二日目 俺の悪癖
「なにがシャーロック・ホームズばりの観察眼やねん」
居候が手のひらを受け皿のように上向きに広げ、天を仰ぎみながら恨み言を訴えた。
「これくらいじゃあ降っているうちには入らないよ。濡れるほどじゃない。濡れなければ降っている事にはならない。俺の推理は正しかったんだよ、ワトスン君」
「やかましいわ」
しかし雨は本当に大したことがなかった。
それどころか、帰り道を歩いているうちに、雨はいつの間にか止んだ。
それでも居候は急ぎたかったようで、早歩きで家の方へと向かっていった。俺は走って追いかけて行った。しかしついに彼に追いつくことは出来なかった。……短足。
部屋に着いたときには13時前だった。俺達の様なダラダラした男の休日では、朝食と昼食が兼任する事は良くあるような現象だった。
「ドア閉めてウンコせーや!」
居間の方から、聞き慣れた怒鳴り声が聞こえてきた。
「良いじゃないか!ウンコはなるべく開放的にするのが一番なんだよ!知らないのかね!」
「あと声もうるさい!叫ぶな!」
そんなことを言われても困る。腹が痛いのだ。鈍痛に耐えかねてついつい絶叫してしまうのは俺の癖なのだ。仕方がないのだ。
俺は額にうっすらと汗がにじむのを感じていた。しばらくすると再び、腹にずんぐりとした鉛が居座る様な感触を覚えた。
「ああぁ!ウンコしたいわァ!」
気が付けば俺はまた、叫んでいた。
「だからうるさいねん!いまウンコしてるやんけ!ウンコせーや!」
『ウンコしたいわぁ』は、毎回叫んでしまう決まり文句である。特に意味なんてない。
「だからお前ドア閉めろって言うてるやんけな!」
彼の声が、こんどは割と近くから聞こえた。途端、トイレのドアがひとりでにバタリと閉じた。居候がわざわざ自分から出向いてトイレのドアを閉めたのだろう。
その後、俺の大便は約三十分にも及んだ。いつもどおりだった。
「どんだけ長いねん、お前……」
居間の布団では、居候がいつものようにデカい図体を表向けに倒していた。
「まだ短い方さ」
とは言っても、俺のケツ穴はいまだに後味の悪さを残している。少し疲れたので俺も横になる事にした。
「お前さ――」
同時に彼が声を掛けてきた。俺は特に意味も無く、携帯を弄っていた。
「まだ“あの座り方”でウンコしてんのん?」
「……」
ぎくりとした。
「……何の事かね?」
一応、しらばっくれてみる。
「戸しめるとき隙間から見えてん。あのワケの分からん座り方……」
「仕方がないじゃないか。あの座り方じゃないとどうにもウンコが出ないんだ。物心ついたときにはやっていたよ。たしかまだ、お母さんと一緒じゃないとウンコが出来ない年頃の時分は大丈夫だったんだ。だけど、いつからかあの座り方でウンコをするようになっていたんだ。洋式便器の上に、和式の座り方をするやり方でね」
俺はつい早口で捲し立てるように言葉を次いでしまう。
「便座壊れへんの?」
「たまに壊れる。バキッて音がするときがある」
「壊したら弁償な」
「大丈夫さ。きみの家の便座は丈夫だった。今しがた確認済みさね」
もう一つ言うと、この座り方でウンコをした時、ときどき便座が一大事になる事がある。もっとも、『穏やかなウンコ』であれば大丈夫なのだが、もしも“今回”のように『激しいウンコ』だった場合は、便座の裏などにウンコ色の混じった水滴が多数飛び散ったりするのだ。
「……」
しかし、この事は伏せておこう……
「……」
居候が携帯画面をタップする音だけが、その場に鳴り響く……
「……」
俺の心に潜むは、罪悪感か、恐怖心か……
「……さて、掃除でも始めようじゃないか。手始めにまずはトイレだね」
俺はにわかに起き上がり、先ほど自分が用を足したトイレへと向かった。やはり証拠は隠滅しておくに限る。
しかしいざ、対象を至近距離で見つめてみると、その便座はすでに手の施しようも無いくらいに汚かった。もはや俺が汚したのかどうかなど分からないほどにそれは汚れきっていた。俺が汚したかどうかも判別できないほどに、汚れていた。
居候が汚したであろうウンコはもはや便器にこびりつき、宿命的な模様を象っていた。ところどころに三つのウンコ汚れが集合し、シミュラクラ現象によってウンコ顔を形成している部分すらあった。
しかし、その中でも、やはり比較的新しいウンコ汚れは存在した。それがきっと、今しがた俺の遺したウン痕だろう。
