ACT.22 束の間<2>
知識というものは素晴らしい物だと思う。
自ら学び、知恵を絞り結論に至り、世界の理へ到達しそれを脳に刻み込む。それは自力で辿り着いたという一種の進化と言える。自らの好奇心を満たす思考の作業。ならばこれは、素晴らしいと誰もが迷わず言えるはずだろう。
――だが、ただ識っているのは?
努力もせず、ただ不意に。自分の意思、努力に関係なしにただ濁流のように流れ込み、溜まり込むだけ。それには、決して素晴らしいなどとは言えないだろう。
“創造主”はこの世界を創りたもうた――などと言うが、あれは実は違うのかも知れない。神は生まれた瞬間、即ちこの世界という空間において自我という自己の確立を終えた瞬間から、全てを識っていて、この世界というものを任されているのかも知れない。自分でも理由など分からずに。
……だがそれは、神に限ったことではない。
そう――世界は三秒前に創られた、私達の記憶は三秒前に創られた物でそれより前からずっと生きているように思わされているだけなのだと。
机上の空論。立証できないこの説は、その分類に当てられる。
極々、一部の人間にしか見向きもされない。霊長の大多数の意見に消滅させられる少数意見。
――けれど僕は、そんな感覚を今感じていた。
……ふぅ、と深く息を吐く。精神の昂りもあるのだろうが、今は非常に身体に疲労が困憊していた。
喉は叫び続けでナイフで切られたような痛みは走っている。目から脳に突き抜けるような鈍痛も走っているし。――何より、髄と脳を繋ぐ管が痛い。
「――切断」
それは何度も行ってきた動作。その動作はネフィルと繋がっていた擬似感覚神経を切断すること。
今まで戦闘を行った後も、訓練を終えた後も、数え切れぬほど行っていた動作だ。
視界が薄れ、意識を後ろに持っていかれるような奇妙な浮遊感。ただそれだけの筈なのに。
「――痛っ!」
その感覚は痛みに成り変わっていた。電撃が皮膚を焼いたような、皮膚に刃物を入れられたような、万力が頭に食い込むような、管が千切られるような。
歯を合わせながら息を吸い、止め、痛みに肩を震わせどうにか耐える。あまり声を出したくはなかった。
「マスター……」
あまり抑揚はないのに僕を心配してくれているということがはっきりと分かる、セラフィはそんな奇妙な声を掛けて来る。
そして、その声に痛みが和らいだような気がした。
「あぁ、ありがとう」
ぎこちない笑顔で笑う。
肩は休みなく上下し、額には汗が滲んでいるが、どうにかして笑顔を作る。
僕の気遣いが伝わったのか、セラフィはそれきり何かを言う気配はなくなった。気を遣うのは逆な気がする、と苦笑する。
……もう一度だけ深呼吸する。……よし。
立ち上がりコックピットを開けると、目の前にはプロセルピナが肩膝を地面につけ屈んでいた。そして、その傍らには主を欠いたアウラ、イシュトーヴァ。
その悪魔の姿に気持ちがぶれるが、直ぐに目を離し回避する。
プロセルピナの設置している膝の直ぐ近く、決して白くて良くは見えないが同じ体格の人物が二人見受けられた。片やぐったりとし、抱きしめられている。そして片やその人物を抱きしめ、プロセルピナのように膝で支えていた。
その二人は、どう見てもアイリと――アイリとよく似た人物である。
直ぐ様僕は降りて、二人の元へ駆けた。
「――アイリ。大丈夫なの? その人は」
アイリの名前を呼び、直ぐに口から出た言葉は敵である“ネフィル”に搭乗していたパイロットの身を案じるものであった。
幾ら敵であったとはいえ、あの状況から彼女を一方的に憎むことなどは到底出来ない。それに、彼女の声はとても身近すぎるのだ。
「うん、今は気を失ってるけど、命に別状はないと思う。……けど」
歯切れの悪いアイリの途切れた言葉に、言いたいことは分かった。
要は心までは分からないということだろう。身体のことに関しては心配はないが、あの状況のように脅えきっているかもしれない、と。……もしかすると、それだけではない。
白い霧の中、眠るアイリに瓜二つの彼女はその霧に劣らぬ白く綺麗な肌に幾つもの傷が見えた。それは痣だったり、斬られたような生傷だったり、蚯蚓腫れ(みみずばれ)していたりと。とにかく、この少女の年齢に相応しい状態ではないことを理解した。
「とりあえず、プロセルピナの中で休ませようと思う」
「そうだね。気温の調整も効くし。医療キットもあるだろう? 一応……その、さっきの打撲の箇所も処置をした方が良いと思う」
他にも気になる傷はたくさんあるけど、と続けようとし止めた。
きっとアイリはそんなこと言われなくても分かっている。
きっと、アイリは眠っている少女のことを本当に愛している。根拠はないが、彼女が髪を掻く手つきや、顔を覗く目に愛情が籠っているように感じるからだ。
「うん……そうしてくる」
綺麗な緑色の大きな瞳に涙を溜めているアイリは消え入りそうに細く弱々しく呟くと、そのまま器用に片手で抱き上げ、昇降用ロープに掴まり昇っていった。
