ACT.18 感情<3>
「フィーナ、何だって?」
前を見ながら枢はアイリに訊いた。けれど無論、意識は操縦に集中したままだ。
「ん、今から戻ってこいだって」
「まぁ……今既に戻ってるわけだけど……」
「一時間以内に」
「はぁ!?」
その無理な要求に驚嘆する。大体、今いる場所とユスティティアの場所では経度で百度近く離れている筈だ。一時間以内など、かつてマッハを超えた航空機のコンコルドでも不可能だろう。
「うん、だからまた前みたいにミサイルでネフィルとプロセルピナを送るからそれに乗り換えろだって」
「前みたいにミサイル……あぁ、あの学校の奴か」
校庭に馬鹿デカいミサイルを突き刺したあれか。そう言えば、あれはどうなったんだろう。あんなに派手にやって、事後処理とかどうしたんだろう。何とかしたのか……何とかしたんだろうな。何となく枢は嘆息する。
その数瞬後、枢は顔をまた赤くした。今度は耳までだった。学校での事として、アイリとのキスを思い出してしまった。真意はよく分からないけど、とにかくあれが枢にとっての“初”だった。
しかしそれを考えているのも束の間。直ぐに美沙都の事を想う。美沙都には、本当に一度謝らなくてはいけない。
「――カナメ?」
「あ、ゴメン。それで?」
「いや、これから直ぐに作戦があるからそれに私たちも参加しろって。情勢がまた変ったみたい」
―納得がいった。ただ帰艦するだけなのにあのミサイルのシステムを使う必要は無い筈と思っていたけど、そういうことか。それにしても、急だ。休む暇もない。
――それでも構わない、と僕は思ってしまった。
“なぁ――優紀、見てごらん”
今でも、夢に見ていた。もう、二十年近くも前のことなのに。
“なぁに? お父さん”
期待に胸を膨らませ、父の元へと駆け寄る。止めろ。夢だと分かっていてもそう叫ばずにはいられなかった。
“ひっ!?”“どうだ? すごいだろ? これぜぇんぶ、父さん一人でやったんだぞ?”
見せられたものは刳り抜かれた眼球。それがガラスケースの中に整然と浮かべられていた。ホルマリンか何かの液体に浸されているようで、少し緑色をしている。暗い部屋の中、父の目玉と、それらの目玉が爛々と奇妙な光を放っていた。全部が、私を見ているような錯覚を覚える。
“何、これ……”“何って、見て分からないからなぁ? お目目、だよ?”
瞬間、胃液が逆流する。気持ち悪い。ガラス内に浮く、血走った目玉も、そこから延びるコードのような管も、脇に転がる頭蓋も、辺りを浸している血も。そして何より、目の前にいる人間が。
“凄いだろぉ? 綺麗だろぅ? まるで宝石みたいだ……そう思わないか? 優紀?”
びちゃびちゃと、口から苦いモノを吐き出す。胃が空になって干乾びるかのような勢いだった。
“大丈夫か? 優紀? 風邪か?”“来るな!”
化け物が近づく。それを思うと更に嘔吐感が益す。もう既に、目の前のモノは敬愛していた父ではなかった。化け物で、ただ気持ち悪く、ただ薄気味悪い、ただの変質者だった。
――当時は特に意識しなかったが、父は私を一人で育てていくのにかなり苦労していたようだった。母は私を生んで直ぐに他界した。まだ幼かった私はろくに家事も出来ず、父を支える事が出来なかった。
父は宝石商を営んでいた。そう言えば格好は良い物の、その実は接待に追われる日々だったようだ。日々宝石を見、ストレスを溜め、人と会い、人の目を見る毎日。いつからか、変わってしまったらしい。
当時、世間を騒がしていた連続無差別殺人事件の犯人が自分の父だと知った時は、悲しみや憂いや不快感より先に喪失感が強かった。彼の“コレクション”を見せられた時の嫌悪感が強すぎたのかもしれない。
「――御免なさい、もう一仕事頼めるかしら」
優紀はミネルアの脚部にいる整備員に声を掛けた。振り返った整備員は服や腕、顔でさえも煤の様な物で黒く汚れている。さらに目の下のクマから、ここ数日はほとんど寝ていないということが目に見えて分かった。しかし、それでも優紀は要求する。
「――前の、プロセルピナのマシンガンあるわよね? あれをミネルアに装備してくれないかしら?」
疲れを見せていた整備員の表情が、驚きによって冴えていく。
「無茶ですよ! あれはあの機体の腕部だから耐えられるんです!」
