筋違いの要求
朝、いつもの朝。だけど、大好きな彼氏と人生初めてのキスをした次の日の朝。
香奈の唇にはさすがにあの時の感触は無くなっているが、あの時の事を考えるとまだ心臓が切なく鼓動する。今日、どんな顔して翔に会えばいいのだろうか。夜にチャットはしたが返信がかなり遅いのが気にはなっていた。やっぱり少し気まずかったのかな?そう思いながらも、今日もいつもと同じように接しようと思い、ゆっくりとパジャマを脱ぎ着替え始めた。
おはようが飛び交ういつもの学校の玄関。
香奈は上履きを履き替え、教室に向かう。
「おはよう、香奈。」
「おはよう。」
挨拶を交わし、友達と談笑していると翔が教室に入ってきた。
「あっ、翔。おはよう。」
「おはよう。」
翔は優しい笑顔で挨拶したが、香奈にはその表情はどことなく元気が無さそうにも見えた。
「何か・・・あったの?」
その様子を見た翔に当然の疑問をぶつけた。
「昨日、ちょっとね・・・。でも香奈が気にする事じゃないよ。大丈夫。」
香奈は翔の幼くも何かを憂いている大人びた表情から、これ以上は聞かない方が良いと判断した。多分、言い合いになって喧嘩になるだろうから。
「はい、みんな席につけー。」
そう言いながら、担任の鈴木先生が教室に入ってきた。ガヤガヤしていた教室は一気に静かになり、日直が号令する。
「起立!礼!」『おはようございます。』「着席」
生徒全員が着席をし、先生が朝のホームルームが始まる。朝のホームルームが終わり、鈴木先生が教室を出る時に香奈に声をかけた。
「小鳥遊。今日の放課後、部活あるのか?」
「はい、ですが昨日試合だったので今日はそんなにがっつりはやりませんが・・・。」
「そうか、なら部活前に校長室に来てくれ。」
「わかりました。」
職員室に呼ばれるならまだしも、何故校長室なんだろう?と思いつつも何かあるんだろうと思い香奈は放課後に校長室に行く事になった。
放課後、ホームルームが終わり部活着を持って香奈は校長室に向かった。
「失礼します。」
校長室のドアを開けると中には校長、鈴木先生、そしてバスケ部の顧問と知らない女性が居た。
「来たか小鳥遊、ここに座れ。」
鈴木先生に促されて、香奈は女性と向かい合うソファに座った。
「小鳥遊、こちらの方はPTA会長の天原さんだ。」
「天原・・・?」
「初めまして、小鳥遊さん。翔の母です。」
翔の母。その言葉を聞いて香奈は一瞬はっとしたが、何故ここにいるのか?という疑問が先行していたのでとりあえず黙って会釈をすることにした。
「何の用で来たか、分かっていますよね?」
当然ここに来た理由など分かるわけも無いので、翔の母親の言葉に香奈は静かに首を振った。
「そう・・・。では鈴木先生。説明して下さりますか?」
「小鳥遊・・・。天原さんが、君に退学してもらいたいとおっしゃっていてな・・・。」
自分に対して鈴木先生が何を言ったかはすぐい理解出来なかった。確かに今”退学”って言ったように聞こえたが・・・。
「退・・・学ですか?」
「そう、退学です。」
鈴木先生への問いかけに、翔の母親が入ってきた。
「貴方は学校の風紀を著しく乱し、この学校に相応しくないと私の方で判断しましたので今朝方、校長先生に直談判致しました。そうしたら校長先生は、とりあえず生徒の話を聞こうとおっしゃられましたので、この場を設けていただいたの。」
「ちょ、ちょっと待って下さい!意味が分かりません!私がいつ風紀を乱したんですか!?」
香奈の当然の疑問に、母親も語気を強めて反論する。
「貴方!自分が何をしたのかも分かっていないの!?それでよくこの学校に在籍出来るわね!恥を知りなさい!!」
「でも!説明も無いのに要求だけ突きつけて、大人しく従えなんて理不尽じゃないですか!納得出来ません。」
香奈はソファから立ち上がり、翔の母親の母親を睨み付けた。
「小鳥遊!座りなさい!」
