一日目 十万円の重み
血の気が引いた。突然に、である。
さっき財布の中身を見た時には、何という事も無かった。なぜなら万札が1枚と、五千円札が1枚、そして千円札が6枚――計2万1千円がたしかに財布に入っていたからである。財布の中身は十分に潤っていた。どうという事も無いだろう。お金が減っているという実感は全くわかなかった。
そう――
早朝、ここ東京に到着したときの手持ちの金額と、ほとんど変わらなかったのである。
そう――
だからこそ、俺は衝撃を受けたのだ。
――俺はいったい、今日“何度”五万円を下ろしただろうか?
いくら使ったかは分からない。計算しようにも、呆とふやけた頭ではどうしても上手くいかない。しかし、ひとつだけ、簡単に分かることがある。早朝時点での手持ちの金額は2万円くらい。少なくとも万札が二枚あった事は覚えている。そして夜になってから俺は二度、ATMから“五万円”を下ろした……
そうして俺は小学生でも出来るような算数を頭の中で弾いていく。そして――
――結果、今の手持ちは2万1千円。
「居候くん……」
俺は“例のあの女”に聞こえないように、そっと居候の近くにまで忍び寄った。そして、震えの混じった声を出来るだけ低く沈めて、彼に囁いた。
「俺、今日一日だけで……10万円使っちまった……」
「……」
居候は一瞬苦い顔をして見せた。しかし、彼はとくに何も言わなかった。ただ黙ったままであった。
タクシーの中では、至ってとりとめも無い会話ばかりしていた。しかし俺の方はというとやはり先ほどの事実が気がかりで、ほとんど放心状態になっていた。どんな話をしていたのかも特に覚えていなかった。
「タクシー代ちょうだい」
隣に座る彼女が、しきりにこんなことをのたまっている。
「うるっさいな。タクシー代くらい自分で払えや」
居候の言う通りだ。俺はもうこれ以上、金を使いたくなかった。
「タクシー代、三千円……」
しかし彼女は一歩も引き下がらず、何度も何度もそうねだるばかり。
「お前港区に住んでんねんやろ? 三千円も要らんやんけ!」
「え~、要るって。家までタクシーで三千円かかんもん」
二人はこんなやりとりばかりしていた。
俺は何気なく、彼女の横顔に目をやった。彼女はタクシー代を無下に断られ続け、深く俯き、沈み込んだ表情をしていた。そんな顔を見ていると、何だか彼女が不憫に思えた。
「なあ~、タクシー代ちょうだい」
今度は俺に矛先が向けられた。
「そうは言ってもねえ……」
そうは言いながらも、俺は千円札を二枚ほど取り出した。さすがにこれくらいは負担してあげたほうが良いのではないだろうか?
「2千円あれば足りるだろう?」
「足りひん」
憂に満ちた表情のまま、彼女は即答した。――どうやら彼女はたったの一千も出すつもりはないらしい。
「すーた。出さんで良いぞ」
釘を刺してくる居候の声音は、いつになく真剣だ。彼も相当この女に対してイライラしているように見える。俺はやはり思い直した。やはりわざわざタクシー代まで出してやる事も無いだろう。彼女は社会人だ。ちゃんと仕事もしている。俺は一度取り出した二千円を再びしまった。財布に戻すのは面倒だったため、俺は二千円を、裸のまま右ポケットに突っ込んだ。
やがて、俺達の住処が近くなった。俺はもうそろそろ降りる準備を始めていた。彼女はと言えば、いまだに『タクシー代、タクシー代』と念仏のように唱えている。
すると、いよいよ目的地が近くなるにつれ、さっきまで一定のスパンで放たれていた彼女の“おねだり”は、だんだんその間隔を短くしていった。
「タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代」
まるで壊れたロボットのように騒ぎ立てる彼女……
心底気味が悪かった。
「タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代」
俺はただひたすら無視していた。
「タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代タクシー代」
まるで、耳元で死の呪文を唱えられているような感覚だった。頭が割れそうになってくる。そして、俺がついに自らの耳を塞ごうと、両手で頭を抱え込んだ時――
「あ!こら、きみ!」
彼女は俺の右ポケットに手を突っ込み、千円札二枚をぐしゃぐしゃにもぎ取ってしまったのだ。とんでもない、と思った。
「きみ!泥棒は嘘つきの始まりと聞くぜ!」
さすがに俺も声を荒げ、彼女を叱り飛ばす。しかし彼女は一向にさきほどの沈んだ表情を変えもせず、ただ黙りこくっている。はたから見れば、まるで彼女が被害者のように見えるかもしれない。相当図太い精神を持ち合わせているようだ。
俺は仕方がないので諦める事にした。小さく舌打ちを一つ残すと、いつのまにかタクシーは目的地に着いていた。彼女を残して俺たち二人は先にタクシーを降りた。
――まったく、なんて女だ。
これだったら二軒目のキャバクラの女の子にお金を貢ぎあげた方がいくらかよかっただろう。居候もどうしてこんな地雷女を呼び寄せたのか。
そして、俺と居候の二人、さっさとその場を離れようとした時、タクシーの後部座席に座り込む彼女がまたとんでもない事を言い出した。
「あと1千円足りひん」
「破廉恥め!」
彼女の一言に、俺はすっかり憤ってしまった。
こいつ!泥棒をしておきながらまだこんなことを言いやがるのか!