プロセルピナとミネルアの腕部の性能差は歴然としていた。無論、ミネルアが劣悪な訳でなく、方向性が違うだけ。しかし見た目でも、ミネルアとプロセルピナの腕部は二倍近くの周の長さに差があった。
「貴女の機体であの銃を使ったら反動が――」
「分かってるわ。そこは腕でカバーするから」
「しかし――!」
「お願い。火力を上げる必要があるの」
真っ直ぐに、優紀は綺麗な瞳を向けた。背けず、真っ直ぐに。その深い瞳には、覚悟と信念が宿っていた。思わず、その迫力に押され目を背けてしまう。
「分かりました。――無茶は、しないでくださいよ」
帽子を深く被り、顔を隠しながら愚痴るように零す。
「……ありがと」
背中を向ける整備員に優紀は微笑んだ。しかしその笑みも直ぐに崩れる。
拳を握り、歯を噛み、眉間に皺を寄せ、床を見つめる。
あの怪鳥のパイロットは、許すわけにはいかなかった。アイツは楽しんでいる。人殺しに、悦んでいるのだ。それは到底、優紀に見逃せるものではなった。そういう輩は吐き気がするほど不快で、磨り潰したいほどに憎いからだ。
「父と同じ過ちは絶対にさせない――」
――模擬戦も二時間が経ち、残りが敵味方、二機同士になった。
「弾が――無い」
ティアラはモニターの端に表示されている数字を見て愕然とする。とにかく相手を破壊することに夢中で気づかなかった。何という失態。こんなのは訓練学校で習う初歩中の初歩だと言うのに。
――ふと思った。私がキョウヤを好きになったのはいつからだろう、なんて。
私の後ろにもう一機のアウラ――カエルがついてきている。恐らく、今までの私の戦い方から見て、後ろから援護した方が良いと判断したのだろう。私もその立場なら、多分そうする。
――軍という職場に居ると、むさ苦しいオヤジが多いという印象が強いだろうが、実際は違う。まず何より、年老いた輩は前線から外される。死ぬ確率が高い兵士を戦場に置くような酔狂な真似はしない。もちろん、熊みたいに馬鹿でかい奴も居るんだけど。
私の戦法は近距離での銃撃戦だ。
訓練学校の時の教官にも溜め息を吐かれたが、私はこの奇妙なスタイルに落ち着いていた。敵が遠距離でライフルを乱射している間に、弾を回避しつつ接近し、銃口を突きつけて乱射する。特に訓練学校時代や、特に今回の新人同士の対抗模擬戦では、ただ相手は自動で乱射してくるだけなので見切りやすかった、マシンガンも使用されていないし。ライフルなら、一定のブローバック時間を掴むだけで良いのだから。
……別に射撃が苦手な訳ではない。訓練校での成績なら常に上位だ。
――けれど、私達のようなアウラを扱う兵士にそういう“屈強”な兵士は少ない。理由は単純に、必要無いからだ。極論、頭と腕ぐらいしか、私達には必要ないのだから。だから当然、私が目にするような男性は二十代前半が多い。無論、身体も引き締まっている。自分で言うのも何だけど、アウラ部隊に配属されるということは頭も良い。
だから他の人の目にはさぞかし積極的な奴だと思っただろう。下手をすると戦闘狂に見られすらしたかも知れない。だけど、そんなことは気にしてなんかいられなかった。戦場では常に全力で有らなければならない。教官から耳にタコが出来るくらい言われ続けた。気を抜いた瞬間にズドン、何てことはよくあることだ。
――そんな、頼れる男性が沢山居る中、どうしてキョウヤを好きになったのか。揺れる椅子もあまり気にせず、ティアラはそんなことを考えていた。
「四番の方、聞こえますか?」
個人回線を開く。届くのは後ろにいるカエルのパイロットへ。
前方からは残りの敵機が近づいてくる。レーダーでは、熱源が二つ重なっていた。やはり数が少なくなってきたので、私たちのように固まって行動することにしたのだろう。
『あぁ、聞こえる』
酷くぶっきらぼうで、愛想なんかほとんどない声。だけど私は気にせずまた話し掛ける。
――いつから話してたんだろう――そう疑問に思うほど、二人は自然に歩み寄っていた。だけどやはり、きっかけはある。
「私はもう、残弾がありません」
残弾がない。これはもう致命的だ。この時点で死亡は確定したも同然。しかし逃走などしてはいけない。少しでも勝利の確立を上げるための行動を起こさなくては。尻込みなどしてはいけない。
ナイフがあるが、今のこの状況では無理だろう。私には投擲をするような技術はない。加えて搭乗機は劣等なカエル。瞬間移動を可能にするブースターも無ければ、通常のブースターすらない。
