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ACT.25 アリア・キルスティス<3>

「アイ、リ――?」


 目を覚ました枢の視界に映るのは、拳銃を構えたアイリだった。突然の出来事に枢の思考は止まる。

 何かの冗談か、と一瞬だけ思うもそれは有り得ない。この状況下でアイリがそんなふざけた事をする意味が見当たらない。

 何より、アイリの瞳が――初めて会った時の頃に戻っている。


「……カナメ」


 アイリの小さな唇から、アイリにとって好きな人の名前が零れた。その呟きは虚しく、霧の中に失せていく。

 いつからだろう。二人がすれ違ったのは。

 初めはアイリの心が冷えていて、枢が温めていたはずなのに。停まっていた枢の時間を動かしたのは紛れもなくアイリで、暗い重い闇の部屋から連れ出したのもアイリの筈だ。

 ――アイリの関心はいつの間にか枢へと移っていた。きっかけは恐らくただの監視対象というものに過ぎなかったのだろう。だけどそれが、いつから変わっていたのか。


「アイリ、どういうこと? これは、一体――?」


 枢の双眸は銃の先端へと向けられた。無骨に冷えた黒の光沢を放つそれは、まるで今のアイリの心境を映しているようで。

 ――枢の関心はいつの間にかアイリからは離れていった。初めの頃はあんなにも気にかけていたというのに、何故だろう。それはいつから、擦り変っていたのだろうか。


「カナメが、気を失っている間に――殺そうと思っていた」


 アイリは何故ああも枢を気にかけていたのだろう。決して軽くはない身体を引き摺りベッドに寝かせ、一晩通しの看病を丁寧にし続けた。冷えたアイリにとってそれは奇跡に近い所業だったのだろう。自分でも気づかない内に、アイリは変わっていった。

