SEQUEL.ACT.1 美沙都と冬夜
早速後日談を書いてしまった。なんか御免なさい。
「――――やっぱ出ねえか」
舌を打ちながら、手に持っている携帯を音を鳴らしながら冬夜は畳んだ。
先程まで呼び出しを掛けていた番号の持主は、久遠枢である。
過去にテロリストの襲撃に巻き込まれてしまった不運な少年。その事件により枢は両親を失い、更には妹の結衣までもが昏睡という形で枢の元を離れていった。だから、枢には凄まじい絶望が、彼を襲ったのだと思う。
いつも穏やかな、朗らかな枢が目を見張る程の空虚さに堕ちていた。
あの時の枢は本当に酷かった。担任に無理矢理小学校まで連れてこられても、枢は授業を受けるなんてことはしなかった。それは無論、サボるとではなくただ単に、枢の耳には授業なんていうものが入らなかったということ。
声を掛けても、反応と言える反応は皆無。肩を叩いても、本当に物を映しているのかと不安になる虚ろな瞳を向けるだけ。
人間として必要最低限の事しか行わない。食う、寝る、食べる。それだけを枢は本能的に行っていた、人間と呼べないような人間だった。
だから冬夜は見過ごせなかった。
初めはクラスメイト達皆が枢の事を凄く気にかけていた。元々枢は人望を集める素質がある。だからそれは当然であり、当り前の光景であると言えた。
けれど、その時の枢は人を惹きつけた時の枢ではないのだ。
優しい言葉を掛ける事もない。他人に気に掛ける事もない。むしろ、人の好意に対し逆上して撥ね退ける始末だ。
だがやはり、それも道理なのだ。枢はまだ十歳にも満たないただの子供だ。そんな少年が置かれた状況。気が狂う、なんてものではないだろう。もはや、崩壊してしまう。
だから枢は自分に声を掛ける人間たちに、ある意味では“復讐”のような感情が芽生えてしまったのだろう。
自分を気に掛けてくれる人間は皆家族がいて、輝かしい存在に枢は感じたのだろう。だから、耐えられなかった。
なら尚更、冬夜には枢を放っておくことが出来なかった。
枢という被害者から皆が遠ざかっていく中、枢という存在を皆が空気として扱って行く中、人を縫って冬夜は俯く枢の元へ駆けていく。そして手を引き、殻の中から強引に引き摺り出した。
その行為を、冬夜は間違ったこととは思わない。
それは今の枢を見れば分かる事だし、何より泣かれながら感謝された身だ。迷う、何て感情は毛頭なかった。
「…………はぁ」
“今の”と思ってしまったことに嫌気が刺す。今の枢は、救われた存在ではなかった筈だ。
一度だけ確かに、一週間の間、枢はかつての枢に立ち戻っていたのだから。
学年が変わってから、枢の姿を見た日数はとても短かった。何でか知らないけれど、週に二度くらいしか見なかったように感じる。
――何でか知らないけど。そんな訳はない。
美沙都は枢がアウラへと乗り込む姿を見てしまったのだから。
初めはどういう状況なのか全く理解出来なかった。その時の美沙都は、兎に角腕が痛くて、何も考えられない状況に等しかった。
突然走った痛み、流れる血液、奪われる体温。それは今まで感じた事のない、背筋が凍るような感覚で、何だか“死”というものを連想してしまった。
救急車が来るまでの応急処置の段階で、美沙都の意識は大分しっかりして来たと言える。ショックを受けていたり、貧血を起こして視界が霞んでいる身体でも、思考を行うぐらいには回復していた。
だから記憶し、今でもこう考えてしまうのだ。あの時見た光景を。
何故、枢がアウラへと乗り込むのか。軍に所属しているという事か。でも、それは考えられない。枢はアウラを心の奥の奥の根元から憎んでいる。彼の膝はアウラにより失った、まさに目に見える傷だ。彼はあの脚のお陰で、まともに運動が出来なくなっているのだから。そして時折その膝の痛みに苦しむ。
そんな枢が、軍に入るなど。
でも見てしまった光景は見てしまったものだ。少なからず、枢が何らかの形でアウラに関わっていることは確かで。でも考えても答えは出ない。
しかし、関心が行くことはそれだけではない。その枢の傍らに、アイリも居た事である。
「おい、美沙都」
「……何?」
美沙都は後ろから駆けて来る冬夜へと見向きもせず返事を返す。
「お前、また屋上にいただろ」
