ACT.19 決着と決別<1>
兄さんの背中をよく覚えている。
幼い頃の私は走る兄さんに何とか必死について行って。
「ほら、早く早く!」
息をあげて、手足を必死に動かして、前を走る兄さんの背中を追い掛けて。
「見てみろ!」
吹き上げる風を一身に受けるように、幼い両腕を広げる。
「うわぁ……」
兄さんの背中には綺麗な花が咲きほこんでいた。渓谷の間に、黄色い花がずらりと。敷き詰めた絨毯のように。その一つ一つが、風にそよぎ、なびき、揺れていた。
まるで天国だった。
「綺麗……」
自然と漏れた一言。
疲れた事など忘れて、目の前の光景に見入っていた。今みたいなお城よりも、こんな天国みたいなお花畑に住みたいと思った。
「だろっ?」
そう言って歯を見せて笑う。鼻を自慢げに鳴らしながら、屈む。
「ほら、こっち向いてみろ!」
両手を後ろに隠しながら兄さんは近づいてくる。
「な、何?」
両手を胸の前で握りながら、おずおずと顔を向ける。
突然、両手をあげた。
「――ッ!?」
思わず体を縮こませてしまう。
頭を触られている感覚。髪の毛を撫でられる感覚。何をしてるんだろう?
「うん! やっぱり似合う!」
そう言って私の頭から手を離す。鏡が無いのが残念だ、と愚痴りながら。
「……?」
ゆっくりと瞼を上げる。
そして右手を頭へと持っていく。
「あっ! 乱暴に触るなよっ!」
「――あ」
一輪の花がかんざしのように私の髪に付けられていた。
「――来たぞ」
背中を見せる、闇に紛れるような薄黒い機体へと呼びかける。
「……よく来てくれた。そしてよく、ここが分かったな」
ゆっくりと、振り向く。
向かい合う二つの機体はまさに合わせ鏡。
「まぁな。ここの景色は、好きだったからな」
広がる風景は剥き出しの茶色の岩肌。何もない、殺風景な渓谷だった。
「私もだ」
白と黒。向かい合う機体は合わせ鏡のよう。
「その口でよく言う……」
エイリアは言いようのない吐き気に見舞われる。
あの綺麗な花畑は何が原因で失われたのか。他ならぬ――
「花はまた、埋めればいいだろう」
――お前だろう!
「ふざけるなッ!」
白のアルスは閃光を放つ。尾を描き、黒のアルスへと飛びついて行く。流星のように、銃弾のように。
白は右手に単分子ブレード。叩き割るように、振りおろす。
「――お前は変わったな。そんな粗暴な言葉使いじゃなかった」
しかし黒は同じ兇悍で兇悍を何事もなかったように受け止める。
火花が散り、ぎりぎりと耳障りな音が残響する。それは二人の何かを暗示しているかの如く、夜空に残響する。
エイリアはその言葉を鼻で笑う。見下すように。何より変わってしまったのはお前だろう、と。
「お陰様でな。反吐が出るような糞野郎を眺めてたらこんなになっちまったんだよ」
「そうか」
興味がないようにあっさりと会話を断ち切る。その何でもないことが、無性に苛立たせる。
鍔迫り合い。
白のアルスは自らの重みを押し付け、黒のアルスはそれを支える。両機とも硬直し、動かなかない。金属が削れ合う悲鳴のような音だけが全ての音だった。
しかしそれも、ジャスバーの溜息で破られる。
「――穏やかでないな。私は話をしに来たというのに」
「ならその話を早く言え! 俺はお前を見ていて冷静で入れるほど温厚じゃない!」
「酷い言い草だな――」
ジャスバーは鼻を鳴らす。そしてゆっくりと口を開き、感情を込め――
――私を殺したくせに
呟く言葉が、エイリアの頭に深く木霊する。
「――煩いッ! ――煩いッ! 話とは何だ! 要件は何だ!」
心臓が破裂しそうだ。息も苦しい。酸素が足りない。
憎い。ただ憎い。殺す殺す、殺す。エイリアの脳を占める感情はただそれのみ。思考を持たない、野蛮な獣へと化していく。
「その前に……少し離れてもらおうか」
刃を回され、白の単分子ブレードが受け流される。刃は黒のアルスの横に流れ、白のアルスを支える力は無くなり、重心が前に偏り過ぎてしまう。
踵が宙に浮くと同時に、コア部を蹴飛ばされる。
予期せぬ衝撃にエイリアは呻き、白のアルスはあっけなく中空に放り出されてしまう。
「くっ――」
頭部が軌道を描き、地面へと傾いていく。
足の裏を上に突き上げ、ブースターを吹かし、強引に軌道を修正する。後ろへ飛ぶのはどうしようもないが、体勢は整えた。
そのまま着地し、踵は岩を削った。
「――私と共に来い、エイリア」
カルトヴェニア・アルスは、アルメニア・アルスへ手を差し伸べていた。ブレードを持たない、無防備な左手で。
――来いよ、エイリア! 良い景色見せてやる!
「いつもそうだな――」
昔と同じ。
こっちだ! エイリア!