鈴木先生が香奈を宥めつつ、椅子に座るようにと促す。そんな様子を見ながら、翔の母親は言葉を続けた。
「本当に覚えが無いのね。じゃあ教えてあげます。貴方、うちの息子を誘惑しているでしょう?」
「誘惑!?」
ここまでこの話を読んで下さっている皆様には当然分かりきっている話だと思うが、誘惑も何も香奈と翔はちゃんと交際をしている仲である。当然香奈もそう思っている。翔の母親は交際をしている事を誘惑しているとでも言うのだろうか?だとしたら物凄い暴論である。
「私、翔の事は誘惑なんてしていません!だって私達、付き合っていますから!」
その香奈の言葉に母親以外の大人達は凍り付いた。
「き、君。天原君と交際しているのですか?」
今まで黙って話を聞いていた校長が口を開いた。
「はい。」
香奈は校長の疑問に胸を張って答えた。その香奈の様子に翔の母親の顔は険しくなった。
「私は翔と貴方の交際を認めた覚えはありません。貴方の思い込みです。」
「何故、貴方の許可が必要なのか説明してくれますか?」
「翔は私が一生懸命育てた大切な一人息子です。翔も私の想いを汲んでくれて一生懸命勉学に励んでいるとても良い子になってくれています。そして今が大切な時期というのも分かっています。なので翔自身が交際などにうつつをぬかす訳が無いんです。」
翔の母親が淡々と言葉を続ける。
「そんな翔が貴方と付き合っているだなんて、そんなの貴方が告白を強要したか、貴方に何か弱みを握られているか、貴方が体を使って誘惑しているか、どれかしか考えられません。」
全くもって根拠の無い完全なる翔の母親の思い込みである。そんないわれのない言葉にとうとう香奈の堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にして下さい!さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言って!翔は私が告白して、その告白を真剣に聞いてくれて私の告白を受け入れてくれたんです!」
「だから、それが貴方の思い込みだというのよ!翔は色恋沙汰にも女の子にも興味があるはずが無い、そういう風に育てたんですから!私だけの可愛い息子に・・・!」
母親以外にその場に居た人が、母親の異常性に気付いた。この母親にはもう何を言っても聞き入れてはくれないだろう、何故なら彼女の中には”小鳥遊香奈を退学にする”という答え以外無いのだから。暫くの沈黙の後、母親が校長に言った。
「とにかく、これで分かりましたでしょ?小鳥遊さんはうちの息子と”ありもしない”交際をしていると言い、さらに著しく風紀を乱す思想をお持ちです。こんな子がこの学校に居たら、他の生徒さんにまでこの危険思想が蔓延するかも知れません。そうなったら大変です。ですので非常に厳しい事を言っているとは思いますが、小鳥遊さんには退学していただくしかないですね。」
「いかがですか?先生方。」
校長が先生達に問うと、バスケ部の顧問が母親に言った。
「僕には小鳥遊が、天原さんの言う危険思想を持っているとは思えません。むしろ好きな子に告白して、交際をしているわけですよね?それなら何も退学させなくても良いのではないでしょうか?」
「貴方、最近入った先生でしたね。名前は・・・?」
「田中です。」
「では、田中先生。貴方、この学校がこの地区で有数の進学校ということはご存知ですよね?」
母親が田中先生を睨み付けながら言葉を続ける。
「ここから更に上の高校に行くためには、もっと勉強しないといけないんです。それは翔の目標でもあり、私のたっての願いでもあります。部活などというものを担当されている先生にはお分かりにはならないでしょうけど。」
母親のこの一言に田中先生もカチンときたらしく急に大きな声で反論した。