俺はもう我慢がならなかった。
「すーた!もうほっとけ!」
居候はすでに車の走っていない大道路を渡り、向こう側の歩道へとたどり着いている。俺は彼女の方を振り向いた。彼女はこちらも見ず、ただ沈んだ表情でただ前だけを向いて俯いていた。なんとなく被害者ヅラをしているのが無性に腹が立った。
「きみねえ!さっき俺のポケットから2千円を分捕ったところだろう!この期に及んでまだ強請る気かい⁉いい加減になさい!」
しかし彼女はその言葉になんら反応する事も無く、ただずっと『1千円足りひん。1千円足りひん……』と呟くのみだ。
俺はついに、ヤケになった。めちゃめちゃに引き裂くようにして、財布から1千円を引っ張り出した。そしてそれを車の窓越しに座る彼女の顔面に投げつけてやった。
「お前とはもうこれで終わりじゃあッ!」
気の狂ったような絶叫も一緒に、叩き付けてやった。
彼女の顔に張り付いた千円札が、ピラとめくれて彼女の膝元に落ちると、憂いに満ちた彼女の顔もまた、そこに現れた。
「マンコ臭いねぇん!」
閑散とした麻布十番の暗闇に、俺の罵声が木霊した。
「初めて出会った時から思っててん!お前なあ!お前は自分の臭いに気づいてないと思うけどなぁ!お前ホンマはめっちゃマンコ臭いからな⁉」
もちろん、ウソである。でもそれほどに俺はいま、激怒していた。
「オマンコォォ!」
ありったけの怒りを込めて、まるで顔面に生卵でも投げつけるかのように口汚く罵ってやった。俺の声は、一陣の波紋となって閑散とした夜空に四散した。
「……」
彼女はおし黙っている。散々に喚き散らしてやったおかげで、気が付けば俺の怒りはずいぶんと落ち着いていた。
やがて、タクシーは音も立てず、滑らかに発進した。スッと俺の目の前から、彼女の姿もスライドした。彼女の何とも言えぬ表情が、やけに脳裏に焼き付いた。
――言い過ぎたかな?
俺の心は打って変わったように、すぐに申し訳なさに見舞われる。走り去ろうとするタクシーの背中を、見守った。まだ、間に合うやもしれぬ。
「ごめん!」
俺は追いかけるように、大きな声で謝った。そしてせめてもの慰めとして、彼女をフォローした。
「やっぱりきみのマンコ良い匂い!」
精一杯のこのフォローは、果たして彼女に届いたのだろうか……
――――
「いいところだね、東京は」
居候がわざわざ少し離れたところでタクシーから降りたのは、少し夜風に当たりたかったからという理由もあった。たぶん彼は相当酔っているらしい。今も辛そうな顔をしている。
歩きながらそう言い放った俺の言葉は、今日何度目になるだろうか。俺は同じようなことをもう何度も言っているような気がする。
「やろ?」
にっこり笑う居候。
最高の思い出だ。“たぶん”、最高の思い出になるだろう。ただ、いまだ現時点では不完全ではあった。たしかに楽しかった事は楽しかったし、港区女子も鬱陶しくはあったが、それでも思い出として昇華する事は十分できる。
しかし、俺の心には一部深い不安が、まるでレントゲンに映る黒い腫瘍の様に、嫌な影を落としていたのも事実だった。
「……」
やはり、10万円はかなりの損失だ。すごい損失だ。10万円……
俺は頭をすっきりと冷静にして、もう一度深く考えてみた……
「……」
一日で10万円は、やはり信じられないほどの損失だ。一日で、10万円である。給料の大半が、たった一日、いや、たった一晩で吹き飛んだのだ。
しかも俺はいま、酔っ払っている。朝起きたら、俺は一体どうなる事だろうか? 死にたくなるのではないだろうか? いや、それとも逆に、一晩寝たらこの不安な感情も和らいだりはしないだろうか? ……今回のようなケース、これまでの人生で初めての事過ぎて、とんと想像もつかなかった。明日の俺は、いったいどんな顔をしているのだろう?
「いやぁ……てか一軒目のキャバクラですーたに付いた一人目の女の子さ、めっちゃキャラ濃いかったよな」
「……」
「すーた?」
「え⁉ あ、ああ、そうだね……」
どうやら俺は黙り込んでしまっていたようだ。たったいま、東京の面白さにあれほど喜んでいたというのに、いつのまにか俺は死人のようになっていたみたいだ。
「確かにね!自分の手に針を刺しているなんて!おったまげたよ!」
俺はやや強引に、盛大な声を上げて返事をした。おかげで声が少々裏返ってしまった。しかし、あの時の事を思い出すと、今でも笑いが込み上げてくるのは確かだった。
「でもあれって、俺らみたいに笑ってくれる人やったからよかったけど、お客さんによっては怒る人おると思うで……」
言われてみれば、確かに居候の言う通りだとも思う。あの子はいつもあんな事をやっているのだろうか?
