一日目 ウンコ占い
バスを降りた。
ケツが痛い。体は鉛でできているかのように強張っていた。特に腰が尋常じゃなく痛かった。外はもうすっかり、明るくなっていた。
まず、降りてすぐ顔を上げると、俺の視界いっぱいに立ちそびえる大きな建物がドッシリと身構えていた。
建物の上の方に掲げられたアルファベットを注意深く読んでみると――『Yodobashi-Akiba』とある。
「それでは、先生!またどこかで!」
ふと後ろから掛けられた声。振り返ってみると、やはり先ほどの男が大きなスーツケースを引きずってどこかへ行こうとしていた。バスからは寝起きの乗客たちがフラフラと、まるでゾンビのように、皆同じ方向へと足を引きずっていた。
一応の社交辞令として、俺は挨拶してきたその男に力なく片手を上げて見せる。それから俺はとりあえず、皆が向かう先とは“逆の”方向へと足を向けた。――とりあえずセブンイレブンでウンコをしよう。
セブンイレブンの店内は、なんだかゴチャゴチャした居心地の悪い場所に感じられた。小さなトイレが一つあった。俺はそこに入ると、狭苦しい足場になんとか場所を見出し、バカにデカいリュックサックをそこに落ち着けた。そしてジーパンをパンツと一緒に全て脱ぎ捨てると、俺は洋式便器の上に乗っかり、和式座りの体勢で力を込める。
――力を込めているところで、俺はふとある事を思い出した。
俺は頑張って床に手を延ばし、落ちているジーパンを何とか掴み上げた。そしてズボンをグルグルと引っ掻き回し、少々手こずりながらもポケットからスマホを取り出した。俺が東京に到着した旨を、居候に報告しなければならない。――なぜなら、この四日間、俺は『居候』の家に居候させてもらうからだ。
俺は今回、9月の下旬の4連休を利用して東京を訪れた。目的はもちろん、危機的生活を送っている居候を助けてやるためだ。どうやって助けるのかはまだ決まっていない。しかし、俺が直接行ってやれば、きっと彼の酷い現状をパッと救い出してやれるに違いないのだ。
俺は彼にメッセージを送った。
着いた 6:28
そして携帯をズボンの上に放り投げる。携帯はズボンがクッションとなって、音を立てずに地面に落ちた。そして、俺はまた下半身へと念力を込めはじめた。
結論から言うと――
ウンコは全然出なかった。
今回のトイレは、十分足らずで用を足し終えた。これは普段の俺からしてみれば考えられない事であり、ともすれば空から槍が降る前兆なのかとも思われた。しかし、常識的に考えて空から槍が降る事など考えられない。だから俺はこの現象について、『まあ、こんなこともあるのだろう』というくらいにしか思わなかった。取り留めて気にすることもなかったのである。
しかし、いま思えば、これこそがまさに“予兆”だった。『俺の大便がわずか10分足らずで終わる』という非現実的な事が起こっているのは、れっきとした事実であることに違いない。
現にいま、非現実的現象は起きているのだ。そう考えれば、これから起こるであろう出来事が、たとえそれが非現実的であったとしても、何も不思議は無いということになる。そう――いま思えば、予兆はすでに形となって表れていたのだ。
結論から言うと――
本来、俺にとってこの東京遠征は、ただ大学時代の旧友に逢いに行くというだけのものに過ぎなかった。しかし、俺の思惑とは裏腹に、今回滞在したこのわずか4日間という短い期間の中で、俺は実に様々な出来事に遭遇する事になる。だが、その時の俺にはまだ、それを知る術は無かった。
ペットボトルコーラを買ってコンビニから出ると、向こう側に駅が見える。それこそさっきバスの乗客たちが目指していた場所だった。駅名は、秋葉原駅とあった。
秋葉原駅――とある割にはコスプレをしている者なんてどこにもいない。俺は心底安堵した。普通の格好で来てよかった……と心底安堵した。
歩きながら、携帯を取り出してみた。もう居候からの返信が来ているかもしれない。しかし、俺が確認するよりもとっくの前に、すでに返事は来ていたらしい。たった一言――『どこ?』とあった。
