表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
麻布十番の居候  作者: そーた
50/52

最終日 最終話



 渋く唸るその声は、決して大きなものではなかったけれど、それでも有無を言わさない迫力を持って俺達の騒ぎを頭からギュッと押さえつけた。


 声の主へと振り返ると、その男はいつの間にか俺達のすぐそばに立っていた。

 彼は言った。



「アンタら若ぇもんはさ、口でつべこべ言うより、まずは体当たりで試してみるもんだよ」



 俺は、この男に見覚えがある。俺はこの男と、何処かであったことがある。俺はひとつ、ひとつ、記憶の糸を辿っていく。そして――



「アッ!」



 俺はアッと声を上げた。


「銭湯のオジキ!」


 白髪交じりの初老のその男性は、たしかに銭湯の番台に座っていたあの大将だった。彼はスラックスのズボンを信じられないくらいの高さまで履き上げ、その中に白のワイシャツをピッチリと几帳面に仕舞い込んでいた。そして地味なカーキ色の背広を、腕を通さずそのまま羽織り、頭には真っ白のハット帽をポンと深く載せている。どうしてもズボンを高い股上位置でキープしたいのか、両手は常にベルトを掴み上げていた。


 俺の事を覚えていたのだろうか、彼は俺を見るなりチラと片目を瞑って、あかんべぇをしてみせた。


「バスタオル――盗んじゃいねぇだろうな?」


「……。……あ、ああ……ハハ……」


 俺は一瞬何の事か分からず、思い出すのに数秒を要した。あとから思い返すとその言葉はオジキなりのジョークだったみたいだが、その時の俺には彼のそれが果たしてジョークなのかどうか、どう考えても分からなかった為、こうして乾いた笑いを返すしかなかった。俺はポケットを裏返して突き出して見せ、『へへっ……』と笑った。

 しかし、“和風”の『イケオジ』というものは、少々寒いジョークを言うくらいがちょうど良い“味”というものが出る様な気がする――とも思った。


 するとオヤジはその表情をにわかに真面目な渋面に戻すと、ザラザラとしたアゴヒゲを手いっぱいに撫で上げながら俺達に告げた。彫の深いシワが、彼の“渋さ”をより一層際立たせていた。


「恋なんてぇ、んなこっぱずかしいことはな……若ぇうちしか出来ねえもんだよ。失敗したっていいじゃねえか。すぐ別れちまったっていいじゃねえか。真っ白なキャンパスに自分なりの“絵”を描いていくのが人生ってもんでぇ……筆の誤りばかり気にして何も描けねぇってんじゃあ、話にならねェわな。きたねぇ色で、きたねぇシミばっか付けたようなヘタクソな絵でもな……あとから見渡してみりゃあ、それなりに面白れェもんだよ」


 どうしてだろうか……オジキの言葉は、俺の心にやけにすんなりと浸透し、そして深く染みわたった。オジキなりに描いてきた絵を、そのままズンと見せつけられたような気持ちになった。まるでヘタクソな絵を満面の笑みで自慢する少年。たしかに絵は汚かったが――


