夜の砦
暗い通路がいつも以上に怖く思えて、スイセンの腰は引けていた。
一歩ずつ進める足の動きも悪く、普通に歩くと比べたらかなり遅い。
しかもこれは慎重にするための足の運びじゃなく、ただ怯えているだけのものだ。
だから傍から見れば情けないばかりで、とても用心した動きには思えなかった。
けれど本人からしたら大真面目で、とにかく早く確認を済ませたい思いでいっぱいだった。
「怖くない…怖くないもん……。タナトスさんだって幽霊なんて居ないって言ってたし、居るわけないんだから…。だから怖くなんかないから…」
ただの強がりの言葉を繰り返すだけで、心も体も怯えている。
ひたすら独り言で自分の意志を鼓舞しながらミズキは歩き進んでいき、部屋の中を覗いては下へと降りて行った。
すると、また擦るような足音が聞こえてくる。
「ひぃ…!ごめんなさいごめんなさい!」
ついミズキは音に反応して、意味不明なことに謝罪の言葉を口にし始めた。
何に対して謝っているのか本人にすら分からないことだが、とにかく言葉を発していないと到底落ち着けそうにない心理だったからだ。
しかし暗闇の中で目を凝らせば、そこにはネズミの姿があった。
その小動物の姿を見て、ミズキは安堵の息を漏らす。
「はぁ…、なんだネズミさんかぁ」
そう安心したとき、何者かがミズキの背後に潜む。
安堵による一瞬の脱力感で、警戒が解けていたときだった。
不運なことに、その油断という要因によってミズキは気付けなかった。
そして気づいた時には遅く、体が前方に押し倒されたと思ったと同時に猿轡を口にかけられていた。
「んん…!?むぅんん…!」
慌ててミズキは抵抗しようとするも、うつ伏せに押さえられていてうまく体を動かすことができない。
だから喘ぐごとしかできず、せいぜい華奢で細い体を捩らすことが限界だった。
そんな暴れるミズキに対して、組み伏せてきた人物が野蛮な口調で低く声をかけてくる。
「へへへっ、暴れるなよ。大人しくしてろ…!」
押し当てられる体の感触と声で、すぐに見知らぬ男性だと分かった。
幽霊じゃないだけ良いかもしれないが、危害を加えてくる気があるのは明らかで、ミズキからしたら幽霊も暴漢も大差ない。
むしろ脅かすだけじゃない幽霊より質が悪い。
悪あがきするミズキを力強く押さえつけて、男性は声をかけてきた。
「お前、指名手配されてる野郎と一緒にいたな?つまり仲間なんだろ。ただのしがない傭兵だったが、思わぬチャンスが転がり込んで来たもんだぜ」
この男性は傭兵かと、話で察することができた。
指名手配が出回っているから傭兵も襲ってくることは容易に想像がつくのに、失念していた。
更に傭兵はナイフを取り出して、ミズキの首元に刃の尖端を当てる。
「さぁ、大人しくして従ってもらおうか。下手な動きをしたら、長年研いできた高級で最高の自慢のナイフで首を掻き切るぞ」
「むぅ…!」
今の状況だとミズキは言われた通りに従うしかない。
ミズキはうな垂れ、仕方なしに抵抗することを諦めた。
でもこの先、何をされるのか分かったものではない。
ただ連行されるだけなのか、それとも殺されてしまうのか。
どちらにしろミズキにとっては最悪のことだ。
そしてミズキが連れて行かれようとしたとき、別の声が後ろから聞こえてきた。
「すまないが、俺の仲間をどこに連れていくつもりだ…?」
声に反応して、慌てて傭兵はナイフを手に振り返った。
しかし振り返ると同時に一閃の鋭い蹴りが放たれる。
蹴りは傭兵自慢のナイフを叩き折り、綺麗な短い刀身が宙を舞う。
遅れてミズキが振り返れば、そこには蹴り上げた姿のタナトスがいた。
異変に気づいてくれたらしく、予期せぬ救援だ。
傭兵はナイフが折られたことにショックを覚えながらも、ヤケクソ気味にタナトスに組みかかろうとした。
しかしタナトスは丁寧な足取りと手つきで傭兵を掴み、流れる動きで床に強く投げつけて叩き落とす。
まさに一瞬のことだ。
傭兵は頭と背中を石床に激しく衝突して、一発で気絶してしまう。
このことにタナトスは呆気からんとしてぼやいた。
「おっと、やりすぎたか」
拘束が無くなったミズキは自ら猿轡を外し、タナトスに申し訳なさそうに声をかけた。
「タナトスさん、すみません助かりました…。ありがとうございます」
「気にするな。警戒が甘かった俺とポメラの責任だ。それよりケガはないか?」
「おかげさまで無傷です。えっと、この傭兵の方はどうしましょうか」
「他に仲間がいるかもしれないからな。とりあえず有益な情報になりそうなことは吐いて貰わないと…」
タナトスはそう言って近くの部屋から縄を持ってきて、手早く傭兵の腕を縛り付けた。
それから通路の隅に移動して乱暴に叩き起こす。
するとすぐに傭兵は目を覚まして、一度見渡してから自分の置かれている状況を把握するのだった。
タナトスは傭兵を厳しい目つきで見下ろし、容赦ない言葉を吐いた。
「目が覚めたな?さて、これからは問答以外の一切の言動は許さない。余計な口答えは無しだ。もし口答えすれば、その度にお前の指を切り落とす。指が無くなれば耳と鼻を削ぐ。次に目と舌をくり抜く。余計な動きをした場合も同様だ。分かったら頷け」
