イカ臭い人
「それで、どうして私たちはまた森の中を歩いているのですか」
愚痴に近い口ぶりで、死にかけた思い出がある森のためにミズキはそうぼやいた。
今、三人はタナトスが住居を構えている森の中を、平和の勇者シャウを先頭にして歩き進んでいた。
この森には多くの魔物がおり、また強力な魔物も比較的に多いのはタナトス自身がよく知っていることだ。
だから彼が、わざわざ危険な道中を選んだ理由を説明する。
「魔物が多いということは、単純にそれだけ人に目撃される心配がないってことだ。兵士たちもこの森の捜索はできれば避けたいだろうからな。別の街に行くには一番危険な道だが、一番安全な道でもある」
「言いたい事は分かりますが、なんだか矛盾していますね。……ところで何だかイカ臭くありません?」
ミズキは鼻をすんすんと鳴らして、辺りの臭いを探りながら言い出した。
続けてタナトスも嗅ぎ始めると、確かにミズキの言うとおり森の匂いに混じってイカ独特の臭いがする。
「ん、本当だな。シャウ、お前もこの異常な臭いに気づいているか?森でこんな臭いはしないはずなんだが」
森の中は確かに様々な臭いは漂うが、さすがに海の幸であるイカの臭いがすることはない。
そしてタナトスの質問にシャウは前を向いたまま、口元から妙な咀嚼音を鳴らしつつ答えた。
「んー?あー今、私がイカの干物を食べているからだね!多分、その臭いだよ!」
シャウはそう言うとアホ毛を揺らしながら振り返って、口にイカの干物を咥えているのを指先で弾いてアピールしてみせる。
どう考えてもシャウが食べている物が原因の臭いで、思わずタナトスは呆れ気味に呟いた。
「おいおい。物を食べるのは勝手だが、この森では臭いが強いものは控えた方がいいぞ?魔物が臭いに釣られてやって来る」
「わはははー、大丈夫だよ!もうやって来てるみたいだから!」
お気楽にシャウが笑っていると、複数の足音が駆け足でこちらに向かって来ているのが聴こえてきた。
軽快に草木を掻き分け、土を踏み鳴らす軽い足音。
タナトスはその足音で人間ほどの大きさの魔物がやって来ているのを察し、いつでも戦闘に入れるようにと剣の柄に手を添える。
しかしシャウがタナトスの臨戦態勢を制するように手をタナトスの目の前にかざし、にこやかながらも能天気な表情を浮かべてみせた。
「そんないきり立たなくても、へーきへーき。魔物は何も無差別に人を殺そうとしているわけじゃないから」
のんきにシャウがそんな言葉を口にしていると、見つめる先から走ってきたのは鹿に近い造形をした三匹の魔物だった。
夜襲を得意とする成長をした魔物で、体毛は黒く、頭に生やしている茶色の角は大きく鋭利な形をしている。
しかも尻尾の部分には蛇の頭を生やしていて、ひと目で魔物と分かる姿だ。
更に体長は人間と比べたら然程大差ないが、足音を殺すことにも特化していて足の面積は小さい物となっている魔物だ。
その魔物の姿を見て、シャウは口元を緩めてみせる。
「おぉっと、鹿の魔物さんか。えっーと、名前なんだっけ?フュルなんとか。…何でもいいか。とりあえず、タナトスとミズキちゃんはノータッチでお願いだよ!」
シャウは楽しそうな表情でイカの干物を咥えながら、腰の辺りに差していた武器を取り出す。
腰に差していたのは折りたたまれた三節棍で、振り回しながら手にした時にはリール街で使用していた一本の長い棒へと変形していた。
それからすかさず単騎で特攻してくる一匹の鹿の魔物の動きに狙いを定め、簡単にシャウは走ってくる鹿の魔物の頭を叩くといよりぶつける形で棒の先端を当ててみせる。
これにより猪突猛進していた鹿の魔物も鈍い痛みと音が出れば、さすがに怯んで数歩後ろに下がっていく。
この先制攻撃によって他の二匹も先行した鹿の魔物と足を揃え始めて、様子を見ていく構えをしてくる。
明らかにこちらを襲う体勢と目つきだ。
それでもシャウは笑顔を崩すことはなかった。
「まぁまぁ魔物と人間の争いは終わったに等しいんだ。きっとお腹が膨れれば見逃してくれるよ。ということで、はい!私の咥えていたイカの干物をあげようじゃないか!私が噛んでいたから、いい感じに味が出ていると思うよ!ねぇ、タナトスもそう思うでしょ?」
「なぜ俺に同意を求める。味が出ているかどうかはともかく、あまり美味しそうではないな。ましてシャウが噛んでいたものなんて……」