 人目に隠れて泣いていた少年。

 人目に知られず自分の心を自分ですり減らしていた少年。

 夢で泣いていた少年。

 ぼろぼろの身体を持って優しく強く在り続けた少年。

 膝に痛みを抱えながら歪みを持たなかった少年は、どこまでもきっと優しかった。


「どうして?」


 枢はジルに会ったことで変わってしまった。優先順位が成り変ってしまった。世界を変えることよりも自分の変化を求めるようになってしまった。

 止まった時間を進めるように。

 押し潰していた感情が弾けるように。

 身体を、ココロが変格を齎し、違うものへと進んでしまった。

 繋がれた温かいてのひらの温もりを追いやって。唇に重なった優しい暖かさを忘れて。

 他人よりも、自分へ、アイリよりも仇へと変わってしまった。


「カナメには幸せのままでいて欲しかった」


 何故あの時キスをしてしまったのだろう。他にも方法はあった筈だろう。

 言葉足らずな自分だからと移った行動か。

 そんなんじゃない。ただ惹かれただけだったのだ。目の前の少年に。

 冷えた心には理解出来なかった、人を殺すという苦しみに身を焦がした優しい少年。

 そんな少年の姿を見ていることで、そんな少年の温かさを感じていたことで、アイリの誰にも熔かす事の出来なかった冷たい心は温められたのに。


「あれは、夢だよ……」


 日々に疑問を感じていた枢を変えたのはアイリだ。

 決められた運命の中でただひとついた光。それがアイリだというのに、黒い感情に枢は見失ってしまった。

 唇に感じた柔らかさや、腕に感じた温もりも、今は殆ど思い出せない。

 どうしてだろう。何故だろう。目の前にいる少女はこんなにも自分の為に心を殺して銃なんてものを向けているのに。

 あの頃の少女に戻っていることが酷く悲しいのに――“傍にいる”という言葉がこんなにも出てこない。


「夢でも良い。それで、カナメが現実こんなものを見なくて済むのなら」


 今に震えだしそうだろう。

 今にも指から力が抜けてしまいそうだろう。

 今にも視界は涙で滲んでしまいそうだろう。

 今にも泣き崩れてしまいそうだろう。

 今にも、ココロが折れてしまいそうだろう。

 けれど暖められ、熔かされた心を再び冷やして、好きな人へと銃を向ける。


「こんな現実でも、見据えなくちゃ前に進めない」


 枢は冷えた、向けられた銃口を握りしめた。その冷たさに悲しみを覚える。けれど気持ちが曲がる事は決してない。

 少女の無色な顔に色が灯りそう。今にも毅然とした表情は崩れてしまいそう。涙によって。嗚咽によって。切なさによって。

 その表情を見ても、泣いていると、心で泣いていると分かっているのに復讐という感情が止まらない。ふつふつと、心の奥から湧き出て来る。

 泣きそうな少女の顔を手が届きそうな距離で見つめているというのに、心を曲げる事ができない。

 まるで決められているかのように、抗う事が出来ない。 護ると誓ったのに、身を引き裂いても護ると誓ったのに、黒い感情に逆らえない。


「――――どうしてっ!」


 ついに、色が灯ってしまった。

 少年にとって、少女にとって、きっと誰にとってもそうはなって欲しくはない色に。

 一度崩れた積木は崩れるだけ。音を立てて崩れてしまった。

 またも失う。もう何度失うのか。どうして自分ばかり失うのか。どうして自分が好きになった人間ばかり自分の元を離れてしまうのか。


「どうして枢は…………傍にいてくれないのっ!?」


 悲痛な叫び。これがアイリという本質なのだろう。孤独で、寂しくて、誰かに構って欲しい、そんな年頃の少女。

 だって、彼女はまだ十五歳だ。これが当然なのだ。有り得ない環境と、有り得ない時代と、有り得ない世界が彼女という積木を歪んで組み立ててしまった。

 それを丁寧に積み上げてくれた少年が、また離れてしまう。人の手を失った積木はそれ以上どう建てれば良い? これ以上の高みを、完成をどう目指せば良い?


「私は! 私は! 枢の事が――――好きなのっ!」


 その言葉に、少年の表情が苦悩に歪む。分かっていた。期待もしていた。そうであって欲しいと、自分もそうだからと。

 片思いじゃなく両想い。そんな俗なことを考えていた心は――今何処にいるの?

 たった数日前に抱えていた感情なのに。戦争という地獄の中で、幸せを感じられる――恋という感情だったのに、それは何処へ行ってしまったのだろう。


「好き、なの……」


 アイリの銃を握る指が緩む。僅かに傾くそれは、弱々しい、細い、小さな手に引っかかり落ちることはない。

 彼女の心はぼろぼろだ。積み上げては引き裂かれ、手に入れては失う連鎖。

 まだ年端もいかない子供だ。心に抱える負担など、心に覚える傷など、どれほどのものなのだろう。

 まさに、一生抱えていく傷だ。

 それを癒す存在は確かにいたのに。自分と同じ境遇で、だけど自分とは違う暖かな存在。

 枢には友達がいた。アイリには友達はいなかった。

 だから? 違う。アイリにも友達はいなかったけど、掛け替えのない仲間はいた。

 コスモスの皆だ。誰もがアイリの事を気に掛けていた。皆が話しかけていた。けれどそれは突っぱねたのは誰なのか。

 だから同じだ。私と枢は。相違なんて僅かしかない。

 だけど出会った時の少年少女はあまりにも極端に違っていた。

 それに気付かせたのは誰なのか。そこへと招き寄せたのは誰なのか。

 自分を一人の少女として見て変わらず接してくれていたのは誰なのか。頭を優しく撫でてくれたのは誰なのか。優しい腕で抱きしめてくれたのは誰なのか。

 枢だろう。アイリを孤独の淵からそちら側へ呼んだのは。惹きつけたのは。

 アイリにとって枢は太陽だ。眩い光の存在としても、引き付ける引力の存在としても。

 だけどその太陽は今、くすんでしまっている。

 闇という黒さによって、眩しいばかりの白は汚れてしまっている。

 それが自分では取り除けないという事実とか、無力さとか、胸を締める切なさとか、ぐちゃぐちゃになってアイリの目から大粒の涙が流れる。


「わた、しはっ……わた、しは――」


 掛ける言葉は沢山あるだろうに。伝えたい言葉は山ほどあるだろうに。どうしてこんなにも口が回らない。舌が動かない。言葉が思い浮かばない。


「アイリ……」


 困ったような、悲しいような顔を浮かべて枢は目を逸らす。

 掛ける言葉は沢山ある。ごめん、とか。許して、とか。ありがとう、とか。――好きだよ、とか。

 でもそんな陳腐な言葉は彼女の想いを止めることはきっと出来ない。それに今の枢が口にしたって嘘なのだから。そんな心にもない言葉では意味がないし、目の前の少女に対してあまりに失礼だ。それに、自分自身で自分が許せない。

