞいてみました。でも、どこにもいらっしゃらなくて。でも気になることが、一つあります。その、シモーン様のお部屋の窓が、開いておりました」
「窓が開いていた?まさか…」
「もしかしたら、ミーニャ様は窓から外に?」
y人達は一層ざわざわ騒ぎ出します。クーニャはしばらく考えてから、言いました。
「y人全員に集合命令を。朝食を後回しにして、今からシモーン邸を全員で見て回りましょう」
クーニャの言葉に、y人達は一斉に動き出しました。
ミーニャは雨の中、人気のない通りを歩いていました。ここは、どこでしょうか。さっきまでは商店街を歩いていて、人々の声が賑やかだったと思ったのに。今は、雨と自分の足音しか聞こえませんでした。
ミーニャはシモーン邸の周辺以外、珍妙町のことは、あまりよく知りませんでした。どうやってここまで来て、これからどこに行くのか、見当もつかないで歩いていました。今、自分がどこにいるのかも、分かりませんでした。
ミーニャは昨日の夜のことを思い出していました。兄さんの部屋で、兄さんがいなくなってしまった寂しさと、王様になるという重い責任が嫌で、堪らず窓から飛び出してしまったのです。
ミーニャはどうしたら良いのか、分かりませんでした。ただもう逃げ出したくて、シモーン邸を飛び出してしまったのです。トボトボと当てもなく歩いても、心はちっとも晴れません。晴れるどころか、雨で全身びしょ濡れでした。兄さんの死の知らせを聞いて、ジャックのおじさんの家を飛び出してきてから、今まで何も食べていないし、眠ってもいませんでした。ミーニャは疲れていて、汚れていて、空腹で、びしょ濡れで、寒くて、へとへとでした。それでも、なるべくシモーン邸から離れたくて、ずっと休まず歩き続けているのでした。
しかし、とうとうめまいがしたかと思うと、ふらふらと壁に寄り掛かりました。目の前の電信柱の横に、ゴミ袋が積まれているのが見えました。ミーニャはゴミ袋に近づき、その上に這い上がると、横になってしまいました。雨はまだシトシトと降って、ミーニャの体に降りそそぎ続けています。そのままミーニャは気が遠くなって、ゴミ袋の上で気を失ってしまいました。
長い時間が経ちました。人通りの少ない静かなその道を、青い傘を差した人が、角を曲がってやってきました。その人は、電信柱のそばのゴミ袋の前に来た時、その上にのっている汚い雑巾に気付きました。
「あれ、何だこれ?」その人は立ち止まりました。
ゴミとして捨てられた雑巾だと思ったら、それは良く見ると、驚いたことに猫でした。
「雑巾だと思ったら、猫だ。それにしても、随分汚い猫だなあ。野良かな」
その人は、じっとその猫を見下ろしました。汚れた雑巾そっくりの、灰色のみすぼらしい猫です。おまけに、死んでいるようにぐったりしていました。
「もしかして、死んでいるのかな、こいつ」
その人は、猫を優しく指でつついてみました。すると、汚い野良猫は微かにひげを動かして呻きました。その人は、更に顔を近づけて、猫をまじまじと見つめました。
「こんな所で、昼寝か?うわ、まれに見るぶさいくな顔だな。病気かな」
その野良猫は痩せこけていて、目は腫れ上がり、鼻は鼻水でグシュグシュです。
あまりにぶさいくで、汚いその姿を可哀想に思ったのか、その人は猫を片手で拾い上げたかと思うと、腕に抱いて歩いていってしまいました。
灰色の空からは、雨がまだシトシトと降っていました。