「そうかなぁ?可愛い英雄が口にしていたら、どんなものでも価値があるものになりそうなのに~」
価値云々を口にしているあたり、結局味に関してはシャウ自身も保証はしていない。
タナトスがそんなことを思っている間に、シャウは口に咥えていたイカの干物を噴いて飛ばしては、身につけていたポケットからも残っていたイカの干物を手に取り、鹿の魔物の目の前へ放り投げる。
その数量はタナトスとミズキの想像を上回るもので、どれだけイカの干物が好きなんだと思ってしまうほどだった。
そして肝心のシャウが投げたイカの干物は見事に鹿の魔物達が口で受け止めてみせて、咀嚼する口の動きをした。
もちろんシャウの口から噴き出したイカの干物も一度臭いを嗅がれはしたが、鹿の魔物は咥えて口の中へと放り込む。
そのことにシャウはなぜか安堵の息を吐いた。
「あーよかった。私が咥えていた物だけそのまま地面に埋められたり、水で洗い流されたらどうしようかと思ったよ!でもさすが私の唾液だね。良いスパイスに……」
「あ、吐き捨てた」
鹿の魔物がイカの干物を食べている様子を黙って見ていたミズキがそう呟いたとき、シャウが口にしていたイカの干物だけが吐き捨てられた。
そのせいか、明らかにシャウの目は潤み始めていて泣き出しそうな目元になっていく。
「………えっと、うーんと…勇者の唾液付きだからね?私に心当たりはないけれど、きっと退魔のような力があったんだね。それなら吐かれても仕方ないよ。決して私のことが気持ち悪いとかじゃないよね?ね?ね?そうだよね、タナトス?ねぇ?」
「お前は言霊の類の妖怪か?くだらないことでショックを受けていないで、穏便に済む内に通らして貰うぞ」
「うぅ、こうなったらヤケクソだ!さぁ犯罪者共よ!この平和の勇者シャウ様にひれ伏して付いて来るんだー!突っ走るぞー!」
シャウは大声をあげて、言葉通りの行動に移っていきなり鹿の魔物の隣を走り出した。
そのことにはさすがのタナトスとミズキも驚いて、慌てて跡を追い始める。
そしてすぐに走り出すなり、タナトスは今更ながら行き先がどこかなのか自分が分かっていないことに気づく。
「おいシャウ!何処に向かっているんだ!?俺はてっきり近くの街にでも行くと思っていたんだが!?」
「わははははー!残念ながら最初から向かっている街は近辺の街じゃないよ!行くのは遠い私の故郷、鉱山の街レイアだよ!これは決して悲しみの逃避行とかじゃないよ!絶対に違うからね!」
「分かった!分かったから、目から涙を流しながら言うな!で、なんでお前の故郷に行くんだ!?」
「私の故郷には魔王討伐した仲間がいるからね!とは言っても、私に戦い方を教えてくれた師匠なんだけど!まずは味方を増やしておかないと!」
平和の勇者シャウが魔王を討伐したときの仲間は、すでに一人しか存命していない。
しかも存命している仲間はただの仲間ではなかった。
シャウの言うとおり彼女自身の師匠でもあるために、仲間というよりもう一人の平和の勇者と言っても過言ではない。
そのことに関してはシャウが残した魔王討伐記録にも記されているため、ミズキも充分に知っていることだ。
「鉱山の街レイアですか!私、平和の勇者様の故郷に行ったことが無いので楽しみです!」
「なぜミズキは嬉しそうに言っているんだ?何も観光しに行くわけじゃないんだぞ」
「実は私、主要都市リール街以外はあまり行った事が無いのですよ!だから鉱山の街レイアがどのような所なのかと、好奇心が湧いています!」
「そうか、それは結構だがお前はお前で目的を忘れるなよ!……おい、シャウ!後ろから何か追われているぞ!フュルなんとかに!」
「過去は振り返ったらダメだよ!さぁ行こうじゃないか!わははははー!」
三人は大声で気楽そうに会話をしながら、森の中を人間としてはかなりの速さで駆けて行く。
更に三人の後ろを、三匹の鹿の魔物が負けない速さで追っていた。
それは結果的に三人と三匹による追いかけっこのため、森中を騒がせる状況となっている。
森の中という人の目には当たらない環境だが、あまりにも注目を集める行動には変わりない。
だから森の中を駆ける三人に気づいた人間が偶然にも一人だけおり、その人物は水色の髪を揺らしては木の上から眺めていたのだった。
遠く見られている事に、駆けることに懸命になっていた三人が気づくことはなかった。