引っ越し終わりに電話が鳴る
「ただいま。暦さん。」
水無月と呼ばれた女性が笑顔で答える。
「本当に・・・。よく帰ってきてくれました。」
少し涙声になっている暦に対し、水無月は少し慌てた。
「ちょっ・・・暦さん。たかだか一年と少しの間留守にしていただけで大袈裟よ。」
「だって・・・急に、居なくなってしまったんですもの!あんな事があった後でしたから私・・・心配だったんですよ・・・。」
そう言って水無月に近づき、水無月の胸の辺りをぽかぽかと叩いた。
「ごめんなさい。心配をかけたみたいね。」
水無月が暦を慰めるように三角巾の上から頭をぽんぽんと撫でた。それをされて我に返ったのか暦が水無月から離れ、流れていた涙を拭ってまた笑顔に戻った。
「嫌だ・・・。私ったら。ごめんなさい。お荷物は二階ですよね。」
「ええ。お願いします。皆さんも始めてください。」
そう言って、水無月が引っ越し業者を促し引っ越し作業が始まった。二階に上がろうとする水無月に暦が声をかけた。
「事務所。そのままにしてありますよ。はい、これ鍵です。」
「ありがとう、暦さん。」
「今度は、黙っていなくなるのは無しですよ。」
その言葉に応えるかのように、水無月は鍵を受け取ってこう言った。
「大丈夫。今度は私だけじゃないから。」
「水無月さんだけじゃ・・・ない?」
暦の疑問をよそに水無月は腕時計を見た。
「ちゃんと時間は伝えたはず、なんだけど・・・。まぁ、待ってもいられないから先に二階に行っているわ。」
そう言って水無月が二階に上がろうとした時、繁華街の方から一人の女性が走って来た。
水無月はその女性を見つけるなり、またか・・・。みたいな顔をした。水無月の前に到着し、息を落ち着かせながら早口で水無月に説明をした。
「はぁ、はぁ・・・。す、すいません!遅刻しました。えーっと遅刻した理由は、今日が待ちに待った水無月さんとのお仕事って事で何を着ようか迷ってしまい、スーツにしようか私服にしようかってなり、水無月さんに連絡しようと思ったのですが夜も遅かったので今から電話するのもどうかな?って思って、結局私服って事にしたんですけどアイロンかけるの忘れているのに気付いたんです。ほらやっぱり水無月さんの元で働くとなったら、ヨレヨレの服なんか着ちゃいられないと思ってアイロンを探したんですけど見つからなくて、途方に暮れていたら疲れちゃってそのまま寝てしまったんです。で、起きたら朝になっていたので、きゃー!って思って急いで朝シャンして、化粧して、走って来ました。すいません。有給はちゃんと使わせて下さい!」
何とも身勝手というか何というかの理由に暦は圧倒されていたが、水無月は慣れているのか淡々とその女性に言った。
「陽花。社会人になっても全然直ってないみたいね。その遅刻癖。」
「へへへ・・・。すいません。」
「あ、あの?水無月さん。この方は?」
暦が今来た女性の事をまじまじと見つめて疑問を投げかけてきた。
「あぁ。この子は筑紫陽花。今日から私の元で働いてくれる子よ。」
「そうなんですね。筑紫、さんでいいのかしら?大丈夫ですか?顔、真っ青ですよ?」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですけど、すいません・・・お水、いただけますか?」
それを聞いて、暦は店の中に入り水が入ったコップを持ってきた。筑紫はそれを受け取ると喉が相当渇いていたのか、すぐに飲み干してしまった。
「ふぅ。落ち着きました。ありがとうございます。えーっと・・・。」
「春野暦です。ここの店主をしています。水無月さんとは昔からの知り合いで、祖父の代からのこのビルの二階を事務所として貸しているんです。」
「へー。そうなんですね。よろしくお願いします。筑紫陽花です。」