もし彼がシャーロックホームズばりの推理力を発揮した場合、そのウン痕の新しさや古さによって、ウンコ推定時刻を特定されてしまうかもしれない。
そうならぬよう、やはり証拠となるものは全て拭き取ってしまうに限るだろう。
俺は早速、そこにあったウェットペーパーで懸命にゴシゴシと汚れ部分を擦ってみた。……が、一向に汚れは落ちる気配がない。俺は左腕に筋肉疲労と息切れを感じながら、さながら親の仇の様にいつまでもゴシゴシしていた。
二、三回ウェットペーパーを取り換えたところで、ようやく便器の汚れはマシになった。まだ床が汚かったが、適当に拭いて誤魔化してやった。
フッと息を吐きながら立ち上がった際に、無理な態勢から解放された事による幾ばくかの心地よさと、わずかばかりの達成感を感じた。そして俺は黙って、今度はバスルームへと移動した。
居候にはあくまで何も報告はしなかった。こういった事は、“サプライズ”の方がうれしいものだ。それかただ俺がカッコつけたいだけなのかもしれない。
そして、いざバスルームを掃除しようと、掃除道具に手を掛けようとした時、俺はふとその手をピタリと止めた。
「居候くん……」
居間の布団で寝ているであろう男に向けて俺は叫んだ。
「ん?」
「風呂場をゴシゴシする奴は?」
視線だけはバスルームの中を彷徨わせながら、俺は問うた。
「無い」
彼は至って平然としていた。
「正気かね?」
「だから~!トイレ掃除するブラシあるやろ!それ使ったらええやん!」
彼の言い方は、さながらこっちがくだらない事でワーワー喚いているかのようだった。俺は仕方なく、トイレからブラシを取り出した。柄の短いそのブラシの毛先はたぶん、本来は白かったに違いない。しかしいまとなってはその毛先は、チリチリした別の毛によって黒染めされていた。
「正気かね」
俺は誰に言うでもなく、漠然とそう呟きながら、出来る限りそのブラシの姿を視界に入れないようにバスルームに持ち込んだ。
そして、いざ掃除を始めようとした時、再び俺の手が止まった。
「居候くん……」
「もう~!なに~!」
まるで母親にしつこく呼び出される少年のように駄々をこねる居候。そんな彼に、俺はまた問うた。
「洗剤は?」
「無いよ!」
その答えを皮切りに、俺はブラシを放り出した。『やめだやめだ!』と叫びつつその場を立ち去った。
この男はいったい今までどうやって生きてきたのだろう? ーーそうため息を吐きながら、俺はまたマットレスにゴロリとなった。
それでも彼の気持ちはよく分かる。だって、俺も同じ類の人間だったからだ。
たぶん、いつかはちゃんとしよう、いつかはちゃんとしよう、と思っていたに違いない。たしかに俺も過去に一人暮らしをしていた時、そんなことはままあった。引っ越しの荷物を新住居に運び入れた際、荷物の詰まった段ボールなどを押し入れの中にぶち込むと、ほぼ百%の確率でその段ボールはそのままになる。数年経ち、その部屋を引き払うまで、結局その段ボールはそのままになってしまうのだ。あと、スーツケースにしたってそうだ。新住居に越してきたあと、とりあえず入用な荷物を取り出す為にスーツケースを床に広げる。そうしてそのスーツケースは床に広げられたまま、動かぬオブジェと化すのである。
俺と居候は本当に良く似ている。明日やろう、明日やろうといつも考えている……
俺達のような人間はまず、小さなことから始めなければならない。そして、自分で褒めてやらねばならない。
夜、面倒臭がらずに歯を磨けた。えらい、えらい。
洗濯機に入ったままの衣服を面倒臭がらずにちゃんと外に干してあげた。えらい、えらい。
そして今度は外に干しっぱなしにしていた洗濯物をちゃんと取り入れ、畳んでタンスに直してあげた。えらい、えらい。
おかしを食べた。そのゴミをちゃんとゴミ箱へと捨ててあげた。えらい、えらい。
支払期限のある請求書、ちゃんと遅れずに支払ってあげた。えらい、えらい。
こんなことを人に言うと笑われるかもしれない。当たり前じゃないかと。でもいかんせん、俺達みたいな人間は、そうしなきゃ到底ダメみたいなんですよ。仕方がないんです。
「足つぼマッサージがしたい」
唐突にそんな事を言い出した俺に、居候は無言でこちらに目を向けた。無理も無い、居候なんかに分かるわけがないだろう。なぜなら、俺もなんで急にこんなことを言い出したのかが、さっぱり分からないからだ。
