一日目 バスの車内にて
“あいつ”からのメッセージ履歴を改めて見返していた。
バスの車内、さっきまで暗く帳を垂れていた窓の外は、もううっすらと青みがかっていた。
静かなエンジン音と、乗客たちの静かな寝息。
俺は携帯をポケットに仕舞うと、再びタブレット端末をヒザの上に置いた。そしてまた、作業を始める。
「もうそろそろ着きますね」
隣の座席に座る男がおもむろにそう言った。どうやら俺に言ったらしい。
「ん? ああ」
俺は横目でチラリとそいつを見た。かといってその男の顔を認識したわけじゃない。現にどんな顔だったか、目線を端末画面に戻した時にはもうすでに忘れていた。
しかし男は相当なメンタルの持ち主なのか、はたまた鈍いだけのバカなのか、奴は俺の塩対応な生返事にもめげることなく尚もしゃべりかけてきた。
「東京、楽しみですね。とても愉快なところだそうで……あなたもそう思いませんか?」
「全然」
にべも無く返してやった。
「僕、ずっと東京に憧れてたんですよ」
彼は屈託のない笑顔を俺に向けてくる。
馬鹿馬鹿しい、と思った。
「先生はアレですかな? やっぱり、観光とかで東京に?」
「いいや」
俺は作業を続けながら、一言だけそう呟いた。
「じゃあ仕事ですね?」
仕事でもない。
俺はただ黙って首を横に振る。
「じゃあ何しに行くんですか?」
しつこくそう尋ねてくる男に、俺は先ほど見た“あいつ”からのメッセージを思い出す。
「ある男と会うためさ」
言いながら、俺は心の内で、改めて自分自身にこう言い聞かせた。
遊びに来たわけじゃ、ないんだぞ――と。
もう何年も会っていない、古い友人。“あいつ”は東京で住んでいた。そんな彼から来たメッセージ。彼の文章からは逼迫した雰囲気がありありと伝わってきた。
俺は今回、大学時代の旧友を救出する為に、別に行きたくも無い東京へと向かっていたのだった。
「あ、それって……もしかしてさっきのメッセージっすか?」
おもむろにハッと何かに気づいた様子で、男はポンと手を打った。
「きみ、見てたのか?」
奴の非常識な行動に俺は少しばかりイラッとし、つい睨み付けてしまった。そこで俺は初めて彼の顔を目にとめた。歯が一本かけたバカ面の若者だった。
すると俺のその視線にはさすがの彼もバツが悪くなったのだろう、奴はブンブン両手を振りながら言い訳する。
「いや、覗き見するつもりはなかったんですよ!でも相手のID名が『ゴリラ』ってなってたんで、ちょっと目を引いちゃって……」
まあ……いいか。
俺はそう思い、また目線を下に戻した。
許されたと思ったのか、奴はまた懲りずに俺を質問攻めにしてくる。
「それでその人って、どういう関係なんですか? 友達でしょうか?」
俺は大学時代を思い出す。“あいつ”と暮らしたあの日々。人間というものは都合の良い生き物で、たぶん嫌な事も思い出もいっぱいあったのだろうが、そんなことなどは綺麗に忘れて綺麗な思い出だけをさらに美化して残すものだ。
「俺は……『居候』って、呼んでる」
俺の口から出た言葉は、まったくもって質問の答えになってなかった。当然、その若者もなかなか要領を得られない様子だった。
「『居候』……? 『ゴリラ』……じゃなくて?」
「それは広く知られた一般的なあだ名だよ。あいつを見た人間はみな揃ってヤツをそう称する。……確かにアイツは、ゴリラだ」
「ふーん……『居候』さんですか……変わった名前ですね」
俺は大学以降、その友人の事をずっとそう呼んでいる。もっとも、今はもう彼は“居候”では無い。彼が俺の家に居候していたのは過去の話だからだ。だから第三者からしてみれば、少々ややこしく思う呼び方であるとは思う。しかし、あいにく他にちょうど良い呼び方なんてものは持ち合わせていない。だから以後も変わらずこの呼び方で続けさせてもらおうと思う。