 だけどやっぱり、人間は言葉で伝えなくちゃ何も始まらない。

 目だけじゃ、手だけじゃ、身体だけじゃ不十分だから、人間には言葉を綴る事が出来る口がついている。

 それを使って、気持ちを伝えるしか出来ないのだから。


「アイリ」


 泣きじゃくる少女を見据えて、決意の眼を枢は向ける。


「僕は、行かなくちゃ。行って、この手で終わらすんだ。僕のやるべきことを、やらなくちゃいけないことを。……僕も、アイリのことは大好きだ」


「だっだら!」


「でも! それじゃダメなんだ。僕の中にはもう復讐しか頭に浮かばない。――はっきり言って、君よりも。アイツの顔を見た瞬間、本当に血が沸騰したのかと思った。

自分でも驚いた、こんなに黒い感情があったって知った時は。

だけど受け入れられたんだ、そんな自分を。だから、目を逸らすなんてことは出来ない。……きっと、このまま帰っても、僕は何も変わらない。僕は何も終わらない。僕は何も、始まらない。――だから僕は、この手でジルを殺す。アイツを止められるのは僕しかいない。アイツを止めなくちゃ、僕が僕を許せない」 まっすぐと、見つめて言う。目をそらさない。それが本心だから。アイリよりも今は復讐だと。そう明確に、言葉にして告げる。

 自分が最低だなんて重々承知だ。こんなに可愛い少女を泣かせているのだから。だから枢はどんな罰でも受ける覚悟だってする。やることをやってからなら、いくらでも受けて構わないと。


「嫌だよ」


「……ごめん」


「嫌だよ」


「……ごめん」


「嫌だ!」


 アイリは勢いよく枢に抱きついた。銃何か放り投げて。かつて共にベッドで過ごした胸に身体を埋める。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ! 枢、枢、枢!」


 涙も、鼻水も、みっともなく好きな人の前だというのに無様に流して。しかもそれを、胸に押し当てて。それも、仕方がない。アイリの頭には最悪の結末しか頭を過ぎらないのだから。『 』という結末。想像するのも、心で思う事も拒絶するような。だから、ぶつけるのだ。言葉でもなく、ただただ感情として。

 枢はそれを穏やかに受け止める。いつかのように、頭を撫でながら。


「嫌だよぉ……」


 もう完全に、ただの子供だった。自分でもそれを理解しているけれど、滝のようにとめどなく流れて来る感情をせき止める事が出来ない。

 だから誰かに受け止めて貰ってる。好きな少年に。


「ごめんよ、アイリ……」


 優しく撫でる。今までは自分の妹と被せて、だったけど、今は違う。

 一人の少女として、優しく受け止める。

 枢も、アイリの事など好きだったのだ。いつからか何て分からないくらいずっと前から。いつの間にか、自然に。そもそも一緒にいるのが当たり前のように感じていた。ならば、それを失う悲しみは尋常ではないのだから。

 小さな体で一身に悲しみを受け止める少女へと気にかけているうちに好きになっていた。

 恋をしていた。それは二人に繋がる確かなことだった。


「枢!」


「は、はい」


 ぐっと、突き上げた真っ赤になっているアイリの顔。それを胸の辺りから超至近距離で見つめ、少し胸が跳ねる。


「――――結婚して!」


「――え?」


「私を養って!」


「え?」


「私は働かないから!」


「お、おう」


「のたれ死んじゃうから!」


「う、うん」


「だから私を養って!」


「お、おう?」


「ね!」


「りょ、了解しました」


 強引につけられた約束。だけどそれも、枢にとって悪くない。むしろ、望むところ。

 だからもう一度笑って、頭に手を乗せて、しっかりという。


「うん、約束だ。僕は必ず帰ってくる。だから――」


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