 ――オジキの色黒でシワにまみれた顔は、とてつもなく綺麗だった。



「そうだよ、二人とも」


 そんな時、思いがけない方向から声が聞こえた。俺たちはややビクッとしながらも背後を振り返った。



「アキホ……」


 居るはずの無い友人の姿に、なーちゃんが目を丸くしていた。


「どうしてここに?」


「ちょっと忘れ物をね……」


 なーちゃんの問いかけに、アキホはウィンクして舌をペロリと出した。


「なに忘れたん?」


 居候はきょろきょろと身の回りを確認し、彼女に探し物を尋ねた。


 その問いかけに、アキホは俺たち二人を真剣な眼差しで見つめ、そして言った。



「親友の幸せを見届ける事」



 なーちゃんの目がいったん大きく見開かれ、そして次の瞬間にはうるうると瞳が潤った。



 再び、また別の方向から、誰かが言った。



「ぶんちゃんもそろそろ良い歳だからさ……結婚とか、そういうの考えてもいいんじゃね?」


「……森」


 その声の主は、元会社の同僚、森 正也だった。


「へへっ、仕事早く終わって飯食いに来たら、偶然ぶんちゃんの姿が見えたからさ……」


「まさかまた会えるとはね」


 俺が照れくさそうに彼との軽い挨拶を交わそうとした時――


「恋愛なんてもんは勢いだよ」


 今度は逆の方向から声が掛かった。店の奥の方に目を向けると、そこのテーブル席に座っていた一団が、すっと立ち上がって俺たちに向き直った。



「アキちゃん、カレン、エリナ……」



 彼女たちは、みな、キャバクラで出会った女の子達だった。


「なんてったって、あたしの上司は月給500万やしな」


 ――よく見ると知らない女もいた。


「誰だお前は? 俺の年収も500万だぞ?」


「月給やで?」


 恥をかきそうになった俺は、慌ててそのちんちくりんな女から目を離した。


「菅原さん、シュレデインガーの猫――という話は知ってる?」


 また別の声だ。声の主を振り返ると、そこには藤岡さんが立っていた。


「どういう意味だ?」


「物理学者のエルヴィン・シュレデインガーという人が発表した思考実験でね。猫をある箱の中に閉じ込めて、50パーセントの確率で、致死毒が箱の中に充満する様に仕込むという実験ですよ。したがってその観点から見ると、猫をその状態に置いたとき、観測者が箱を開けて中を覗くまでは、『箱の中の猫は生きているとも言えるし、死んでいるともいえる』と考えることができるというわけ」


「つまり、どういう意味だ?」


「つまり、もしも菅原さんが三次元にの女の子にも興味があるというのであれば――別に付き合ってもいいんじゃないかってことよ」


「…………。…………どういう意味だ?」


 彼はなんでシュレデインガーの猫の話をしたのだろうか?



「ういっす」


「あ、どーも」


 ふと入り口の方に目をやると、五郎とみーちゃんが店内へと入ってきていた。


「どうも」


「おっす」


 俺と居候が軽く挨拶すると、彼らは何も言わずにどこかのテーブル席へと着いた。


「……」


 なんか言えよ、と思った。


 その後も続々と店内に人が入ってきた。俺がサウナの前に立ち尽くしていると、横から『鍵無いと入れないよ』と教えてくれたオッサン。二回目に行った銭湯にて銭湯の脱衣所にて俺にロッカーの鍵の開け方を教えてくれたオジサン。マッサージ屋の中国人の店員。俺達をキャバクラへ案内してくれたボーイ。バーのダンサー店員たち。

 ……それと、さっき目が合った厨房のスタッフ、どこか見覚えがあると思ったらエスカレータで逆走しそうな所を助けてあげた愛想の悪いあのお兄さんだった。


 みな各自、俺の姿を見留めるなり、いろいろなアドバイスをしてきた。六本木ジョンに至っては、『お前あの時逃げただろ? 追いかけるからなこの野郎』とかなり流暢な日本語で囁かれた。



「みんな……ありがとう」



 店内はすでにもう満員だ。ぎゅうぎゅうに人が押し詰め、俺達二人を取り囲むように見守っていた。


 思いがけずギャラリーが増えてしまったが、むしろ絶好のシチュエーションだ。



「すーた!あとは言うだけや!たった一言、男やろ⁉ 言うてみろ!」



 居候が俺の背中を後押しした。――そうだ。あとは言うだけだ。俺は今こそ、皆が見守っているこの中で、“あの言葉”を言ってやるんだ!


 そして俺はスッと息をひとつ吸い込む――


 覚悟を決めた。



 そして……



「ごめんなさい!」



 その言葉は、周囲を取り巻くすべての顔から血の気を奪った。期待を込めた眼差しで見守っていた全員の目玉を瞬く間に丸くさせた。そしてその場は、永遠とも感じられる様な凍りついた空気に、支配された……



 そして――



 驚愕の表情を浮かべているのは――



 俺も同様だった……



「やっぱりあたし、すーちゃんとは付き合えない!だって、そもそもあたしのタイプじゃないし!」



 なーちゃんは突き放す様にそう言って、俺に深く頭を下げた。



 一秒……


 二秒……


 いや、何秒経っただろうか? いや、何分経っただろうか?