「兄さんはいつも私に手を差し伸べる――」
自然と、嗚咽混じりの声になっていた――
「――兄さん! もういいよぉ!」
後ろから兄を抱きしめ、背中に泣きすがった。
ぐっ、と右の拳を押さえ、兄は口を開く。
「でも、こいつらお前の悪口を――」
「もう許したから! これ以上は可哀そうだよぉ!」
兄の左手に首を掴まれた少年の顔は酷いものだった。
瞼は腫れ、口は切り、歯は折れている。他の数人も同じような顔をしながら、少し前に逃げて行った。
「分かったよ……」
口を尖らせながら、拳を下ろす。最後に少年に睨みつける。
もうするな! と耳元で叫ぶと、壊れた人形のようにこくこくと首を動かす。それを確認すると兄は少年の首から手を離す。
少年は鎖の外された動物のようにあっという間に逃げて行った。
「あ〜……」
兄はバツの悪そうな顔をしながら頭をかく。
目の前では、助けに来た筈の妹が、しゃがみ込んで声をあげて泣いているのだ。手で瞼の上を何度も擦り、鼻水を垂らして。
妹に泣かれるのは、自分が馬鹿にされることよりも、家のことを馬鹿にされることよりも、兄の中で、一番嫌なことだった。
大切な家族だ。兄にとっては正直、母や父よりも、目の前のか弱い妹が大切だった。
「ごめん、そんなに泣かないで。怖い思いして悪かった」
兄は妹に優しく話し掛ける。妹は頭に感じる温もりに、こわいことやかなしいことが和らいでいく。
「うん……」
嗚咽混じりの、少しがらがらになってしまった声で、小さく返事をする。
「ほら、帰ろう」
兄は太陽を背に、左手を差し伸べる。
妹はその手を、赤くなった瞳で見ながら、右手を――
――握りしめ、ブレードを固く握る。
「――ぁあああぁああァああァアァ!」
割れるような叫び。それは獣のような雄叫びだった。
白のアルスは再び閃光する。足下の岩は剥がされ、後へ吹き飛んでいく。
ブレードを腰に構え、突進する。目掛けるのはコア。
ジャスバー自身へ――!
ジャスバーは唸った。目の前の猛獣に僅か尻込む。
黒のアルスは谷へと左の谷の壁へとアンカーを射出する。刹那にアンカーは岩へと到達し、抵抗がないかのように突き刺さる。と同時に、巻き戻す。
その場から黒のアルスは瞬間移動し、壁へ足を付け、まるでそこに立っているように振る舞う。
「――殺す!」
白のアルスは腰からライフルを取り出す。銃口は同時に、黒のアルスへと向けられる。
それはウルカヌスと同じ、重工ライフル。威力は十分。脆いアウラなら、一撃で貫けるだろう。破壊は出来なくとも、中のパイロットは衝撃で失神する可能性が高い。
エイリアの目に、照準が映る。壁に立つ黒い機体へと囲みが一瞬で合わさる。
緑から赤へ。囲みから十字へ。
――照準完了。
しかしエイリアは直ぐにトリガーを引かなかった。引けなかった。引けば一秒の数百分の一の速度で到達するというのに。
額から、頬から、手のひらから汗をかく。瞳は絞れない。喉は渇き、奥が開く。呼吸は荒く、肩で息をする。手が震える、腕が震える、体が震える。心が、揺れる。
これはエイリアの触ってはいけない禁忌。心的外傷。
「――どうした、撃たないのか?」
黒のアルスはただ立つだけ。何もしない。銃口を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
エイリアが見てるものはもはや照準ではなかった。
――映るのは過去。
痛み苦しみ、のたうちまわる兄の姿。肩から溢れる血。瞳から零れる涙。掠れた呼吸。呻く喉。歯を食いしばり、こちらを見つめる、黒い瞳。恐怖や懇願や恨みが籠る負の黒。
ジャスバーは口を開く。
――それでまた、私を殺すのではないのか
「――は、ぁ」
エイリアの喉から、音が漏れた。それは嗚咽とも、呼吸とも取れるただ漏れた声。声帯が意図せず震えた、ただの音。
「なぁ――エイリア。お前は優しい。そんなことが出来る筈がないんだ」
兄は優しく語りかける。諭すように、慰めるように。
黒のアルスが光を放つ。今度はアルスが、流星のように飛ぶ。白のアルスを飛び越え、中空で一瞬静止し、動かぬ白の鉄人の背後を取る。
ブレードを持ったまま、刃を下ろし鉄の巨人は、腕を上げたまま動かない鉄の巨人を抱きしめた。
それはとても奇妙な光景。
恐怖を和らげる為。癒す為。それらがまるで生身の体であるかのように。それで温もりが通じ合うかのように。
「――エイリア、私と共に来い」
「い、嫌だ――」
震えた声がジャスバーの耳に伝わる。エイリアの心は現代にはなかった。過去と、兄を殺した日に戻っている。
ジャスバーはもう一度囁いた。あの頃のように。兄は妹に。
「――俺と一緒に来い」
「あ、あぁ――――」
