第11話 チョコチューブ体験
その後の三日間は、何事もなくすぎていきました。ミーニャも時折、窓を通して姿が見えるか、ベランダにヒロと一緒に出てくるだけで、全く外出をする様子はありませんでした。見張り組も、隊長が小まめに連絡を入れるようにしたせいもあり、つる草以来、間抜けな報告をする者もなく、日々はすぎていきました。
ミーニャの新しいご主人になったヒロは、昼間は仕事に行っているのか、出掛けていて、夕方五時過ぎに帰ってきます。では、そのご主人がいない時、ミーニャは一体、何をしているのでしょうか。
実を言うと、ミーニャは毎日、テレビを見てすごしていたのでした。電源の入れ方は知っているし、リモコンの扱い方も覚えました。ですから、別に面白い番組もないのに、何も考えずに、ただぼーっと画面を眺めているのです。
ご主人が家にいる時は、常に後をついて回っていました。洗濯をする時も、掃除をする時も、料理を作る時もそばにいたし、寝る時も、ご主人の布団のはじに丸くなって、眠りました。とにかく、何をするにも、ご主人の後をついて回って、すごしていたのでした。
最初は、金魚のフンのように、後をついて回る猫を、面白がっていたヒロでしたが、全然外に出ようとしないミーニャを、さすがに心配するようになっていきました。
「ミーニャ。お前、ずっと家の中にいて、飽きないの?たまには、外を散歩でもしてきたらどう?」
ご主人が言っても、ミーニャはちっとも外に出ようとはしませんでした。それに、体は健康に戻ったのに、なぜか元気がありません。
そんなミーニャを元気付けようと、ご主人はある日、買い物の帰りに、ペットショップに寄って、お土産を買ってきてくれました。
「はい。今日は、お土産があるよ」
ヒロは買い物から帰ると、ミーニャに、買ってきた物を差し出しました。ミーニャが受け取ると、それは小さな歯磨き粉のような、茶色のチューブでした。
『猫用チョコチューブ』と書いてありました。それは、チューブの中に、やわらかいペースト状のチョコが入った、猫用のお菓子でした。
ミーニャは、初めて見る猫用お菓子に驚きました。ドキドキしながらふたを開けて、チューブの先を口にくわえて、軽く絞ってみました。
その様子を、面白そうに見守っていたヒロは、チューブをくわえたミーニャの顔が、みるみる円満の微笑みに変わるのを見て、噴き出しました。
「何だよ、その顔は」ヒロは、けらけら笑い出しました。
ミーニャはこんなに甘くて美味しいものを、今まで食べたことはありませんでした。口の中に入ってきたチョコは、ゆっくりと溶けながら、口の中一杯に広がっていきました。
ミーニャは、チューブをくわえて、でれでれとにやけ出しました。
「良かった。気に入ったみたい」
ヒロは夕食を作りに、台所に向かいました。ミーニャはチューブをくわえたまま、後をついていきました。そして、ご主人が鶏のから揚げを揚げている間も、ずっとチューブをしゃぶり続けていました。
「ミーニャ、もうよしなさい」
ヒロは、チョコがとっくに終わっているチューブを、ずっとくわえているミーニャにたまりかねて、チューブを取り上げました。
ミーニャはがっかりして、空になったチューブを見上げました。そして考えました。王様になったら、好きなだけチョコチューブを手に入れられるんだろうか。
ミーニャは、チョコチューブに埋もれて眠っている、自分の姿を想像して、ニヤニヤし始めました。
「変な奴。もしかして、チョコの中に、マタタビでも入っていたのかしら」ヒロはミーニャのにやけ顔を見て、気味悪がって言いました。
王様になるのも、そんなに悪いことでもないかもしれないぞ。単純なミーニャの頭の中に、そんな思いが芽生えた瞬間でした。
次の日、ミーニャがあまりにもチョコチューブを気に入ったのを見て、ヒロはそれでミーニャを釣って、外に連れ出してみることを思いつきました。
「ミーニャ、一緒に買い物に行かない?ついでにペットショップに寄って、チョコチューブを買いに行こうと、思っているんだけど」
チョコチューブの言葉に、ミーニャは敏感に反応しました。初めは、少し迷っているようでしたが、驚いたことに、玄関から表に飛び出したではありませんか。その様子を見て、ヒロは何だか呆れてしまいました。
「単純な奴だなあ」そして、靴をはきながら、「やっぱり、あのお菓子には、マタタビでも入っていたに違いない」とつぶやきました。
