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SEQUEL.ACT.LAST アイリと

 一人で歩く、かつての通学路はとても虚しかった。

 雨水滴る歩道に鳴る足音はたった一つ。アイリという人物以外には誰もいない。隣を歩く者など、もう誰も。

 何故だろう。

 こんなにも一人で歩く帰路は虚しいというのに、彼と歩いていた帰路は楽しかった。

 あんなにも二人で歩く帰路は満ちていたというのに、一人で歩いている帰路は悲しい。

 不思議だった。今までならば、考えられなかった。もうこんな感情など覚えると思っていなかった。幾度となく崩れたボロボロの心では。

 雨で良かった、と本当に思う。例え瞳から流れる雫が在ったとしても、冷たい雨水が誤魔化してくれるのだから。

 けれど、その雨が痛くて、上を向いて歩く事が出来ない。

 傘を差す気にはなれなかった。際限なく自分の身体を冷やすことで、自分への懺悔のつもりなのかも知れない。

 だけどそんなもので、許される筈もなかった。

 傘を差さなければ上を向いて歩く事が出来ない。それはきっと、殻に篭もらなければ生きていけないということと、何か似ているのかも知れない。

 自分は殻を被っていた。自分でしか開けない筈の。けれどそれを、開けた少年は一人いた。

 いた。今はもういない。きっと、世界中の何処にもいない。

 もし、天国という場所があれば、彼は家族と共に過ごしているだろうか。久々に会えた両親に対して、笑顔を浮かべているのだろうか。

 そう思った日もあった。そう思った時には、何度か自分というものを絶ってしまおうかとさえ、頭に過るほど。

 けれどそれは許されないだろう。

 仮にも、自分は彼から別れを告げられた唯一の人間なのだから。彼に別れを告げられず泣いていた少女に、顔向けがそれこそ出来ない。

 頭の天辺てっぺんが冷たかった。雨で濡れていた。冷たかった。寂しかった。だから――誰かに撫でて欲しい。

 だけどそんなことは叶わない。暖かいと感じる手の平を持った少年は、もういない。

 だから孤独な寂しさと悲しみに耐えながら、帰路へ着く。かつて彼が住んでいた場所へと。




 扉を開けた途端、その静寂という空気がアイリの身を引き裂いた。

 あまりにも空虚。あまりにも静寂。あまりにも――自分が場違い。

 思わず、アイリは膝を折ってしまった。濡れた膝に玄関に散らばる砂がつくが、そんなことに気づくはずもない。

 誰も抱きしめてくれないから、その崩れた身体を自分で抱きしめる。けれど何も癒されない。

 なみだしそうだった。けれど、ここで涙を流すことは躊躇われる。

 彼が住んでいた家。彼と住んでいた家。ここで過ごした期間は、どうしようもなく短いものだけど、アイリにとって掛け替えのないモノでない筈がない。

 だから、ここで涙を流すのは躊躇われる。あの幸せだった日々に、悲しみという涙を上書きしたくはない。


「……シャワー、借りるよ」


 濡れた身体を起こし、濡れた足で廊下へと踏み入った。誰に取った許可なのか分からないものを口にしながら。




 顔を俯け、蛇口を捻った。すると直後に、アタタカイ水が頭から身体全体へ行き渡った。

 アタタカイそれは、決して暖かくなどなかった。身体の冷えは失せたけど、心の冷えは依然として残っている。だからきっと、この心を暖められる存在はたった一つしかないだろう。

 開く視界には、金色の長い髪が垂れていた。上から勢いよく流れる液体に、それは濡れている。先から滴る大量の雫は、まるで何かを連想させていた。

 ――口から息が漏れてしまった。

 だけど、それだけで留める。

 身体から力が抜けそうになるけど、堪える。

 顔がくしゃくしゃになりそうにるけど、耐える。

 やがてシャワーのアタタカイ水が顔全体に伝って来た。それと共に、両目を瞑る。

 流れる液体は顔全体から、顎と鼻に集中して垂れていく。何となく、その状態を終えようという気は起きなかった。




 アイリが彼の家にいる理由は自分の痕跡を消すのに他ならない。人の記憶は消せないが、物理的な証拠は消せる。それが一応の、コスモスとしてのケジメだった。

 初め、その任務がアイリに下された時は何故自分が、ということを思った。けれど、それはフィーナなりの計らいだという事に直ぐに気づいた。

 せめて、自分で消させようということなのだろう。他人にアイリと彼の思い出を消させるよりかは自分で消した方が、まだ良いと。

 そう――自分で消さなければならない。この家に持ち込んだ僅かな生活用品を全て洩れなどなく回収して処分する。髪の毛に至るところまで、全て回収し、隠滅する。自分の手で、彼との思い出とも言うべき彼と自らとの生活の足跡を。