エイリアは首を振る。頭を両手で抱えている。トリガーはもはや握っていない。
「俺は許す。お前がしたことならどんなことでも」
「ゆる、す――?」
子供のように聞き返す。
「そうだ」
「――兄さんは、許してくれるの?」
「そうだ」
声色には、確かに優しさが籠っていた。内包されるは異性愛にも似通った、家族愛。その心が、エイリアに響く。
エイリアはまるで、自分が迷える子羊にでもなった気分になる。抱えていた心の闇を、許してもらえた。十年近くも抱えていた。大きなしこり。それを取り除いてもらえた。心が軽くなった。
エイリアは口を開く。息を吸い込んだ。ジャスバーにも、その音が伝わる。
か弱い妹は、またいつものように私について来てくれると、思った。またエイリアと過ごせると。
こんな世の中で、こんな状況だけど、また一緒に。
しかし、
「ダメだ――」
「……エイリア?」
漏れた一言は否定の声。
――確かに、兄に銃を向け、撃った。
心臓を貫くつもりで撃ったけど、外れて肩に。
血を流して苦しむ兄に泣きそうになった。後悔の念が押し寄せる。謝罪しなければと心が揺らぐ。
しかし何を意味するのか、肩を抜けた弾丸は奥にある蝋燭の台を撃ち壊した。倒れ、床に、兄の顔に火が移る。
そこで意識を取り戻す。髪は燃え、皮膚は焚かれている。その兄を急速に冷え切っていく意識のまま見つめる。
生かしてはならない。生かしておいてはならない。目の前にいるのは悪魔。そう、悪魔だ、きっと、悪魔だ。そうに違いない。
自分に暗示にも似た呼びかけをする。
私の手は、静かに動いた。兄に向ってゆっくりと。
苦しみ顔を掻き毟る兄の手を掴み、窓へと引っ張る。片手で窓を開け、下を見ると大きな川が流れている。流れは早く、あらゆるものは容易く流れていくだろう。
――例えば、人間とか。
襟を掴み、尻を持ち、壁に擦りつけるように持ち上げる。耳元では熱い熱いと泣き叫ぶ。しかしそれも気にならなかった。酷く冷えていた。
窓の淵へ頭を乗せ、肩を押し込み、尻に両手を添え、持ち上げる。
「大丈夫ですか! ご無事で――え?」
足を持ち、足の裏を持ち、腕を限界まで、上げた。
支えていた筈の重みは綺麗になくなっていく。兄は何が起きたかもわからぬまま、窓の外に放られ、成すがままに落ちていく。
「お嬢様――何、を?」
その声に肩を上がらせながら振り向く。そこには若いメイドが立っていた。消火器を片手に持っている。
「わた、し――」
燃えている床を見る。
その傍に落ちている銃を見る。
窓を見る。
自分の手を見る。
「わたし、わたし――」
――覚悟を決めろ。
「――ダメだ。私には銃器は使えないな」
左手から、白のアルスはライフルを手放した。岩の表面を削り、低い音を響かせてライフルは地面に横たえる。
即座に逆手で左手は二本目のブレードの柄を握る。鞘から抜き、そのまま――
――肝を据えろ。
ジャスバーは気づき、喉を鳴らした。口を歪め、瞼を強く開く。
トリガーを握る指に、力が加わる。
「エイリアッ!」
「ジャスバー!」
咆哮は共鳴する。
――現実から逃げるな。
白のアルスの左腕とコアの僅かな脇の間をブレードは突き抜けていく。
黒のアルスは右のブレードをアルメニア・アルスの首元に立て、背中を渾身の威力で蹴る。
振り上げられた刃の剣先はコアを掠り、頭部を貫いた。
固定された刃は押し出された首を、掻き斬った。
「クッ――」
「――チ」
エイリアは呻き、ジャスバーは舌を打つ。
――業を負え。
二人が見ていた景色がブツリ、と違うものへと切り替わる。現実へと。コクピットへと、視界が戻る。
――己を信じろ。
同時に、モニターには岩の風景が映し出される。それは二人が先まで見ていたものより荒い。
――正義を貫け。
貫かれた頭部は二つに割れ地面に落ち、掻き斬られた頭部は垂直に地面へと吸い込まれていく。
黒のアルスは背後の地面へアンカーを突き刺す。
白のアルスは倒れる自機に構わず、前方の地面へアンカーを突き刺す。
両機は同時に巻き取り、吸い寄せられる。着弾点を中心に、脚部のローラーを滑らせ、円を描くような軌道を描く。
――悪を許すな。
首無しの両機の距離は取り、整然と立ち合う。戦場の間の、一時の、清閑とした空気。
その様はまるで合わせ鏡のよう。
「エイリア……」
「傭兵部隊――」
脈絡無く、エイリアは声を出す。
「傭兵部隊コスモス所属――」
それは独白。自らのケジメ。
「IM搭乗、三番――」
罪を受け、罪を背負い、
「イリウム・クリスタル――」
過去と決別し、
「シュペルビア、“ウサベル”――」
自ら決めた正義を選び、
「お前は異分子だ。――掃討する」
イリウムは、自分が信じた道を歩み続ける――!