そのアイリの目に、少し驚いた。
だって……涙を浮かべていたんだ。彼女は起きている時は感情を閉ざしていて、夢で悲しむ弱い女の子だった筈だ。
けれど、今ははっきりと涙を浮かべていた。それは安堵の涙か、悲しみの涙か僕にはよく分からないけど、とにかくアイリが涙を溜めていた。
……いや、驚く事じゃないんだ。いつからか……彼女は感情を表に出すようになっていた。それを僕が当り前のように受け取り、感じ取っていただけで、今改めて意識しただけなのだ。
そう思うと、また無性にアイリから目が離せなくなる。
ただでさえ、その撫でた様に細い肩に小さい背中で色々な感情を背負っている。何故気になるのか、そんなのは僕には分からないし、分からなくたってどうでも良い。やっぱり、僕にはアイリのことが気になる。……まぁそれは、妹や何かのように感じて、保護者然とした気持ちが湧いているせいだろう。
アイリがプロセルピナを見つめる氷のように悲しい瞳、ベッドで独り両親を呼びながら流した涙。それだけじゃない。まだまだあるが考え出したらきりがない。
……そうだ、きっと全部だったんだ。あの日、山に向かう途中に出会った時から――銃向けられていたけど。
追いかけた背中は小さくて。彼女が馴染んでいた場所はとても場違いで。両親を亡くし悲しみの淵に沈んでいて。そんな、人を殺すには脆すぎるガラスのようにか弱い女の子。
どのくらい経ったろうか。時刻を知る術がないため分からないが、感覚的には三十分以上は過ごしていたかもしれない。
過ごすと言っても、何をするでもなく霧の中見えない空を見上げていただけなのだが。
首が痛くなり、下に目を向ける。そこには濃い青のブーツを履いた僕の大きくも小さくもない脚があった。
「……枢」
その声に首を上げると、霧の中降りて来るアイリがいた。
ネフィルの脚に寄り掛かっていた僕は立ち上がり、地面に足をつけるまでゆっくり待つ。
「どう?」
「うん……今はゆっくり眠ってる。魘されていた訳でもないみたいだから……良かった」
そう言って、漏らしたように僅かに笑う。
それが酷く――僕には儚く見えた。
その顔を見るのは躊躇われ、目を逸らしてしまう。仕方なく、僕はまたネフィルの脚に腰を預ける事にした。アイリもそれに続き、僕の横に小さく座り込んだ。
「――――」
「――――」
お互いに会話なく、そのまま呆――とする。
口を開くのは抵抗があった。何故か……口を開けばこの時間が終わってしまいそうで。
白の世界に閉ざされた僕とアイリだけの小さな世界。そこには戦争なんて存在しないと錯覚するぐらい静かで穏やかな綺麗な世界。とても、幻想的だと思った。
「――――」
「――――」
けれど、やはり訊かない訳にはいかない。
このまま時間が止まって欲しいと願うけれど、それでは前に進めない。
だから、訊かなくちゃ。それは僕にも関係があることなのだから。
「ねえ、あの娘は……誰なの? 凄く、アイリに似ていたけど……双子?」
その前ぶりなど無く問いかけるも、アイリに驚いた感じは見られなかった。きっと、アイリも分かっていたんだろう。
やがてぽつぽつと、答えた。
「……うん。一卵性双生児の。姉さんだよ。……名前はね、“アイラ”っていうの。私ね、本当は名前、“アイラ・イテューナ”じゃないんだ」
「……そうなんだ」
「驚かないね。……当然だよね。私の本当の名前はね、“アリア・キルスティス”」
「何で、お姉さんの名前を?」
アイリは一度俯き、少し躊躇う様に切り出した。
「見つけてくれることを祈って、そう名乗ってた。でも、やっぱり姉さんの名前を呼ばれるのは何か嫌だったから」
「……ああ、それで“アイリ”って」
こくん、と頷くアイリ。
「そっか。……僕は、何て呼んだら良いんだ」
「枢に任せるよ。枢が呼ぶ名前なら、何だって良い」
そう静かに見上げるアイリの表情は今まで見てきたようでいて、初めて感じるような不思議な感覚がした。
幼い顔つきをしているが、誰もが可愛いと息を漏らしたくなるような顔立ち。緑の大きな瞳に長い可憐な睫毛が被っている目と、可愛く小さな鼻の下にあるふっくらした唇が柔らかく曲線を描く。それが何か……とても無防備に安心しきった小動物のように可愛く見え、ついまた顔を逸らしてしまった。
「……アイリで、良いかな。アイリは……アイリだし」
「……うん」
「それで、徐々に馴らしていくよ」
「……うん」
自分でも何だか微妙なことを言っている気がしてならないが、とにかく口を動かしていないとまたさっきの笑顔を想像してしまいそうで。
直ぐ隣にアイリが座っているというのに。
――ふっくらとした唇
それで、何度か唇を重ねた事を思い出してしまう。
不謹慎だと分かっているのに、頭から離れない。
「ねえ、ネフィル。一体どうしちゃったの?」
「え!? あ、ああ……えーと」
余計なことを考えてしまった頭を急速に切り替える。
「……ごめん。僕にも、よく分からないんだ」
僕は、嘘を吐いた。