そう言って筑紫は満面の笑みで、コップを暦に返した。筑紫の歳は20代前半くらいであろうか、小柄で可愛らしい顔立ちをしており見た目は幼いように暦は感じていた。大きめのパーカーの所為だろうか、膝の方までパーカーで隠れており見た感じではワンピースみたいになっていた。恐らく、下にはホットパンツとかを履いているのだろう。
「陽花。どう?落ち着いた?」
「えぇ。だいぶ落ち着きました。」
「そう。だったら・・・。」
「だったら?」
「さっさと二階に上がって、引っ越しの手伝いをしなさい!」
水無月は顔色一つ変えずに筑紫を怒り、怒られた筑紫は慌てて二階に上がっていってしまった。
「暦さん。ごめんなさい。なんとも落ち着きが無い子で・・・。」
水無月が申し訳なさそうに暦に声をかける。
「いえいえ、また賑やかになりそうで嬉しいですよ。」
「すいません・・・。」
暦の笑顔の返しに、水無月はただ『ばつが悪そう』にするしか無かった。
二階に上がった水無月はドアの前に佇んだ。ドアの上部には何かが貼られていた跡がついている。その部分を思い詰めた顔で撫で、何かを決意した顔で事務所のドアを開けた。
事務所の中では引っ越し業者が慌ただしく作業をしている。筑紫はリストを見ながら、荷物を置く大まかな場所を指示していた。事務所の奥の方には、一つの大きなデスクがある。水無月が座っていたものだ。デスクの後ろには大きな窓があり、近くには観葉植物もあった。以前に置いていた時よりもかなり大きくなっていたので水無月は恐らく暦が世話してくれていたのだろうと思っていた。デスク周りは既に作業が終わっているらしく、新しい椅子も用意されていた。その椅子に座って水無月は一息つきながら物思いにふけた。
ここから始まり、ここで終わり、そしてまたここから新たに始まる。我ながら数奇な運命とは思うが、新たに決まった”裁判”が自分にとって新しく”立っている場所”とし、挫折させられたかつての信念を取り戻す。そう思って帰ってきた。あの時とは違い今度は私一人じゃない。ちょっと・・・いや、かなり遅刻は多いが頼れる優秀な助手がいる。正直な所、筑紫については大学で出会ってからの付き合いでありまだまだ彼女について知らない事は沢山ある。しかし今知っている限りの事だけでも筑紫は、遅刻は多いが責任感があり、遅刻は多いが記憶力・情報処理能力が抜群で、遅刻は多いが明るいムードメーカーで、水無月の持っていない部分を沢山持っている可愛い大切な友人なのだ。それだから大学院を卒業した時に自分の所で働かないかと筑紫を前々からスカウトしていた。誘いを受けて事務所で働いてくれるようになったのは良いのだが、唯一の誤算は遅刻癖が全く改善されていなかった事であるが・・・まぁ、この世に完璧な人間など居ないし、筑紫もその例に漏れなかったということで自身を納得させていた。
「水無月さん。このデスク、どこに置けば良いですか?」
筑紫が一般的な事務机を指さし、水無月の指示を仰いだ。
「あぁ、それは貴方の机ね。そこよ。」
そう言って、水無月は自分から見て左を指さした。
筑紫はそれに従い、業者に指示する。
筑紫のデスクを置き、引っ越し作業はほとんど終わりになった。跡は、ダンボールに入っている細々とした荷物の整理だけである。
「では、水無月さん。これで作業の方は終了になりますので、我々はこれで。」
「はい、ありがとうございました。これ、ささやかですが。」
そう言って、水無月は袋に入ったペットボトル飲料とお菓子を渡した。
「あぁ。これはどうも。この後もあるので助かります。」
「いえいえ、おかげさまで予定より早く終わりましたのでこちらの方こそ助かりました。」
「では、私達はこれで。何かあったら相談に乗って下さい。」
そう言って、引っ越し業者は帰っていった。
