二人の”初めて”と”これから”
準備室に入ると、奥の方ですんすんと泣いている声がした。
見てみると香奈が体育座りで一人で泣いていた。
「香奈?」
香奈が翔の呼びかけに反応し、急に立ち上がり翔の抱きついてきた。
「ちょっ・・・!香奈!?うわっ!」
急な抱きつきに香奈を支えきれずにバランスを崩し二人はマットの上に倒れてしまった。
なんとも言えない状態にどうしたらわからずただ固まっている翔に対して香奈は
「翔・・・私、悔しい・・・。一生懸命練習したんだよ!毎日・・・本当に・・・。」
と、大粒の涙を翔の胸にぽつぽつ落としながら言った。その様子を見てもどうしたら分からずに何もしない翔にしびれを切らしたのだろう。
「ねぇ・・・こういう時に頭をなでなでとかして欲しいよ?」
と香奈は少し震えた声で言った。言われるがままに翔は香奈の頭を不器用ながらになるべく優しく撫でた。撫でながら少しは気の利いた事も言えれば良かったのだろうが、香奈から香る制汗スプレーの匂いと凄い甘えてくる彼女の様子で今まで感じたことの無い感情に見舞われていたのでどうして良いか本当に分からなかった。
「か、香奈は頑張ってたよ。」
ようやく出た言葉、いかにもって感じの当たり障りの無い言葉。しかし、今の香奈には十分だったのかも知れない。
「ありがとう・・・。」
と、涙も少し落ち着いた様子で言った。
「でも・・・。少し、翔から元気が欲しいな。」
少し落ち着いたと思ったら、良く分からない事を香奈が言い出した。元気が欲しい?意味が良く分かっていない翔は黙って頷くしか無かった。今、思えばそれがマズかったのかも知れない。
「ありがとう・・・、じゃあ・・・。」
香奈が翔の唇に自分の唇を付けた。急な動きだったので翔は反応する事も避ける事も出来ず、ただ黙って香奈の唇を受け入れる事しか出来なかった。
これがキス・・・。まだほんの数秒しか経っていないが、翔の中ではもう何時間も何日も経過したような長い時間に感じていた。自然と翔の手は香奈を抱きしめており、香奈もそれに応えるように翔を抱きしめた。前に友達が見せてくれた本に書いてあったエロいキスとはだいぶ違うなぁというのが正直な気持ちだったが、それでもこのキスをしている数秒は香奈の事を更に愛おしく思わせるには十分過ぎる程の長い時間に感じていた。
「少し・・・落ち着いた?」
キスが終わり、何故か翔に背を向けている香奈に翔は声をかけた。
何も悪い事はしていないはずなのだが、何故か気まずい感じになっているのをなんとかしたい気持ちがあったからである。
「うん・・・。」
怒っているのだろうか?後ろを向いたまま、低い声で香奈はそう答えた。
「ごめん・・・。急にだったし、その・・・初めて・・・だったからさ。」
恐らく、キスが下手だった事を怒っているのだろうと思い謝罪した。すると香奈は翔の方を振り向き頬を少し膨らませながら言った。
「違う!違うの!私が翔としたかったキスはこんなんじゃ無かったの!もっとこう楽しいデートして、ご飯を一緒に食べて、ムードがあるところでイチャイチャして、一緒に手をつないで帰って、別れ際にチュッってしたかったのに・・・。こんなんじゃなかったのに・・・!」
どうやら香奈は自分が思い描いていたキスのシチュエーションとはかけ離れていたためにご機嫌ナナメになっていたようだ。そんな香奈を見て、翔は思わず笑った。
「あはは!」
「もう!何笑っているのよ!?真剣に考えていたんだからね!」
気がついたらさっきまで体から出そうになるくらいに激しく鼓動していた心臓も笑ったら落ち着いていた。
「あははっ。ごめん。あまりにも怒っているから何かしちゃったかなって思って、心配してたらキスのシチュエーションで怒ってるなんて、あはははは。」
説明しながらも翔は笑いが収まらなかった。香奈はまだふくれっ面だ。
「もう。・・・でも、ありがと翔。」
膨らんでいた頬が縮んでいく途中で香奈がさりげなくお礼を言った。
「気持ち、落ち着いた?」
今度は自然と香奈に言葉をかけられた。恐らくさっきキスをしたことで、翔自身も何かが吹っ切れたのかも知れない。
