1話 幸せのコール
なんら特別のない日、その日も彼は自分の部屋で朝遅くまで寝ていた。
寝ても寝ても、まだ眠いように思えた彼は、意識はあったが寝る行為はまだ止めない、止めないはずだった。しかし、
「ん……」
おのずと意識が覚醒してしまった。
「おかしいな……、今日はもっと寝ようと思ってたんだけどなぁ……」
眼はまだショボショボしていたが、それでも意識は完全に覚醒していた。その事実は特段驚くほどではないが、不思議ではあった。
「とりあえず、顔でも洗うか」
彼は独りでに歩き、独りでぶつぶつ言いながら、自分の部屋から降りて、洗面所に向かう。
顔を洗う。
洗ってタオルを取り出して、顔を拭きながら、思わず鏡を見る。
しばらく唖然とする。そして、やっと息が漏れる。
「俺……何してんだろうな……高校に行かないでニートして……。なんにも解決しないのにな。……ははっ……」
思わず渇いた声で苦笑い。それも、人から苦笑いとも思えないほど不気味な顔をしていた。
ふとあることに気づく。鏡の端が少し汚れている。
「……意外と汚れているんだな」
それとほぼ同時にその汚れを手で少しだけとった。
「……はぁ……こんなことしてもなんの意味にもならないよな……」
自分のことをすべて無意味だと思ってしまう彼は、すべてにおいて袋小路で、袋の中にしか居れない人間…………だった。
――ヤー、ワタシの声……聞こえますか?
「えっ?」
呆然とする。
彼は辺りを見渡すが、そもそも今の時間、家にいるのは彼だけだ。
だから、戸惑いが生じた。しかし招じたことに気がつくことは、今はない。
――聞こえてるようにも思えますが……。再度確認を……ワタシの声、聞こえますか?
どこからか、少女のような、しかし機械の声にも近い声が聞こえている。
それを彼はようやく理解したが、それでもどこからともなく声が聞こえたというのは不気味そのものとしか思えなかった。
――再三の確認……。聞こえてますか?
「……聞こえてるよ」
彼はようやく、その不思議な声に答えた。
――コンタクトの確認を認識。以降、マニュアルによって説明を致します。
「あっ?」
彼は理解が及んでいない。日常ではまったくあり得ないのに、その現象が、今ごくごく普通に行われていた。
どこからともなく機械じみた少女の声が聞こえ、されどどこにもその姿は見当たらない。
そんな、幻想でしか得られない現象を、ニートでしかない彼が味わっていた。否、味わされていた。
――目の前の鏡に触れていただけますか?
彼は数瞬、躊躇った。躊躇ったが、触った。よく分からないことに従うのは怖いしゾッとしないが、このときの彼の頭の中には特段そんな考えは混じらなかった。
――鏡に触れたら、触れた。そうでなければ触れていないと答えてください。
「触れた」
――手を鏡から離さないでください。移動の開始を致します。
「移動? どこに?」
疑問を抱くが、だからと言って何かするわけではない。
別に彼が馬鹿だからではない。非日常があまりにも多過ぎて、脳内の感覚が麻痺して、正常な判断ができていないだけだ。
――移動を開始します。……抵抗は……ナシのほうが楽に移動できます。
「なっ……!?」
彼は手に――否、鏡に凄まじい変化が起きて驚きを露にした。
それは、手が鏡に呑み込まれるという現象が目の前で起こっているということだ。手だけではない。手が呑み込まれたことによって、自然と腕も鏡に呑み込まれている。
彼はそれを拒もうとして腕を鏡から引っ張ろうと、力をそれとは逆方向に発生させるが腕は鏡から引っ張り出せないどころか、
「いだだだだだ!」
痛みが発生する。その痛みは腕が何かにすっぽり嵌まって取れなくなって、それを引き剥がすのと同じような痛みだった。
だから彼は受け入れるしかなかった。鏡に呑み込まれるという、そんなあり得ない事象を受け入れた。