「俺はね、正直、あんまり女の子の顔は気に掛けてなかったんだ。でも、今思い出すと、どの子もみんな可愛いね!」
本心だ。しかし、本当の事を言うと、顔なんてどうでも良かった。なによりも彼女たちはみんな、話していて本当に楽しかったのだ。本来、東京の人間と大阪の人間とでは笑いのツボが違うと聞く。だから俺は少し不安だった。話が合わないんじゃないかと不安になっていたのだ。
しかしそのような考えは杞憂だった。彼女たちはみんな、俺の話を楽しそうに聞いてくれた。俺がギャグを言えば、みんな笑ってくれた。まったく、愉快で仕方が無かったのだ。
すると居候は、興奮交じりに今日の出来事を話す俺に、意地悪そうな笑みを浮かべて尋ねかけてきた。
「じゃあさ、さっきの女の子は可愛かった?」
それは困った質問だ。俺は苦笑しながらかぶりを振って見せた。
「お前もあんな奴にお金なんか渡さんで良かったのに……」
居候は呆れたようにため息をつく。
「たしかにね、ありゃあ悪い女だぜ。合流した時、きみが彼女をさんざん罵倒していた理由が分かったよ」
「あいつはマジで最低女やから、あれくらいの対応でちょうどええねん」
今思えば、彼女が罵られた際に見せるあの悲しそうな表情とか、哀れな様子とかは全て演技だったのだろう。俺みたいな童貞はみんなアレに騙されてしまう。情けない。
しかし、だったらなぜお前はわざわざそんな“最低女”を連れてきたのか、とか、お前もお前で俺にだいぶ奢ってもらってるんだぞ、とかそんな疑問が俺の脳裏を密かにかすめていったが、心中に引っ込めておくことにした。
「キャバクラは安かったけど、寿司は高かったね」
「うん。だから俺なんも食わんかってんやん。もともと寿司もアイツが行きたいとかゴネだしたから行くことなってん。お前も断れよ」
それは知らなかった。俺はもともと、ボーっと上の空で人に付いていく癖があるから、彼らの話を何ら聞いていなかったのだ。そもそも誰が寿司を食おうと言い出したのかなんて、俺は全く覚えていなかった。
「寿司で一万3千円は高いね。いつも回転寿司しか食べてないから。回転寿司なら精々が1千円ちょっとだよ。三人で食べても3千円……うひゃあ、一万円も違うのか!」
……と、お金の話を切り出した途端、俺の脳裏に再び、“例の言葉”が蘇った。
――1晩で、10万円
「俺はチューハイ一杯しか頼んでないぞ。お前ら二人で食って1万3千円や。だから……、……すーた?」
ゆうに一か月を過ごせるであろう十万円が、たった一晩で……。この楽しかった思い出は、その代償として10人もの福沢諭吉を一瞬にして抹殺してしまったのだ。体中からスーッと熱が引いていく感じがした。
「すーた、なにボーっとしてん?」
「え⁉ ああ!すまないね!」
また俺は黙り込んでいたらしい。もはや躁うつ病患者みたいだ。
俺は雑念を振り払うように何度か自らの頭を手のひらで打ち付けていた時――
俺達の目の前を、小さな影が横切った。
「あれは!まさか!」
俺は道路の隅の排水溝へと入り込もうしているチョコチョコした影を追いかけた。
「すごいぞ!ネズミだ!ひょっとしてディズニーランドから逃げ出してきたんだろうか⁉ 写真を取ろう!」
排水溝の網フタに引っ掛かり、なかなか中へと潜り込めないネズミを、俺はスマホの動画でとくと撮影してやった。
「すーた。家着いたぞ。置いてくぞ。あと東京にディズニーランドはないからな」
歩いているうちにいつの間にか家にたどり着いていたようだ。愛らしいネズミは、もうすっかり姿を消してしまっていた。まさか夢の国は地下にあるのではないだろうか?
俺達は部屋へたどり着くと、歯を磨き、早々に布団へと潜り込んだ。スマホの時計を見ると、すでに3時を回っていた。
長い長い夜が、ようやく終わろうとしていた。これがあと二日間も続くのかと思うと、俺の心はつい、小躍りしそうになってしまう。
しかし、人生というものは、得てして思い通りにはいかないものだ。いま考えれば、これまでの俺の人生もそうだった。楽しいのは、いつも最初だけ。
しかし、学習能力の無い俺はいつもその事を忘れてしまうらしい。それは今回においてもやはり、例には漏れなかったのだった。
居候とかに奢らんかったらもっと安かったと思います。