庭の柿の木で、見張りをしていたネコ兵は、ヒロと一緒に玄関から姿を見せたミーニャに驚き、大慌てでした。すぐさま本部に連絡を入れます。
「隊長!見張り班から、緊急連絡が入ったであります!ミーニャ様が外出をされた、とのことであります!」ペイが叫びました。
この何日間か、何事もなくすぎて、少々だらけ気味だった本部は、久しぶりにあわただしくなりました。
「よし、つなげろ!」
隊長がヘッドホンをかぶりました。
「ハロー、ハロー、こちら本部だ。報告しろ」
「はい。こちらレオです。たった今、ヒロとミーニャ様が玄関から出てきまして、西に向かいました。我々はミーニャ様を見失わないように、一定の距離を保ちながら、後を追跡しております」
「よし。スイッチを入れたままにして、報告を続けてくれ」隊長です。
「はい、分かりました」
見張り組のレオと、のっぽは、ヘッドホンのスイッチを入れたまま、ミーニャとヒロの後を追っていきました。
ガサガサ、トトトト、ハアハア。しばらくは、二匹がミーニャを追跡する雑音だけが、マイクを通して流れていました。
「今、ミーニャ様は、公園の横の坂を下りているところです。たぶん、スーパー池屋に行くものと思われます。ヒロは、ここの常連客で、ポイントカードを持っていることも、調べがついています」
本部の隊員達はじっと、ヘッドホンの声に耳をかたむけています。
「あ、今、ヒロがスーパーの中に入っていきました。ミーニャ様は店の中に入らず、スーパーの駐輪所の隅に、大人しく座っております」レオの声が響きます。
「ミーニャ様は、どんなご様子だ?」隊長が尋ねました。
「はい、とても元気そうです。それに表情も、とても幸せそうで、どちらかと言うと、何だかにやけていらっしゃるようです。あ、スーパーから出てきた中年男性が、ミーニャ様に近づいていきます。何か、手に怪しい棒状の物を持っています!」
「何かあったら、すぐに飛び出せ。人間でも容赦するな」
「はい。あ、どうやらソーセージです。ソーセージを与えようとしているようです。ミーニャ様は、素直に食べております。あ、今度は、子供達が駆け寄ってきました。結構可愛がられていらっしゃるようです」
「ヒロが買い物袋を提げて、店から出てきました。クンクン、どうやら今夜のおかずは、魚ですね」今度は、のっぽの声が流れてきました。「ヒロはミーニャ様を連れて、南に向かいました。その先の、ムーンライト商店街に行くものと思われます。我々は、引き続き追跡を続けます」
しばらくは、また雑音だけが流れてきました。本部には、緊張した空気が流れています。
「隊長。ミーニャ様は今、商店街にあるペットショップに入っていきました。ヒロと一緒に、店に入って行きました」のっぽの声です。
「よし。店の外で、そのまま待機しろ」隊長が言いました。
ペットショップで買い物を終えた、ヒロとミーニャは、家に向かって歩いていきました。チョコチューブはちゃんと、ヒロの買い物袋に入っていました。
久しぶりに外に出て、散歩をしたし、チョコチューブも買ってもらえたし、ミーニャは心が晴れたように陽気でした。そして、シモーン邸のことを思い出しました。y人達は、自分のことを心配しているでしょうか。そして怒っているでしょうか。ミーニャは、自分がシモーン邸を飛び出してしまったことで、y人達に迷惑をかけてしまったことを、申し訳なく思っていました。兄さんが生きていた時、シモーン邸に遊びに帰ると、y人達はミーニャに、とても良くしてくれたし、せっせと世話もしてくれました。ジャックのおじさんの家を飛び出して帰ってきた時も、温かく迎えてくれました。それに、もし今、兄さんが生きていたら、何て言うでしょう。きっと、逃げ出したミーニャの無責任さを、厳しく叱ったに違いありません。
兄さんはきっと、ミーニャが跡を継ぐことを、願っていたに違いありません。ミーニャが立派な王様になることを、祈っていたに違いありません。そんな兄さんと、y人達の期待を裏切ることが、ミーニャにはできるでしょうか。ミーニャは果たして、立派な王様になることができるのでしょうか。
「隊長。ミーニャ様は今、緒蔵家に戻ってまいりました。はい、何事もなく、無事に帰宅いたしました。あ、今、ペットショップで聞き込みをしていた、のっぽが帰ってきました」