「水無月さん。こっちの方の荷物からどんどん棚に置いていきますね。」
「えぇ。お願いね。」
それを聞いて、筑紫はテキパキと作業を始めた。その途中
「水無月さん。この写真立て、中の写真が裏返しで入ってますが・・・戻しておきますか?」
筑紫が持ってきた写真を見て、水無月の顔つきが変わり珍しく大きな声を出した。
「それはいいの!そのままにしておいて!」
急な大声に筑紫は戸惑う。
「ちょ・・・。どうされました?」
「ご、ごめんなさい。でもこれについてはこのままでいいの。私のデスクの後ろに見えないように置いておいて。」
そう言われた筑紫は、デスクの後ろの本棚の上に、写真立てを写真が見えないように下向きにして置いた。
しばらく二人で作業を行い、一通りは終わった様子である。時間も9時を過ぎていた。
「陽花。今日はもう帰っていいわよ。」
「あ、はい。」
水無月にそう言われ、筑紫は帰り支度を始めた。
「明日からいよいよ営業開始ですね。でもまずはこのチラシを配らないとですね・・・。」
そう言って筑紫が目をやった机の上には、水無月愛弁護士事務所の広告が山積みになっていた。元々、水無月自身はそんなに宣伝しないくても良いと考えていたのだが、チラシの発注を筑紫にお願いしたら何を張り切っているのか、かなりの枚数のチラシが届いてしまった。実際に山積みされたチラシを見て、注文した筑紫本人も「頼みすぎました・・・。」と反省している様子だった。
「そうね・・・。明日の仕事はとりあえずチラシをなんとかしないとね。これじゃあ陽花も仕事にならないでしょ?」
ため息まじりに水無月がそう言った。
「だ、大丈夫ですよ。精一杯頑張りますから。」
「精一杯頑張るのは貴方の良い所だけど、チラシを配るのが私達の仕事の本分では無いのだからほどほどで良いわよ。」
と微笑みながら水無月はそう言った。そんな会話をしている中、電話がかかってきた。
「あっ私、電話とりますね。」
そう言って筑紫は、さっと電話を取った。
「はいもしもし。水無月愛弁護士事務所です。・・・はい。あっ、お世話になっております。はい、水無月さんですね。わかりました。少々お待ちください。」
と、このように応対し保留ボタンを押し水無月のデスクに近づいてきた。
「水無月さん。皐月様からお電話です。」
「ええ。そうみたいね。」
筑紫の報告に水無月は笑みを浮かべて言った。
「ここを開設する日は伝えてあったから。お祝いの言葉でもいただけるのかしらね?」
そう言って、自分のデスクの受話器をとった。
「はい、お待たせしました、水無月です。皐月先生。ご無沙汰しています。連絡が出来ずに申し訳ありませんでした。はい。・・・えっ!?・・・はい。分かりました。では、明日、早速学校でヒアリングをしてきます。この度は紹介していただきありがとうございました。また近いうちにご挨拶を。はい。失礼します。」
電話を置き、一回ため息をついて筑紫に声をかけた。
「陽花。依頼よ。学校裁判の。」
「いきなりですか?まだ、準備もまともに出来ていませんよ。」
水無月の言葉に対して、筑紫は若干嫌そうに答えた。
「まぁそれもそうなんだけど、皐月先生の紹介なら無碍に出来ないわよ。色々今回の事でもお世話になったから。だから、明日早速件の学校に行って生徒と話さないと。それに。」
「それに?」
「学校裁判の依頼があったって事は、困っている人がいるって事でしょ?だったら私達は依頼してくれた人を信じて仕事をしなければならない。そうでしょ?」
「そうですか・・・。・・・いや、そうですね。困っている方がいるって事ですものね。わかりました。精一杯頑張ります。」
水無月の言葉に感銘を受けたようで、筑紫の顔付きが変わった。いよいよ明日。水無月愛弁護士事務所の初仕事が始まるのである。