タナトスに睨まれながら、傭兵は恐る恐る首を縦に振った。
緊張感が辺りを包む。
この緊張感はタナトスによる殺気が一番の原因だ。
ミズキもタナトスは本気なんだと思ってしまうもので、理解ある仲間なのに寒気を覚えずにはいられなかった。
あとはミズキが見守る中、タナトスによる尋問が静かに行われる。
「まず、お前の他にここに人がいるのか?」
一言一言が傭兵には恐ろしかった。
言葉を発することさえ恐怖を覚えながら、傭兵は怯えた声色で答えた。
「い、いる。今はおそらく、砦の近くにある小屋で俺を待っているはずだ」
「そうか。じゃあ次に、お前が俺たちと接触したのは誰かの命令か、雇われてきたのか?」
「それは偶然だ…!あんたらがたまたま窓際を通る所を見かけたに過ぎない。あんたの顔が見えたんでね。それですぐに指名手配された人物だとピンと来たわけだよ…へへへっ。全く運が良かったんだか不運だったんだか」
「無駄口が多いな。仕方ない、指を一本切り落としておこうか」
そう言ってタナトスは短剣を取り出して、傭兵の指に刃を押し当てた。
薄皮が一枚切れて、細く血が垂れ流れる。
そのことに傭兵は激しく動揺した。
「や、やめてくれ…!ちゃんと答えているじゃねぇか!」
「なら、言われた通りに利口に答えるんだな。あと、俺が嘘だと思った場合も切り落とすから、そのつもりでいろ。次だ。お前の仲間は俺たちの存在に気がついているのか?あと何人いる?」
「生憎、きづいちゃあいないよ…。俺が独り占めしようとして来たんだ。あと人数か。俺を除いて二人いる。とは言っても、偶然見知った仲だからな。あまり親しいわけじゃないから、詳しく話せって言っても無理だぜ。分からないものは分からん」
「分かった。あとは寝てろ」
そう言ってタナトスは立ち上がって傭兵の頭を蹴り飛ばし、一撃で昏睡させる。
次に更にきつく縄で拘束し、一人では完全に身動きが取れない状態で放置した。
タナトスはもう用済みの傭兵には一切気にかけず、ミズキに指示を出す。
「ミズキ、お前はベッドに戻っていろ。あとは俺が一人で残った奴らを拘束してくる」
「え、大丈夫なんですか?手伝いますよ」
「二人だけなら俺一人で充分だ。すぐに片付けて戻ってくる」
タナトスはそう言って、縄を手にして近くの窓を開け放った。
ここから物置きらしき小屋が見下ろすことができる。
あの小屋だな、と呟いて窓から身を乗り出して、何事もないような冷めた言い方で一言だけ口にした。
「じゃあ、行ってくる」
「ここからですか…!?」
ミズキが戸惑いの声をあげたとき、すでにタナトスは窓淵を蹴って宙へと跳んでいた。
もうミズキには見送ることしかできず、窓が寂しく夜風で揺れるだけだった。
そして跳躍したタナトスは小屋の屋根に着地して、大きな着地音を立てる。
これで中にいる残った二人の傭兵も目が覚めて、警戒し出すだろうが関係ない。
すぐにタナトスは勢いよく震脚して、屋根と天井をぶち破った。
結果、瓦礫で天井は崩れて小屋の中へとタナトスは落下する。
荒々しい物音を鳴らしてタナトスは瓦礫と共に床に落ちた。
「なっ、なんだ一体…!?」
同時に驚き戸惑う二人の男性傭兵が視界に入り、タナトスは瞬間的に動き出す。
素早く的確に組手をして縄を活用しながら、相手が抵抗する時間もなく投げ飛ばした。
傭兵二人共瓦礫に大きく衝突して、簡単に動きを鈍くする。
まさに窓から飛び降りて数十秒足らずのことだ。
すぐさまタナトスは二人を縄で固く縛りあげて、気絶させてからその場に放置した。
「終わりだな…。ふぁう…さすがに眠い……」
さっきまで中途半端に眠りに落ちかけていたこともあって、タナトスは大きくあくびをした。
実は、ミズキの危機を察したのはたまたまだ。
ベッドルームから抜け出していたのは気づいていたが、その時はトイレか夜風にでも当たりにでも行ったのだろうと無視していた。
しかし、あまりにもミズキの怯える姿が怪しくて見に行っただけに過ぎない。
タナトスは入口から砦に入って二階まで戻ると、通路でミズキを見かける。
「なんだミズキ。待っていたのか?」
「い、いえ…怖くて動けなかっただけです」
「ずいぶと素直だな…。少しは恥じらって答えてもいいんだぞ」
「怖いものは怖いんです!それより、もう大丈夫なんですか?」
「あぁ、残った奴らか。動けないように縛ってあるから、今夜は大丈夫だろう。あのまま放置するわけにもいかないから、朝には一人だけ解放してやらないとな」
「そうですね、放置し続けたら餓死してしまいますし…」
タナトスとミズキの二人はそんな会話をしながら、三階のベッドルームへと足を運んだ。
意外にもポメラはベッドの上から微動とせず、熟睡していて寝息まで立てていた。
一度眠り出すと、余程の騒音でもない限り眠り続けてしまうのかもしれない。
二人はポメラの睡眠を妨げないように気をつけて、囁き声で眠りの挨拶の声をかけてから、それぞれ元のベッドで睡眠に入っていった。