「いや、保健室にいた」
「同じ事だ。雨降って来たから移動しただけだろう? お前、単位ヤバいんだろ? だったらちゃんと授業に――」
「――関係ないでしょ!」
そう言って、ブーツを履いて勢いよく美沙都は立ち上がった。その背中は酷く小さくて、悲しいものに冬夜は見えて、何ともいたたまれない気持ちになる。
上履きを下駄箱に叩きこむその粗暴さと同様、美沙都は学校生活が荒くなっていた。
今までは優等生というレッテルが張られるほど、真面目な生活を送っていた。しかし、今では遅刻欠席は当たり前、という生活態度になってしまった。学校に来てはいても、授業を耽る事なんてのもざらだ。
美沙都にとって、学校というものは只の苦痛でしかなくなってしまったのだ。枢がいる、楽しかった学校生活。その楽しい学校生活の中心が空いてしまったのだ。だが、それだけならまだ良い。美沙都は学校へと来ることによって、あの光景を何度も何度も思い出してしまうのだ。そして悶々と思考を巡らせた挙句、ある一つの終着点に落ち着いてしまう。
それはアイリへの嫉妬だった。そんな自分が嫌で、自己嫌悪にすら陥っていく、だから、美沙都は学校なんかには来たくない。
あの光景を見てから、結局枢は学校に顔を出さないどころか、美沙都や冬夜の前ですら現れない始末。
枢は美沙都の見舞いに来なかった。冬夜に伝言を伝えるだけで、直接声を掛けてはくれなかったのだ。それが酷く悲しい。顔を見て、別れを言うことすらしてくれない。
私は枢にとってその程度の存在だったの? ただの幼馴染? 枢にとって私は何だったの?
そんな自問を、脳裏に浮かぶ虚像の枢に幾千も問いかける。けれどその枢は結局答えなど言ってはくれない。だから美沙都は必死に叫ぶ。
――私は枢のことが大好きだ、と。
外は酷い土砂降りだった。校庭は半分以上が水に浸っていてとても部活なんて行える状況ではない。
びたびたと打ち鳴らす雨音が、今の二人には酷くうざったいものだった。
何も言わず、傘を差した二人は歩いて行く。会話はない、話す気分になれないし、何より美沙都と冬夜とでいるとどうしても一人の少年を思い出してしまう。だから美沙都は冬夜のことは意識的に避けていた。
だけど冬夜はその反面、美沙都の事を変わらず気にかけ、変わらず声を掛けて来る。
枢がアウラと関わっているという事実を知らない冬夜にとって、美沙都がここまで荒れているのは、単に枢のことが好きだからなのだろうと受け取っていた。学校側は休学という扱いを取っているという事を聞いて、冬夜はある程度安心してしまっていたのだ。連絡は取れないものの、命に別状はないのだろう、と。
とぼとぼと二人で歩くと、やがて敷地から出る事になる門へと辿り着く。黒い、重たい鉄の門は雨に激しく撃たれていて、表面に王冠のような水の動きを幾つも作っていた。
「――――え」
そこにいる人物に、美沙都の足が止まる。少し遅れて、冬夜も足が止まった。
透明な傘を持ち、砂金のような金髪に僅か水滴を付けた小柄な小さな少女。枢といつも一緒にいた少女。枢と共に、姿を消した少女。
気づけば、美沙都の手からは傘が落とされていた。落下音は、雨音に消されて誰の耳にも入らない。
カーテンのように降り頻る雨の中、美沙都はアイリへと掛けていく。その姿を、アイリは色の灯った瞳で静かに見つめていた。
何となく、アイリはこれから何をされるのであろうか理解していた。けれど、それを受けるつもりで、彼女の目の前に現れた。
びちゃびちゃと雨音に消える足音を立てて、美沙都は雨に濡れていることなど気にせず、アイリの小さな両肩を掴んで、
「枢は!」
美沙都の表情が悲痛に歪む。
「枢は――――何処にいるの?」
雨か、何か良く分からないものが瞳から流れていた。
その瞳を正面から受け止めるアイリは、眉を伏せる。
「ねえ」
とアイリの小さな身体を揺さぶる。がくがくと、アイリの細い首が揺れる。
揺らされているアイリは、下唇を歯で噛み締めている。自分も泣いてしまう――それは耐えなければならないのだから。
「ねえ! 枢は何処にいるの?」
繰り返される言葉。雨と涙に濡れた唇は、尚も美沙都の懇願を紡ぎ続ける。
「枢――、は」