 時が止まったように固まったその空間。誰一人として動くものは無かった。時間が停止した訳では無い事を証明できるものは、ただ厨房から聞こえる換気扇の音だけであった。



「…………」



 すると、やがて換気扇が風を切るだけのその空間に――



 パンッ



 ひとつの乾いた音が、鳴った。



 パンッパンッパンッ



 やがてその音は数を増し――



 パチパチパチ



 俺の心を慰めるようにして、優しく包み込んだ。――みんなが拍手をしていた。その慰み、称賛、さまざまなものが詰め込まれた眼差しは、すべて俺に注がれたものだった。



「惜しかったな……」



 森がウンウンと感心した様に首を振りながら、俺にそう一言声を掛けた。



「せめて告白くらい……受けてやればよかったのに……」



 アキホがなーちゃんを責める様に呟いた。



「よせやい……これは、嬢ちゃんなりの優しさってもんよ」



 オジキがそう一言、アキホを制す。すると藤岡が何かに気が付いた様にハッとなーちゃんを振り返った。



「……優しさ? まさか、菅原さんを傷付けない為に……あえて先にフッたってこと⁉」



 頭を下げたままのなーちゃんは何も言わなかった。しかし、否定もしなかった。



「今は、すーちゃんを慰めよう? すーちゃんは……頑張ったッ」



 気が付けばアキ、カレン、エリナの三人も俺のそばまでやってきて、うっすらとその目に涙を光らせている。


 そして、俺を包む温かい拍手と眼差しは、その上からさらに俺の全身を包みこんでいった。



 しかし――



「……違う」



 拍手と称賛に賑わうその真ん中で、俺はポツリとそう漏らした。しかしその声は小さすぎて、誰にも聞こえていない。



「違う!」



 今度はもう少し大きな声で叫んだ。オジキが片眉を上げて俺の言葉に反応した。しかしオジキ以下全員の拍手は決して鳴りやむことはなかった。



「違うんだ!ちょっと、待ってくれよ!これは何かの“間違い”なんだ!」



 俺はオジキに縋り付いた。そして必死の形相で顔を振り乱し、訴えた。



「辛ェのは分かる。だがな、これも人生だ。人生に“間違い”なんてものは、絶対にねぇよ」



 オジキは渋く太いその声には似あわない、優しげな口調で俺をそう諭した。



 しかし――



「違う!違う!違う!」



 そう。違うんだ。これは、“間違い”なんだ。


 俺が言おうとした“あの言葉”というのは、決してそんなんじゃない。みんなが想像してる様な、そんな言葉じゃないんだ!



「ちょっと待ってくれ!みんな!拍手をやめてくれ!温かい目で俺を見るな!俺は――“告白なんてしようとはしてなかった”んだ!」



 彼らの表情が、“憐れみ”に満ちたものになった。急にこんな情けない事を言い出した俺を、誰も咎めるものはいなかった。軽蔑するものもいなかった。ただただ、そんな俺を、涙ぐんだ憐れみの目で見守るばかりだった。その優しさがまた、痛かった。


 でも、違う。これは、事実なんだ。



「俺は!俺が言おうとしていたのは……俺が言おうとしていたのは……『誰がお前なんかと付き合うかこのアバズレ』だったんだ!俺はそもそもこの女の事なんて好きじゃない!なんか勝手に俺がコイツの事を好きだって、そういう流れになってたから、いっちょ恥をかかしてやろうと思って……」


「兄ちゃん……いくらフラれたからと言って、そんなことを言っちゃならねえ。……男がすたるぜ?」


 オジキの厳しい表情によって、俺の訴えは中途半端に止められた。


「ぶんちゃん!ここは我慢!フラれた腹いせにそんなこと言っちゃダメだよ!」


 見ると森 正也が、自らの目の前でギュッと両拳を握って力強く俺を叱咤していた。


「違う!ぜったいに違う!そうじゃない!腹いせとかじゃないんだ!本当に俺はそう言おうとしてたんだ!本当だ!信じてくれ!」


「すーちゃん、もうやめよ?」


 アキたち三人も、泣きそうな目で俺を見つめている。


「待て!『もうやめよ?』はやめろ!せめて『もうやめて』にしろ!『もうやめよ?』って優しく言われるとなんか俺がめっちゃ可哀想なやつに見えてくるから!俺は可哀想じゃない!本来はこの女が可哀想になるところだったんだ!こっぴどく振ってやるところだったんだよ!」