レオの後、息を切らしたのっぽの声が、ヘッドホンから流れてきました。
「隊長、ペットショップに売られていた子犬のプードルから、聞き出した情報によりますと、ヒロとミーニャ様は、数個の猫缶と、お菓子を購入されたそうです。猫缶の種類は、カンカル社の、お得用パック五種類の味。それから、高級猫缶のシーパを一個です」
「お菓子は、何だ?」
「猫用チョコチューブだそうです。三本ほど、購入されたそうです」
「分かった。今から、見張り交代の者をそちらに送るから、交代したら、二匹とも本部に戻ってきてよし。ご苦労」隊長は、そこでスイッチを切りました。
「ミーニャ様は、チョコチューブを三本、購入されたそうだよ。あと、猫缶も」
ここは、シモーン邸の台所です。夕食の後片付けで、y人達が集まって、くっちゃべっているのでした。
「今日、ミーニャ様は、ヒロと一緒に外出したそうですね」しっかりy人が言いました。
「何でも、ペットショップに行ったんだって。そこで、チョコチューブを買ったって、ネコ兵が言っていたよ」おちょうしy人です。
「チョコチューブって、何?」お皿をしまいながら、うたがいy人が尋ねます。
「人間が、ペットの猫用に開発した、お菓子らしいです。チョコがクリーム状になっているものが、チューブの中に入っていて、絞り出しながら食べるもののようですよ」写真家y人が答えました。
「へ〜え。そんなものがあるなんて、ちっとも知らなかった」
y人達は、感心したように頷き合いました。
「でも、何よりも、ミーニャ様が外に出られるほどに、回復してよかったですね。今まで、ずっと家の中に閉じこもりっぱなしだったから、心配でした」しっかりy人は、すっかり片付いた流しをふきんで拭きながら、言いました。
「だけど、いつ戻ってくるんだろうね、ミーニャ様は。宮殿を飛び出してから、もうすぐ一週間になる」おちょうしy人が心配そうに言いました。
「もしかしたら、ミーニャ様は、もう宮殿にお戻りになることはない、なんてことはないでしょうか」
「ちょっと、写真家y人。縁起でもないことを言わないでよ。ミーニャ様が戻ってこないかもしれない、なんて」
y人達は、慌てます。
「もし、ミーニャ様が、宮殿に戻ってこられないとしたら、一体どうなるのでしょう」
「王位継承権放棄。つまり、誰も跡を継ぐ猫がいないとしたら、王家は絶えてしまうことになる」うたがいy人が言いました。
「王家が絶える?そんな。じゃあ、我々y人は…」写真家y人が、青ざめました。
「用なし、ってことですね」しっかりy人が、ぽつりと言いました。
「用なし?僕達は、皆、用なしになるの?ってことは、王家に仕えているネコ兵も、用なしってこと?」おちょうしy人も青くなりました。
「ネコ兵も、洋ナシ?今夜の夜食の献立は、洋ナシですか?」
丁度その時、だまされy人が台所にきて、入ってくるなり慌て始めました。
「どうしよう。クーニャ様は、夜食はツナサンドだって言っていたのに。いつの間に変わったのだろう?今から買いに行かなくては。お店、開いていますかね」
そして、だまされy人は、勘違いをしたまま、慌てて台所から引き返していきました。一瞬、しっかりy人達は、だまされy人の方を向きましたが、彼が出て行くと、何事もなかったように、また喋り始めました。
「用なしか。それじゃあ、y人の歴史も、絶えてしまうってことになるんですね。初代の王様の時から続いてきた、由緒あるy人の歴史も」
「駄目だよ、皆。そんなに悲観的になっちゃあ。大丈夫、きっと、ミーニャ様は戻ってきてくれるよ。だって、王子様なんだから。ミーニャ様以外に、王様になる猫はいないって、良く分かっているはずだよ。それに、最後は、きっとネコ兵が、無理矢理にでもミーニャ様を、宮殿に連れ戻してくれるよ。そして、クーニャ様がミーニャ様を説得してくれるよ」おちょうしy人が努めて明るく言って、皆をはげましました。
「…そうですよ。ミーニャ様は、きっと戻ってきてくれますよ。何も心配することなんて、ないですよ」しっかりy人も、うなずいて言いました。
「じゃあ、まだ時間があるけど、ネコ兵の夜食に使うツナ缶を、倉庫から持ってきますね」写真家y人も気分を変えるように、エプロンを外しながら言いました。
それにつられて、後片付けを終えた他のy人達も、エプロンを外して壁にかけました。