「うん、もう大丈夫。本当にありがとう。大好き。」
そう言って、香奈の頭が翔の肩に乗った。しばらく二人は寄り添ったまま、少しの時間だが今日の事、これからしたい事、大人になったらしたい事など今と未来の話を語り合った。
夢見心地の帰宅途中である。まだ唇に香奈の感触が残っているように感じている。
シチュエーションなんて考えた事も無かったし、もっと言えば香奈とキス、更に今日キスをするなんて考えてさえもいなかった。そうはいえ、付き合ってからキスするまでの期間が早すぎたとか、自分たちはまだ中学生だからそんなキスなんて・・・。とかそんな余計な事を考えず純粋に大好きな彼女と今日キスをした。その事実だけを受け止める事にしていた。
「ただいま。」
家に帰ると奥のリビングに明かりが付いているので、母親がいると思った。しかし、いつもなら何処にいても「おかえり」の声がするのに、今日は聞こえてこない。
いないのかなぁ?と思いつつ、リビングに入ると母親がいて神妙な面持ちで翔の顔を見た。
「おかえり。遅かったのね?」
翔の顔を見るやいなや、母親がそう声をかけた。
「う、うん。鈴木先生の話、長くてさ。」
「そう・・・。何の話をしたの?」
「え?うん、進路の事でちょっと・・・。」
「どんな話?進路の事ならお母さんにも話しなさい。」
今日の母親はいやにしつこく聞いてくる。ここまで質問攻めに合うとは考えていなかったので、答えを用意していなかったので。そんな翔を見た母親が追い打ちをかけてきた。
「嘘なんでしょう?本当は。」
「えっ?何で・・・?」
急な決めつけと言っても当たってはいるのだが、母親のその言葉に翔は上手く反応が出来なかった。母親は言葉を続ける。
「帰ってから連絡したのよ学校に。それで鈴木先生は本日は用事があったのでバスケの試合の応援にも来ていないって。どういう事なの?」
なんと母親は勝手に学校に連絡をし、翔の言葉の真偽の確認をしていたのだ。
「なんで、学校に連絡なんかしたの?」
「息子が急に先生に呼ばれたと聞いたら親として心配になるし、ご挨拶もしないといけないでしょ?だからしたのよ。」
「でも・・・でも・・・。」
「別に翔の事を疑っていたわけじゃないのよ。で、何処で何をしていたの?」
もう逃げられない。母親から出ている圧力に耐えられそうに無い。そう思った翔から咄嗟に出た言葉が
「ごめんなさい。本当は友達に会ってた。」
である。無意識で出た言葉なので香奈の事を言わなかったのも偶然のものだが、恐らく翔の心の奥にある母親への反抗によるものであろう。
「そう。それは誰?後で、その子の親に電話しないと。」
その母親の言葉の真意は分からなかった。友達と会ったという事実を言ったのにわざわざその友達の親に連絡すると言うのである。
「なんで、そんな事するの?」
「もちろん。その子の親に言わないと”来年受験なのに遅くまで遊ぶなんて非常識だ”って。」
そう淡々と言う母親が何やら狂気じみているように見え、急に怖くなった翔は荷物をリビングに置いて何も言わずお風呂に向かった。母親からは「何処に行くの?」とか先ほどの質問の答えを更に追求される事も無かったが、その時に翔は大きなミスをしてしまっていた。携帯をリビングの机に置いてきてしまったのだ。携帯のは勿論ロックがかかっていて中を見ることは出来ない。しかしチャットが来ると内容の一部も画面に映ってしまう仕様のままにしていたのだ。
「あら?携帯を置いていったのね?」
母親は携帯の中身を見たがっていたが、ロックがかかっていることも知っていたし何よりそれはしてはいけないというモラルもしっかり持っていた。だが母親が携帯を手に取った時に香奈からチャットが入って表示されてしまった。
『翔。今日はありがとう。』
メッセージが続く
『それと突然だったけど、しちゃったね。けど嬉しかったよ。今度デートしようね。』
今のこの状況で最悪のタイミングの一番見られたくない人への一番見られたくない内容だった。母親はその携帯の画面に映し出された内容を見ると、テーブルの上に画面を下にして置き、台所で晩ご飯の用意を始めた。怒りとも悲しみとも取れる笑みを浮かべながら・・・。