「ダッジョブ、ダッジョブ(大丈夫、大丈夫)」


「やめろジョン!親指立てるのやめろ!グッジョブしながらダッジョブ言うな!」


「山重水复疑无路,柳暗花明又一村」


「やかましいわ中国人!今それやめろ!なんかめっちゃ腹立つ!」


「月給500万あったら付き合えてたかも、それよりあたし今から帰るしタクシー代ちょうだい?」


「うっせー売女!枕でも売ってタクシー代にしとけ!」



「すーたさん……」


「……五郎、みーちゃん、お前ら……」


「……」


「……」


「だからなんか言えよ!肩ポンってやって黙って頷くな!お気持ち察したような顔して頷くな!」


 みんな、みんな俺の言う事を信じてくれなかった。散々貶されて、侮辱され、挙げ句の果てに告ってもないのにフラれ、そして皆からの憐れみを受ける。もう、死にたくなるくらいの屈辱だった。



「すーちゃん!」



 そんな時――



 思いがけない方角から、俺の名を呼ぶものがあった。



「……へ?」


 それは、まぎれもなく、さっきからずっと頭を下げ続け、一言も声を発する事のなかった――


 なーちゃんだった。


 彼女は、やっと、頭をもたげた。ひょっこりと姿を見せたその表情は――


「すーちゃん、ごめんね? あたしのせいで、こんなに悲しい思いさせちゃって……。でもね、これでいいの……アタシが……『悪者』になるからさ。すーちゃんは……何も悪くないんだよ」


 彼女のその表情は、涙を流しながらも、明るく笑いかける“優しさ”そのものだった。



「……」



 俺は数秒、その涙を見詰めていた。



 そして、発狂した。



「キッサッマァァッ!」



 なーちゃん目掛けて飛び上がる。――両手をワキワキさせながら。俺はテーブルの上に飛翔し、彼女の遥か上空から襲い掛かった。しかし――



「すーた!」



 空中に舞った俺の体を、身を挺して受け止める者があった。



「い、居候……!」



 彼は、ぎゅっと強く、しかし優しく、俺の体を抱き止めた。中途で受け止められた俺の身体は居候とともに、テーブルの上へと着地した。



「すーた……もう、いいんや。俺は、お前の事をよく知ってる。お前は、優しいやつや」


「違う……違う……」


 いくらジタバタともがこうと、彼の大きな両腕はびくとも動かなかった。


「違うことない!お前は優しいやつや!お前はいつでも、自分から悪役を買って出て、相手を守ろうとする……」


「いや!マジで違う!みんな冷静になってくれ!マジで違うから!」


「すーた。落ち着け。いったん頭冷やそ?」


「冷えてるから!マジで!頭痛するくらい冷えてるから!」


 暴れる俺をものともせず、居候は俺を抱きしめていた。俺の顔は彼の胸元に埋もれ、声も満足に発せない。



 俺は好きでもない女に振られた。しかも、逆に振ってやろうとしていたところを、さらに逆に先制された。そしてあまつさえ、誰も俺の真なる思惑を信じてくれない。それどころかなーちゃん本人でさえ、その事を信じようとしていない。



 あまりの屈辱に――



「ウッ……ウウッ……」



 涙が出てきた。



「……分かってる。辛かった。辛かったよな? 今は思う存分、ここで泣いてええから」



 居候の胸元は、俺の涙でグショグショになった。しかし、それでも彼は、いっさい気にする素振りはなかった。



「すーた。お前のおかげで勇気を貰えた。俺も、これからのこと、頑張るよ」



「ウワァァァァアアッ‼」



 店内に、俺の慟哭が轟いた。ずっと、いつまでも。




あと二話で終わりです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