エピローグ 新幹線の車内にて
これで終わりです。ここまでお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。どうか、この世に私という人間が居たことを、どうか、忘れないでください。
“あいつ”からのメッセージ履歴を改めて見返していた。
新幹線の車内、さっきまで青みがかっていた窓の外は、もうすっかり夜の帳が垂れこんでいた。
適度に揺れる車内と、ほどよくガヤついた乗客の声。
口座番号の書かれた彼とのメッセージ履歴を全て消去すると、再びタブレット端末を膝の上に置いた。そしてまた、作業を始める。
「あっという間でしたね」
隣の座席に座る男がおもむろにそう言った。どうやら俺に言ったらしい。
「ん? ああ」
俺は横目でチラリとそいつを見た。見覚えのある顔だった。
「東京、楽しかったですか?」
「全然」
にべも無く返してやった。たしかに楽しかった事もあったが、不愉快な事も多々あった。しかしそんな不愉快な出来事たちも、話のネタにはなるだろうとは思った。
「俺、ずっと東京に憧れてたんですよ」
彼は屈託のない笑顔を俺に向けてくる。馬鹿馬鹿しい、と思った。
「先生、結局その知人とは会えたんですか?」
「まあ……」
「元気でしたか?」
「そんなこと聞いてどうするんだい?」
俺は鬱陶しそうな態度をそのまま声に表した。
「まあまあ!別にいいじゃないですか、教えてくれたって。あ!そうだ――」
相変わらずよくしゃべる奴だ、と感心した。
「そういえば先生、小説書いてましたよね?」
俺はチラと彼を見た後、無言で頷いた。
「良い題材を思いついたんですよ!是非先生に書いてもらいたいと思いまして……へへへ!」
「きみが書けばいいじゃないか」
「いや、僕なんかじゃダメですよ。だいいち僕はモノを知らない」
「そうだったな」
俺はフッと頬を緩ませた。
「そういえば行きのバスでもこんな会話してましたよね。『無知の知』だ~なんつって……」
彼は自分の頭をなでながら卑屈に笑った。
俺は彼の言った言葉一部に反応し、フッと視線を前に上げた。
「……ソクラテス、だったか?」
「おお!そうです!よく知ってますね!いや、先生なら当然か。これはごめんなさい……つい僕は釈迦に説法の様な事をしてしまったようだ……」
一人で勝手に興奮する男を横目に、俺は少々むず痒い気持ちになった。
「無知の知といえば、これも知ってますよね? ――『これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。これ知るなり』」
知らない。聞いたことも無い。
「僕、こういった言葉大好きなんですよ~!人間が生きてる間に得られる知識なんて、砂浜に例えると、所詮ほんのひと握りっぽっちなんですよね!本を読み、学習するうえで大事なのは、やはり謙虚さですよね。自分は無知だと自覚して、驕ることなく、貪欲に知識を求める。それを知らない人間こそが、本当の『馬鹿』だと思うんです」
思わず俺は、この男を睨み付けてしまった。俺の事をバカにしているのだろうか? ――と思わずそう思ってしまった。しかし、彼のその様子には、いっさい悪意などは感じられなかった。
「お兄さんもそう思いますよね⁉」
彼はいきなりそう話を振ってきた。俺はギクッと肩を震わせた。しかし表情に出すことはなんとか避けられた。
俺はしばし黙り込み、考えると、まるで質問の答えになっていないような答えを口にした。
「……実はね。俺が読書の癖をつけ始めたのは、つい数か月前の事なんだ」
「え⁉」
彼は仰天した。
「正直言うと……まだ指で数えられるほどしか、本を読んでいない。漫画も入れてとなるとそれはかなりの数になりそうなものだが……」
「そ、そうなんですか……?」
彼は心底不思議そうに俺の顔を見詰めていた。俺はこの際、すべてを白状する事にした。たぶん、無知の知とは、きっとこういう事を言うのだろう。
「見栄を張っていたんだ」
「見栄?」
「ああ。少しでも賢く見せようと、見栄ばかり張っていたんだ。だって、軽んじられるのは嫌だから……」
自分でそう認めてしまうと、なんだか目の前の現実がやけにシンプルな光景に見えてきた。