ならば正攻法。しかしそれは、乱戦、或いは一対一で無ければ成功する確率は極めて低い。特に今は敵陣と味方の陣がはっきりと区別できる。奇襲は難しい。敵機の姿が見えた瞬間に、銃を乱射されて終わりだろう。
「私が囮になります。貴方はそこのビルの陰に隠れて、狙い撃ちして下さい。私が二機の注意を引きつけます」
私が敵の元へ駆けて行けば、少なからず一機は私へ完全に注意が向くはず。もし向かないのなら、ナイフで突き刺すだけだ。あり得ないが。
四番の人にもう一つの注意が向いていない敵を先に排除してもらう。そのあとに、私に銃を乱射している敵機を排除すればそれで勝利だ。
「では、お願いします」
『なっ! 勝手に決め――』
相手の反論する声が聞こえたが、それしか手はないと私は思った。だから私はそれを実行した。
――結果は、敗北だった。
「どうして、私の言う通りにしなかったんですか!?」
「うるせぇ!」
人の目などお構いなしに怒鳴り散らす。上官などそっちのけ。今思えば、それがまずかった。
「私はどうせ弾も無かった! 役に立たないなら切り捨てていけば良い!」
「だから囮にした方が良かったってのかよ!」
「そうです!」
二人の口論は訓練室だけでなく、隣棟にまで聞こえるほどやかましかったという。
歯をむき出しにし、訓練の時よりも更に喉を張り上げ、怒鳴り散らす。
「そちらの方が生存率が高いに決まってます! 貴方は何も学ばなかったのですか!? 戦場で役に立たないものは切り捨てるべきだ! だから私なんかは見捨てて――」
本心からだった。当たり前だ。合理的な方が決まってる。敵の狙撃兵に狙われて、生殺しにされて、味方が危険な目に遭うなどご免だ。
「見捨てる――!? ふざっけんな!」
だけど彼の口から出た言葉は到底私には理解しえない言葉だった。
――パンッ!
その音は私の頬から出たものだった。彼の大きな手の平で私は叩かれたのだということを理解するのに、私は数瞬掛かった。
直後、彼は上官に後ろか羽織い締めにされたのを覚えている。その時何を考えていたのかは、よく覚えていない。
彼は叫んだ。
「見殺しに何て、出来るかよ――ッ!!」
それはおよそ、軍人にあるまじき言葉。
「な――」
今までで一番大きい怒声だった。私は思わず、その声に押し黙ってしまった。
――その週と次の週の寮内のトイレ掃除。それが私たちに与えられた罰だった。
その後しばらくの間、何でコイツが適性試験を通過したのかという神秘を相手に、私は頭を捻っていた。。
――ティアラの口から、笑いが零れた。
「ん? どうした?」
隣のキョウヤが気にかけてくれる。あの言葉をいった口はあの日から変わっていない。私に手をあげた、あの感情的だけど、とても優しい大きな手の平は変わっていない。
「んーん、何でもない」
そう言いながらも、笑いが止まらなかった。くすくすと、笑い続ける。
「んだよ、さっきは泣きそうだった癖に」
「煩い」
「がはっ」
ボディブローを喰らわした。けれど、軽くだ。この後の言い訳にされては堪らないから。
私がこの軍に、この部隊にいるのは、もしかしたらある一つの、小さな目的のためかも知れない。そんなことを、私は思った。
チルドレンは寿命が短い。
その事実が私に重く圧し掛かる。
チルドレンは全身の細胞がナノマシンである――これはさながら、現状では全身機械とほぼ同義だ。生きている、という点だけ違うが。
金属繊維で繋げば擬似的に神経が出来上がり、電気信号の送受信が可能となる。これが義足や義眼の類だ。フェイクスがアウラを操縦する際もこれを行う。そしてまた、チルドレン同士が接触すれば、意志疎通も可能だと聞く。赤子のチルドレン同士で手を繋がせ、片方の赤子の視界にだけ映像を流す。大体が、二人ともほぼ同時に泣きだしたりと同じ反応をしたという結果が残っていた。もはやテレパシーの領域だ。これはさらにチルドレンが高度な次元に行こうとしていることを意味している。
しかしそれを、一身に受ける報いは大きい。
過去に、自分で調べた事柄であるし、ナノマシンの副作用で弱った人をこの目で見た事もあった。