「居候くん、忘れたのかい? 俺はね、一週間に一度、足つぼマッサージをしないと死ぬ人間なのだよ」
「じゃあ死ねよ」
「不吉な事を言うな!」
俺は布団から飛びあがって彼を怒鳴りつけた。
「大声出すなよ、お前が『足ツボしな死ぬ』とか言うからやんけ。そんなん言うたら『じゃあ死ねよ』って言われるに決まってるやん」
俺は鼻息荒く、また自分の布団へと身体を倒した。
「ちょっと行った所にマッサージ屋あるわ。俺も前行って中国人の男の人にやってもらったけど、けっこう上手かったで」
「どこにあるんだい?」
聞くと、返事はない代わりに、俺の携帯にメッセージの受信が入った。
居候からのメッセージを開くと、そこにはその店のホームページのリンクが貼り付けられているのみだった。
「どこにあるんだい?」
「だからそれ見て自分で調べて行けよ!」
俺はどうも、場所を調べるのが苦手だ。いや、嫌いと言った方が良い。なぜかは分からない。
「どっちの方にあるかくらいは教えてくれたっていいだろう?」
「南」
「分かった。行ってくるよ」
断りを入れながら身体を起こそうとする俺に、居候は目もくれずに言った。
「予約は?」
「空いてるだろう」
俺はうんざりした口調で言った。
「めんどくさがらんと電話しろや。ついでに住所もマップにコピペして行ったらええやんけな!」
彼に言われて、俺は初めて気が付いた。俺はただ面倒くさかったのだ。言われてみると簡単な事だ。予約をしていった方が万が一にも無駄な時間を過ごさずに済む。そしてマップで住所を検索して向かった方が無駄なくたどり着くことが出来る。しかし、その作業をする事すら、俺には面倒くさかったのだ。
「わかったよ……」
そうは言いながらも、俺は少しむくれ気味だ。渋々、といった感じだったが、居候のくれたホームページから電話番号を調べ、たしかに電話を掛けた。出たのは男性だった。
「今から行けますか?」
単刀直入に聞くと、電話口の相手はやや難しそうに『うう……』とうめき声を上げた。
『一番ハヤクて……16時からデス……』
男の話口調はややカタコトの日本語の様に聞こえた。俺は耳から携帯を離し、今の時間を確認してみる。パッと視界が捉えた置時計は、二時前を指していた。
「よろしい。それでいいでしょう」
『うう……コースは……?』
「一時間の足ツボがやりたい」
そう答えた途端、横から『長いわ……!』と、居候の苦情が飛び込んできた。俺はいったん電話口の男にしばし待つよう申し付けてから、居候に詳しく聞き返した。
「どうして?」
「俺その間ずっと一人ぼっちやんけ!」
「案ずるな、きっと帰ってくる」
すると居候は拗ねてしまったのか、『はよ帰ってこいよ……』と小さな呟きを残すと、そのまま俺に背を向けるようにして寝返りを打ってしまった。
「……」
なにはともあれ、納得してくれたようだ。俺は再び電話口の男に話しかけた。
「待たせた」
『どうシマスか?』
「40分のコースはあるかい?」
『うう……アリ……ます……!』
「よろしい。それがいいでしょう」
そうして、俺は約二時間後に、足ツボマッサージに行く約束を取り付けた。
「ちなみに今日はどうすんのん?」
俺が電話を切ったあと、居候がこちらに背を向けたまま、不意にそんなことを聞いてきた。
「今日は別の友人と飲みに行く予定があってね。きみは?」
「俺は今日休みやん。だからずっと一人やし暇やなあって……」
そう言って彼の口調は尻すぼみに沈んでいく。
「……」
デカいはずの居候の背中は、今はしょんぼりと小さく見える。なんだか、ちょっと彼が可哀想に思えてきた。
「……」
「……急にどしたん、すーちゃん」
別に……どうというわけでもない。ただ何となく、彼の布団にもぐりこんでみたくなっただけだ。
「居候くん、まさかこうしてまた、たった二、三日に過ぎないけど……きみと一緒に暮らせる日が来るなんて思わなかったよ」
彼の背中に、手を触れてみた。……温かい。そんな温かな逞しい肌が、小さく、小さく呼吸していた。
「なんか……懐かしいな」
そういう彼も、どこか照れくさそうにしていた。
「居候くん」
俺は静かに彼の身体に腕を回し、囁く。
「ん?」
空気の抜けたような彼の声が、なんだか可愛らしい。
「ちょっとだけ寝ようか」
そして二人は、同じ布団の中で、寝た。