みんな、見栄を張りたいだけなのだ。――そう考えると、当初はあれだけ複雑怪奇に見えた東京も、今ではなんだか拍子抜けするほどに至極単純な構造の街に思えてきた。豪華で精巧で複雑な細工が散りばめられているだけで、結局のところ、その中身の骨組みは他となんら変わりはないのだ。
不思議と、心の内がスッとした。たぶん、次の瞬間にはこの男からガッチリとマウントを取られて、ボコボコに殴られるんだろう。やはり今でも、それは少し恐ろしかった。
「それはあなた……自分に自信を持ってないからじゃないですか?」
正論だ。反論の余地もない、ただの弩正論だ。しかし彼のその様子に、マウントを取りに来る気配は感じられなかった。
「きみ、タバコは?」
俺はおもむろにそんな事を尋ねた。
「え? ええ……やりますよ。僕なら毎日、最低でもひと箱は丸ごと煙に変えて見せます」
変則的な俺の行動に、彼は戸惑いながらも、答えた。そして俺は片手間にポケットをまさぐると、アメリカンスピリットを取り出した。目も向けずに、彼にそれを差し出した。
「いいんですかい?」
「ああ。俺にはもう必要ない物だからね」
「なら遠慮なく……」
そう言って彼はおずおずと俺のアメリカンスピリットを譲り受けた。彼はゴソゴソとポケットにそれを仕舞い込むと、しばらくしたのちにまた叫んだ。
「先生!小説を書きましょう!」
しかし俺は素っ気なく断った。
「無理だ」
「どうしてです? あなた、小説家なんでしょう?」
俺は思わず顔を顰めた。他人にそう呼ばれるのは嫌だ。乱暴に筋肉を揉みほぐされるように、快感よりも、むしろ痛みを感じてしまう。
「小説家って呼ばれる資格はあいにく持ち合わせてなくって。それに俺は小説があまり好きではないんだよ。自分がどうして小説を書いているのか、実はよく分かってないんだ」
俺はなるべく彼と目を合わせないように努めつつ、言った。一瞬、俺のとなりが不気味な感触を持って無言の空気に包まれた。
「先生……『達磨不識』のお話をどうお考えですか?」
「……だるまふしき?」
俺はやっと彼と目を合わせた。しかし、それは自分から目を合わせたというより、むしろ強引に目を奪われたと言ってもいいのかもしれない。
彼の表情はいつになく真剣な面持ちだった。さっきまでのお調子者の彼とはまるで別人に思えた。
「ええ。あなたは、どうしてこの世に人間が存在するか、どうしてあなたがあなたとして、この世に生まれてきたのか、あなたはどうして生きているのか……ご存知ですか?」
いきなりそんな哲学めいたことを言われても、こまる。俺はつい呆気に取られたまま、ほとんど何も考えないままに、思わず素の状態を晒し出してしまった。見栄を張る事など、もうすでに忘れていた。
「……知るわけないやん、そんなん」
「そう。あなたは、そんなこと、“識らない”。識らなくてもいいんですよ、そんなこと」
固まったままの俺の反応をよそに、彼は尚も言った。
「だから小説を書く理由なんてものも、貴方は識らなくていい」
こいつは気違いだ、と思った。
「解らないな」
俺は“率直”にそう言った。そして、彼から目を背けるようにして、しばらく窓の外を眺めると、そのまま呟くようにして言った。
「でも、分かった」
彼の言っている事は何だか輪郭がぼやけていて掴みどころがない。しかし、核心を構成する部分については、少なくとも目で見えたような気がする。たぶん。
「じゃあ書きましょうよ!要するに、小説が好きになるまで小説を書けばいいんですよ!」
彼はまたお調子者の性格に戻り、そして俺に迫った。俺は彼にあっちこっちに振り回され、どうも翻弄されてしまっているように感じる。しかも彼の言っている事は滅茶苦茶だ。
しかし、この俺自身の人生自体がもう滅茶苦茶なので、それの方が却って具合が良いような気もしてきた。
ちょうどその時、車内アナウンスが流れた。まもなく、新大阪駅に着くらしい。
「あ!先生、ここで降りるんですか⁉ じゃあ待ってください!小説の題材、良いヤツ思いついたんです!」
俺はすでに座席を立ち、出口へと進みかけていた。
「今回の東京での話を書くんです!」
「どうして東京だい? 東京なんて全然楽しくなかったぜ?」
「……ホントに?」
彼は意味深な笑みを浮かべ、そう念を押してきた。いよいよ俺はこの目の前の男の事を気味悪く感じた。こいつはどれだけ俺の事を見透かしているのだ?