「――――っ」


 床が雫で濡れてしまった。それを即座に拭き取り、跡形を無くす。……けれど、意味はなかった。また、同じ場所に、同じ液体が垂れてしまった。それは滲む視界から、垂れていく。睫毛を濡らして、床を濡らして、思い出を濡らしていく――。


「ぅ、あ、ぁあぁあ――――!」


 拳を握り締めて、爪を立てて、床にしがみつく。

 ぽたぽたと、次々に床の染みが増えていく。アイリの慟哭は主のいない部屋に響き渡る。


 ――彼はここにいない彼はここにいない彼はここにいない彼はここにいない。


 そんな思考が意味も無くループする。そんなことを考えていてもどうしようもないというのに。泣き叫んでも何も変わらないというのに。何をしても彼は帰ってなど来ないというのに――。

 その想いを吐き出すように幾千もの涙が零れ出る。床を占める染みはどんどん広がっていき、幸せだった空間は悲しみに侵されていく。

 何度想っても、幾夜想っても、追い掛けられるのは彼の面影だけ。

 所詮は虚像。

 所詮は幻。

 所詮は、想い出。

 どうして自分が一番ではなかったのだろう。どうして彼を止める事が出来なかったのだろう。どうして彼の心は動かなかったのだろう。

 後悔と憂いがぐるぐると心を埋め尽くしていく。それは終わる事のない無限螺旋。

 彼に言葉を掛けられた耳が切ない。

 彼に撫でられた頭が切ない。

 唇に残る温もりが切ない。

 唇を伝う涙が切ない。

 彼に抱きしめられた身体が切ない。

 こんなにも人の温もりに飢えている。こんなにも人に暖められたい。

 彼に自分の想いは伝えた。別に応えてくれとは言わない。けれど、伝え足りない。やっと向き合えたのに、やっと気づいたのに、やっと言えたのに、彼はもういない。

 彼のいない未来は、想像しただけで狂いそう。例え神に祈っても彼が戻ってくることなど決してない。


 だけどもし帰ってきたら――


 そんなもしもを星の数ほど想ってしまう。廻る想像は嬉しくて、楽しくて、結局は想像だから何処までも悲しい。

 こんなにも、自分は弱かった。たった一人の少年に自分の全てが崩れてしまいそうになるほど、弱々しい。

 忘れれば楽なのだろうか。もう幸福に想いを馳せることはしなくていいのか。もう悲しみに身を焦がさなくて済むのか。

 だけど、忘れられる訳がなかった。こんなにも好いている相手を、忘れるなんてことは。

 思うけれど何処かで前を向かなくちゃ。

 踏ん切りをつけなくちゃ。

 この悲しみを乗り越えて前に進まなくちゃと思うけれど。

 だけどそんな気持ちは空回り。踏み出す細い脚は何度も何度も転んでしまう。氷の上を歩く様に、泥沼の上を歩く様に一向に未来まえに進めない。例え足を止めたって、それは止まるだけで過去うしろにだって行くことは許されない。

 こんなにも自分の心を変えた彼はもう何処にもいない。こんなにも自分の心を占めていた彼はもういない。

 幾ら彼の背中を追い掛けても、幾ら彼の背中を抱きしめても、それは風のようにすり抜ける。

 伝う涙がとても冷たい。拭っても拭っても、それは決して涸れる事がない。

 あの時、行かないで行かないでと叫び続ければ良かった。

 こんなにも軋んだ心が痛い。こんなにも悲しみに悲鳴を浴びている。

 一瞬でも絡み合ったと思った心は直ぐに解けてしまった。

 床が涙に濡れていく。視界が涙で埋まっていく。床を爪で掻く。何度も何度も、掴めない幻影を掴むように。


「かなめぇ…………」


 少女の悲痛が、虚しく響いた。

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