『秋葉原駅前』と手短に打つと、俺は続けて『今からどこに行ったらいい?どのように歩いたらいい?』と打ってやった。
そう言えば、昨晩俺が大阪を出発する時点で、彼はすでに『秋葉原駅から南北線に乗って麻生十番駅の一番出口を目指せ』と送ってきていた。だが前のメールを見返すのも面倒くさいし、そもそもどうやって『麻布十番駅』というところへ行けばいいのかが俺にはとんとわからない。いや、ネットで調べれば良い話だが、それも面倒くさい。
――と言うよりも、俺はとりあえず一服したかった。だから居候に対して続けてメールを送った。『とりあえず俺はタバコを一本取り出した。』――と。頼むからすぐにメールには気づかないでくれ、と俺は願った。
しかし俺の祈りもむなしく、居候から電話が架かってきたのはその二分後だった。タバコはまだ先っちょの方しか燃えていなかった。アメリカンスピリッツは、特に“ヤニ持ち”が長い。
「もしもし」
秋葉原駅の入り口で、俺はタバコを片手に電話を取る。タバコがやけに不味かった。
『なんしとん』
その声はなぜかひどく、不機嫌に感じられた。しかし、居候の声、そしてその言葉に、ホッと胸が温かくなっている自分もいた。
なんしとん――
俺はその言葉がたまらなく懐かしく思った。
コイツはいつもそうだった。大学時代よく、急に俺に電話を掛けて来ては、いつも不機嫌にそう聞いてくるのだ。
そして俺が『今からバイト』と答えると、彼はまるで“ゴリラ”の様に激怒して『お前今日は俺と飲みに行く言うてたやろうがぁ!』と怒鳴りつけて一方的に電話を切るのだ。――むろん、毎度そんな約束はしていない。
俺の口元は自然と綻んでいたらしい。
「さっきまでウンコしてた。今はタバコ吸ってる」
なんとなく、からかってやりたくなった。
すると電話口の向こうからは心底イラついたような声が、震える様に聞こえてきた。
『もうそんなんええから、はよ来いや』
「行き方が分からなくてね」
『自分で調べろや』
苛立たしげな彼のため息。もしかして――本気でキレているのか?
「何でキレてるの?」
少々不安に感じながら俺は尋ねてみる。すると彼はたった一言、答えた。
『眠いんや』
今度はこっちが、少々腹が立った。
「こっちだって眠いんだよ。バスの中で一睡も出来なかった」
『知らんわそんなん……はよ来な家の鍵閉めるからなバイバイお疲れもう寝るわじゃまた』
つらつらと言い連ねた挙句、やはり彼は一方的に電話を切った。
俺は舌打ちをしながらも、どれでもいいからとにかく電車に乗ろうと考えた。とりあえず電車にさえ乗れば、少々遠回りしても目的地には着くだろう。
そしてまだ三分の一も吸い終わっていないまっさらなタバコを捨てた時、俺の携帯が再び震えた。メッセージが一件入っていた。
彼から送られてきたそのメッセージを見ると、中身はなんと電車の乗り換えルートを検索した画面のスクリーンショットだった。ありがたい。俺はその案内に従って、改札口へと向かった。
当然と言えば当然のことだが――
東京の駅は、やはり大阪のものとは違って見えた。別にどこかが優れている、という訳では無い。ただ無駄にハイカラに見えるところが妙に鼻についた。
外にむき出しになったプラットフォーム。線路の向こう側を見下ろすと、何だかよく分からないマス目状にいくつか別れた人工池が広がっていた。何のための池かはさっぱり見当も付かなかった。
その池のさらに向こうでは、縦長いビルたちが今の俺と同じように、十人十色の表情で反対側から同じ池を見下ろしていた。
別に都会だとは思わなかった。大阪で見慣れたような、何でもない光景だ。
俺はますます分からなくなった。
なぜみんな、この街に憧れるのだろうか……
なぜ“居候”は、この街に来たのだろうか……
俺は目の前の“複雑怪奇”な街並みに対してそんな疑問を胸に抱えながら、やがて俺の目の前に滑りこんできた電車へと、乗り込んでいった。