「まあ……来てよかったとは……思ってる」
俺はやれやれと諦めたようにそう認めた。
すると――
滑らかに揺れていた車内が、徐々にふわふわとその動きを緩め、やがてわずかな衝撃を俺の体に与えて、完全にその動きを止めた。
新大阪駅にたどり着いた旨を、車内アナウンスが告知した。
「題名はそうですね……候補はいろいろあるんですが、『東京来ーる』か『東京八景』か、どちらがいいと思いますか?」
俺は少しだけ考えた。新幹線はもう駅についている。早く降りなければいけない。俺は出来るだけ深く考えすぎないように考えて、そして答えた。
「麻布十番の……居候」
「ああ……そうですか……」
なぜかガッカリしたような彼の反応。これでも俺なりに精一杯考えたつもりだ。
そして彼はまたコロリと調子を変えて、押し売りする様に俺にその“題材”とやらを勧めてきた。
「ね? いいでしょう? きっとこの小説を書き終える頃には、先生、小説を書くのがきっと好きになってるはずですよ」
まったく、この男はなんの根拠があってそんなことを宣っているのだろうか。
そして彼は続けた。
「そしてまたきっと、そのころには先生は……あらゆるものを“赦せる”ようになっているはずですよ。――自分自身のことも含めて、ね。ね? そう思いません?」
この男はサラッと、俺の心の奥底に沈殿する“澱み”を無遠慮につかみ出してくる。つい俺の口からため息が出た。一刻も早くこいつと離れなければ。誰にも見せたことのないタンスの中を乱暴に漁られちゃあ敵わない。
だから、俺はこの名も無き男に対し、やはりにべも無く、こう返してやった。
「全然」
そうして俺は振り返り、さっさと出口へと向かっていく。
これからのことを考えてーー楽しみにニヤついた俺の顔はなんとかバレないで済んだであろうか?
重ね重ね、お礼申し上げます。
一応メモ書き代わりに、この小説が完成した日付を記しておきます。
初稿が完成したのは2021年5月6日和歌山へ温泉旅行に行き、そこで最後の追い込みをかけて仕上げました。最後はスターバックスで仕上げました。
そして、投稿作業が終わり、いまこの文章を書かせて頂いているのも、スターバックスです。地元のスタバです。ちなみに同年5月23日。
書きはじめた日は覚えていません。たしか前年の11月か12月頃だったと思います。最初はただの旅行日記として書くつもりでした。しかし、東京で出会った人たちとの交流の中で生まれた疑問――『なぜみんな、この街に憧れるのだろうか……』という感情を書いていくうちに、思いがけずこれだけの超大作になってしまいました。でもこれだけの長編をかき上げたのはまぎれもなく私にとっての『誇り』です。
この作品は、まぎれもなく、他人に自信を持って見せられる作品だと思っています。
まだまだ書きたい作品はありますが、とりあえずはしばらくの間休もうかと思います。例の、『裏アカウント』での仕事もありますし。
それでは皆様、ここまでありがとうございました。2021年5月23日(日)、長時間利用によって何度も追い出され、迷惑をかけてしまったスターバックス店より……