「天原さん!それは言い過ぎでしょう!私は生徒達が楽しく部活をするということ、学校生活を楽しむ事も青春することも、どれもとても生徒達にとって大切な事だと考えています!それを部活などという言い方はいくらなんでも無いでしょう!」
「そうですか?それが貴方のお考えなのですね。よく分かりました。」
母親の目線が校長に向いた。
「校長先生。大変申し訳ありませんが、田中先生もこの学校には相応しくない人物のようです。即刻解雇をしていただきたいと思います。」
「なっ!」
なんとも突拍子もない話である。翔の母親は一体どうしたいのか?どうすればこの場は収まるのか?一連の様子を見ていた香奈はその事ばかり考えていた。
「し、しかし会長。それはいくらなんでも・・・。」
校長が母親を宥めるようにそう言った。
「そうですか、では小鳥遊さんを退学にして下さい。」
これでは話が堂々巡りである。そこで香奈はこの場を収めるため、一か八かの賭けに出ることにした。
「翔のお母さん。貴方のお考えは良く分かりました。」
「そう。やっと分かってくれたのね。」
「はい、とても。ですが一つお願いがあります。」
そう言って香奈は母親を真っ直ぐ見てこう言った。
「私がこの学校を辞めても、翔との交際は続けます。」
「な、何ですって!!!」
母親は香奈の言葉に過剰に反応したせいか、おもむろに椅子から立ち上がった。
「そ、そんな事は認められないわ。」
「何故ですか?貴方の希望は、私の退学ですよね?なら、学校は辞めます。ですが翔とは付き合っていきます。何か、間違った事を言っていますか?」
「く・・・。」
香奈の言葉に反論のしようが無いのか、母親は悔しそうな顔でただ香奈を睨んでいるだけだった。
「もし学校の秩序の維持では無く別の目的があって私を退学にしたかったのであれば、それは問題だと思います。そろそろ部活があるので失礼します。」
「おい、小鳥遊!」
そう言って香奈は、先生達の呼び止めも聞かず校長室を後にした。今の香奈からしてみたら、あの場に100%頼れる大人は存在しない。翔の母親の魂胆は分かっている。翔と付き合っている事が気に入らないのだ。なら、そこを突けば母親は諦めてくれるかも知れない。元々、何の落ち度も無い香奈にとって急に退学させるなど無理難題なのだから。
香奈が校長室から出た後、母親は唇をわなわな震わせて何とも言えない悔しい顔をしていた。
「あ、あの・・・会長?」
校長がこの沈黙をどうにかしないと思ったのか、母親に声をかけた。
「その・・・。確かに生徒の態度は悪いとは思いますが、しかし会長も無茶をおっしゃられては・・・。」
その校長の言葉に反応したのか、母親は校長の顔をキッと睨み付けて言った。
「無茶!?一体、何が無茶と言うのですか?私はただ学校の風紀を乱す生徒をなんとかしなければと思い、PTA代表として学校に申し上げただけです!全く揃いも揃って話にならない人ばかりですね!・・・仕方ありません。これだけは使いたくなかったのですが・・・。」
そう言って母親は自分のバッグから一枚の紙を取り出した。そこの紙にはこう書いてあった。”学校裁判 告訴状”と
「な・・・会長!?」
その場に居た先生達が驚いている事をよそに、母親は淡々と続けてこう言った。
「小鳥遊香奈さんを、不純異性交遊による風紀を乱した罪で告訴します。」
一方その頃。花恋田町に一台の引っ越しトラックがやって来た。
トラックは繁華街から少し離れた場所にあるビルの前に止まった。少し遅れて、赤い国産車がトラックの後ろに止まり、一人の女性が運転席から降りた。その女性の歳は20代後半くらい。綺麗な黒髪のロングヘアーで赤いメガネとスーツがよく似合う綺麗な女性である。ビルの一階にはカフェバーがあり、中から店主の女性が出てきた。店主の女性は歳は30くらいだろうか、くまがプリントされたエプロンを着て三角巾をかぶっている。店主の女性は運転席から降りてきた女性を笑顔で迎えた。
「おかえりなさい。水無月さん。」