カラカラに干乾びた皮膚を纏い、重い瞼の奥に何も写さない双眸を携えている。指は枯れた木の根のように細くなり、腕はさながら枯れた木の枝だ。か細い胴体はその幹といったところだろう。その姿はまるで老人で、とてもこれから社会に出て働くような年齢には見えなかった。呼吸さえも機械任せ。やがては脳でさえも機能が希薄になり、思考すら叶わなくなる。
それを、目の前の彼は運命づけられているのだ。
その事実は私にとってとても悲しい物であった。
そう、悲しいのだ。私が、悲しんでいる。私はあの日以来、感情は冷え切ったものだと、正直思っていた。
私の気持ちを理解してくれる人などいないだろうし、何より、そんな同情めいたものは要らなかった。それでも蔑みと同情が混ざった感情を、周りの人間は向けてくる。そんな中で生活していくのは正直、弱い私には耐えられなかった。
敬愛していた両親も逝去し、大好きだった姉でさえも私の前から姿を消した。
近づく親戚は私の家の財産目当て。学校の友達は無関係を装い、先生は上辺だけの言葉を綴るばかり、通りすがりの人間は遠巻きに噂をする。ポストに砂が詰まっていたり、ガラスが割れていることなどざらだった。
嫌味ではないが、私の家は上流階級だ。トップクラスだろう。妬みも買っていた。恨みも買っていただろう。買っていないわけなどない。――何せ。
加えて、無情にも、無関係の命を巻き込んだ上での死なのだから。
誰も私の気持ちなど理解できない。この気持ちは私だけしか分からない。周りから虐げられる苦痛も、家族を失った悲しみも。
それでも、コスモスの人たちは普通の人たちとは違った。皆が似たような事情を背負っているということもあり、深く私の過去を詮索しない。それは私にとって過ごしやすい環境であった。父が残した手がかりだけを頼りに、全てを投げ出して辿り着いた甲斐はあった。
そして気づけば、私は感情が欠落していた。悲しみも、憎しみも、喜びも、表情にさえ現れない。フィーナにはその事についてよく言われた。
だから、七年前のあの日以来だ。私が悲しみを感じるのは。挙句、涙さえ流してしまった。
自分で思っている以上に、カナメは私の心の大部分を占め、深く、根強く、浸透していた。そのことを、今、やっと、初めて理解した。
同じ家で過ごし、同じ皿のおかずをつつき、同じ学校へ、同じ時間に出て、同じ道を一緒に歩く。同じ授業を受け、共に昼食を取り、共に掃除をする。どちらかだけが掃除当番の場合は片方を待った。そして、同じ道を二人で帰宅する。帰ってまた、同じおかずをつつき、同じ風呂に入浴し、おやすみを言ってからベッドに入る。
たった三ヶ月。されど三ヶ月。
彼と共に過ごし、当り前の生活を、当り前のように過ごしていた。正直、学校なんてものは何かを感じるものではなかったし、彼との生活には何も見出すものなどなく、ただの監視を続けるものだと思っていたのに。思っていたのに、それは違った。
目の前の彼がいなくなる。
子供のように笑い、私に隠れて泣きじゃくっていた彼。同じ過去を背負いながらも、私とは違い、日の光を浴び続けることにした彼。彼は私の心を溶かした。熱過ぎず、温過ぎず、ただ暖かく。
――ギュッと、手首に付けたブレスレッドを握る。銀色の羽を模したワンポイントがあるアクセサリー。それはピンクのビニールの帯で私の手首に巻きついている。
彼がくれた最初のプレゼント。そして――最後の。
不意に、ブレスレットが歪んだ。また、知らない内に涙が溜まっていた。瞬きをすると、垂れそうだ。
――案の定、瞬きすれば、垂れてしまった。目尻から溢れ、頬を伝い、顎に達する。私はその涙を急いで指先で拭い、なかったことにする。その涙はやはり、冷たかった。
早く、普段の私に戻らなくては。いつもの、気だるそうな、無感情な私へ。今の私は、酷く感情的だ。
けれど無情にも、私の瞼の裏には――枢の顔が映っている。泣いている顔、困っている顔、不機嫌な顔、疲れた顔、呆れた顔、照れている顔、笑った顔。それと同時に、この三ヶ月の日々が思い起こされる。それは本当に些細なこと。一緒に勉強したこと、同じ台所で料理をしたこと、一緒に掃除をしたこと、一緒にテレビを見たこと。本当に些細な、ちっぽけなことが今ではとても輝いて見える。あれはもう戻らない。続けられない。時間は止まらない。進むだけ。
また、涙が溢れてくる。瞼を閉じているというのに、溢れる。
ああ、今更やっと分かった。
そうだ、私は。
私はきっと、
枢の事を――
――アイリの端末から、電子音が鳴り響いた。