もっとも、もうひとつの彼のあだ名である『ゴリラ』という呼び方も出来ないことは無いのだが、もし目の前に本物のゴリラが現れた場合、第三者からしてどっちが彼でどっちがゴリラかが混同することになるかもしれない。その方がもっとややこしい。よって彼を『ゴリラ』と呼ぶのは不適当だ。
いったん――男との会話は終わったような気がした。俺はやれやれと胸を撫で下ろし、“作業”に取りかかろうとした。
「っていうか、よく見たら……先生、漫画家なんですか?」
そう言いながら彼は俺のタブレットの画面を覗き込んできた。
「……」
さすがにもう相手はしていられない。
俺は男の問いかけには何ら反応を示さず、ただ無言で端末の画面に指を走らせていた。
「これ、何のマンガを描いてるんですか?」
……鬱陶しい。俺はあくまで突き放す様に、なるべくぶっきらぼうな口調を選んで嫌々言葉を返してやる。
「別に、漫画家じゃないよ」
「じゃあなんです?」
「これは……俺が書いた小説をもとに、マンガにしてもらってるだけさ」
「へ⁉ じゃあ先生、小説家さんなんですか⁉」
俺は思わず顔を顰めた。俺は大声でそう呼ばれるのが嫌いなのだ。
「『小説家』って言うのはやめてくれ。別に小説で飯を食っているわけではないし、またそう呼べるほど上手くもないんだ」
「いやいや、大したもんですよ。多才でありますな」
男は感心した様に息を漏らす。そこでやっと、会話は途切れた――
「小説書くのって、面白いですか?」
――かと思われたが、またまたこの男はしつこく声を掛けてくる。俺は心底うんざりした。
しかし、『小説を書くのが面白いか?』――彼の問いかけてきたこの質問は、作業にいそしむ俺の手をほんの数秒ピタリと止めた。
俺は一度吐き出そうとした息を呑み込んでから、そして答えた。
「……面白いよ」
俺の口から出てきた声は、自分の声とは思えなかった。まるで別の誰かが、俺の代わりに答えた様に。
俺の声は驚くほどに無機質に感ぜられた。別にこんな男に愛想を振りまく必要などないのだが、それでも俺はついドギマギしてしまう。とっさに、俺は言葉を継ぎ足した。
「どうだね? きみも」
心にも無い言葉過ぎて、つい自分でも苦笑してしまいそうになるほどだった。しかしこの男は相当鈍いのか、卑屈に笑いながら自分の頭をボリボリと掻いた。
「ははっ……僕みたいな無知な男には無理ですよ」
「きみにはまだ早いか。まずは知識を付けるところからだな」
よっぽど頭が悪いのだろう。人間、本を読まなければ、こんな男になってしまう。
「ええ、僕の場合は『無知の知』を知る所からでしょう」
しまいにはこの男、とうとう訳の分からない事まで言い出した。『むちのち』とはなんだ?……鞭の血? この男、まさかSM趣味でもあるのか?
この男を無視しつつ、作業をしていると、ふと彼がまた俺の端末画面を指さして何か言ってきた。
「このマンガって、先生の書いた小説をもとにしてるんですよね? 先生が書いてる小説って……もしかしてホラーものですか?」
この者はやはりバカか。どこをどう見てこれがホラー物に見えるんだ。
「官能小説だよ」
「……」
俺の返答に、彼はなぜか一瞬、黙り込んだ。
瞬間的に身体をフリーズさせた後、男はなにやら口をドモドモさせながら、何とか言葉を紡ぎだしてくる。
「官能……小説って……え? これ、エロいヤツなんですか? たくさんの女の子が……残酷に殺されてるシーンばかりですけど……」
俺はついに作業の手を自ら止め、怪訝な目を彼に投げかける。
そして何という事もなく、言った。
「ああ、エロいヤツだよ? 女の子がいっぱい殺されてるじゃないか。エロいじゃないか」
「……」
彼はもうそれっきり、何も言ってこなくなった。