アイリはその先を言ってしまうことが憚られた。目の前の少女に、自分ですら泣いてしまいそうな事実を告げるのはあまりに酷だ。だから、言葉を呑みこんでしまう。
「枢は――何処に。枢を――――返してよ!」
それで、アイリの頭は何かに揺さぶられた。何か、は良く分からない。それでもその言葉はとても自分の胸を打ちつける何かで、胸に浸透していく何かだ。
アイリの手から傘が落ちる。頭から、大粒の雨を幾重も受ける。それはまるでアイリへの罰の様で、ここにいる全員の心の表れのようだった。
冬夜は、拳を握りながら様子を静観している。
「枢は――」
そこで確かに、アイリの小さな声で一つの短い言葉が紡がれた。しかしそれは小さすぎて、雨音にかき消されている。唇の動きを見ていたのは肩に手を当てて俯き両目を強く瞑る美沙都ではなく、遠くから見つめる冬夜だけ。
「枢から――伝言がある」
などという言葉が、アイリの口から漏れていた。当然そんなものはない。だけど気づけば、目の前の少女を見ていたら、そんなことを言っていたのだ。
「伝、言?」
「そう。――――“待っていて欲しい。必ず戻るから”……だって。それを美沙都に、言ってた」
「本当に?」
「…………本当に」
その言葉を聞くと、美沙都は膝から崩れ落ちてしまった。アイリの肩に手を当てながらずるずると。
大好きな人に言われた美沙都は少しだけ、安堵の笑顔を見せている。
けれどそんなのは明らかな嘘だ。気づかないのは美沙都だけで、アイリと――ましてや冬夜でさえその信憑性を疑っている。
その様子を見下ろし、辛辣な表情をアイリは浮かべる。罪の意識が無いわけではない。けれど、目の前の少女に真実を言う事も、無視する事も出来なかったのだ。
だから、嘘を吐いた。アイリの瞳からは、雨と混じった何かが流れている。
冬夜はアイリが何を言っていたのか少しだけ理解をしていた。何となく、そう言った気がするのだ。そして、その後の伝言は嘘なんだとも、理解していた。
けれどその両方を言うことは決してない。ここでその事を口にしてしまえば、嘘によって僅かに救われた美沙都も、涙を堪えて――いや、泪してまで嘘を吐いたアイリの二人を裏切ることになってしまうから。
空から雨が降っている。
空から雨が降っている。
空から、雨が降っていた。
またちょっと語ってみようかな、なんて思います。良かったら、お付き合いください。
今回のお話は美沙都と冬夜のその後のお話です。……っていうかエピローグって後日談じゃないんですね。辞書で引いて吃驚しましたよ。……とまぁそんなことは良いですよね。
美沙都と冬夜という作品中ではえらく空気な幼馴染二人ですが、この二人の役割としてはやはり枢の日常というものを描写したかった、それと枢と日常のパイプラインを表現したかったからです。
平和な日常、楽しい学校生活、戦争と対比するにあたってやはりごく普通の日々の描写というのはやはり必要です。
そして、やっぱり学校生活といえば恋愛です。好きな人に告白したりするでしょう。好きな人と手をつないで帰る事もありましょう。もっと幸せなこともするでしょう。
ですがそれが突然壊される。そして硝煙と血生臭い世界に放り出されるんです。堪りませんよね。一生学校にいさせてくれって感じです。
その辺りを表現することには、やはりこの二人は重要なファクターであったわけです。
べたべたですが、枢のことを想っている幼馴染である美沙都と、それを見守る唯一無二の親友である冬夜。彼らと送っていた日々が突然崩壊し、その上自分のせいで幼馴染に怪我をさせてしまった。もう、想像しただけで僕は嫌です。…………まあそんな話を書いているのは紛れもない僕ですが。
とまあ、その辺りが彼らというものですね。
ちょっと美沙都が今流行りのヤンデレっぽくなってしまいましたが、きっと大好きな人がこんな風にいなくなってしまっては、きっとこうなると思うんです。彼女はごく普通の一人の女の子であって、決して出来た人間なんかじゃない。だから、八つ当たりもするし、逃げたりもします。そういう意味では、多少冬夜の方が大人なのかもしれませんね。
これから枢を失った彼らはどうなるのか、その辺りも書けていけたらなあと思っています。
長々と失礼しました。ではでは。