夜の雨
ポメラ師匠の家から出て間もなく、シャウの頭上に小さな雫が落ちてきた。
頭のピンクのリボンに濡れた跡が滲みできる。
すぐにシャウは頭上に落下した雫の冷たさに反応して、空を見上げて驚きの声をあげるのだった。
「わわっ、雨降ってきた…!?急いで家に帰らないと!」
急いで帰宅するために歩幅を大きく、そして駆けていく速度を上げていく。
まだ濡れていない地面を蹴り、軽快に夜道を進んでいった。
走っている途中、気づけば辺りの家の照明は完全に消えている。
更に雨雲のせいもあり、月明かりが無くて夜の闇はより一層深い。
数少ない街灯としてのランプが雨に濡れて、歪んだ光りを放つだけだ。
雨は強くなる。
一滴一滴が大粒となり、一気に山全体を濡らしていく。
雫は家の屋根に当たって流れていき、屋根から地面へと落下するときには雫ではなく流水と呼んで差し支えないほどになっていた。
もうそこまで雨が降ってしまえば、当然シャウの全身も酷く濡れている。
茶髪がシャウの顔に張り付き、手を頭上でかざすことで雨を凌ごうとするも無意味だった。
夜の冷たい雨がシャウの体温を奪っていく。
「う~、まさかこんな早く本格的に降るなんて予想外だよ。こんなことならポメラ師匠の所に行くの明日にすれば良かった…」
つい愚痴をこぼしてしまう。
ひとまず自宅に着いたらすぐに体を拭きたいな、とシャウが思っている間に何とか自宅の目の前に着くことができた。
雨から逃れるために急いで玄関扉を押し開けて、少し乱雑に家の中へと入ってからぼやく。
「わははー、これは酷いね。もう濡れ濡れのびっしょびしょ。服も着替えなきゃ…」
そんなことを言っている間にも、シャウの足元には水が溜まっていた。
このままだと自分の家の玄関に池が出来てしまうのではと思ってしまうほどに、滴る水の量が多い。
とりあえずミズキの助けの手を借りようと、シャウはフローリングの床を濡らしながらリビングへと向かった。
「あれ?……ミズキちゃん?どこいったのかな?」
リビングには、ソファの上で体勢を横にして寝てしまっているタナトスの姿しかなかった。
顔を赤くして眠っているタナトスの体の上には毛布がかけてあり、ミズキが毛布を被せてあげたのが容易に想像がつく。
でも、その肝心のミズキの姿が見当たらない。
「タナトスに愛想を尽かして、寝室に行ったのかな。わわっと、やばいやばい。足元がびちゃびちゃ鳴ってる。まずは拭いて着替えないと」
シャウはタナトスの隣を荒々しい足音を立てて通り過ぎ、浴室の方からサイズの大きいタオルを手に取って自分の髪を拭く。
更に何度もタナトスの隣を通って行き、自室で着替えを済ませたり、濡らしてしまった床を拭いたりとしている間もタナトスの目が覚める様子は一切無かった。
普段なら物音に敏感そうなタナトスだが、臭いと状況からして酒の酔いで深い眠りになってしまっているのがシャウには分かった。
そんな気を抜いて眠っている表情が間抜け面に見えて、ついシャウはいたずらっぽい口調で呟いた。
「タナトスちゃ~ん、シャウお母さんが子守唄を歌ってあげますね~。土風薫るー花びら。くすぐる匂いー花びら。優しき光りー花の色~」
途中シャウはやさしく微睡むような、とてもスローテンポに歌いだした。
まるで囁く声で、目を瞑って聴けば落ち着いてしまう甘く優しい声が静かに耳に入って頭に響く。
だがシャウが歌っている途中、玄関とリビングを繋ぐ扉の所から声が聞こえてきた。
「お帰りなさい、シャウさん。その歌、何ですか?」
聞き知った声で話しかけられ、シャウは歌うのをやめて、声がした扉の方へと視線を向けた。
するとシャウは、少し眠そうな表情のミズキの姿を見る。
今日だけで色々と動き回ったのだから、眠くなるのも無理はない。
シャウは立ち上がってミズキの質問に答えた。
「昔、私の師匠が歌ってくれた子守唄。歌詞そのものは別に眠り向けってわけじゃないんだけど、とてもゆったりとした歌でね。私の場合、子守唄って言ったらこれなの」
「くひひひっ、そうなんですか。でも、傍から見たらタナトスさんに子守唄って何だか変な光景ですよ」
ミズキは少し独特な笑いの声を漏らしては、いつもの優しい笑みを浮かべた。
その愛想笑いにつられて、シャウもを笑みを見せて言う。
「わははは、まるでタナトスが私の子供みたいで面白いでしょ?まぁ、面白そう以上の意味は何にもないんだけどね!」
「つまるところ、ただのからかいじゃないですか」
「ふふふ~。私は相手が起きてようと寝てようと、面白そうと思ったことはしてみる性格だからね!で、ミズキちゃんは寝ないの?か~な~り眠そうに見えるけど」
もし帰りを待って起きてくれていたのなら気を遣わせてしまって悪い。
そんな気遣いからのシャウの発言だった。
ミズキは自分が眠そうな眼しているのだと、シャウに言われて気がつき、自分の目を手でこすった。
「う~ん、今日は色々とあって疲れましたからね。さすがに顔に出てましたか」
「うん、出てる出てる。すっごく出てるよ!別に私に気を遣わないで先に寝てて良かったのに。そのために寝室の場所を教えたんだし」
「でもタナトスさんもいましたから」
ミズキは、呑気にソファの上で眠ってしまっているタナトスに視線を向けると、シャウは鼻で笑って反応してみせた。
「わはは、別にタナトスなんか放置していても大丈夫だよ。元は山奥で暮らしていたんだから何ともないって。あ、そうだ。それよりさ、メメちゃんはどうしているかな?」
さりげないシャウの質問。
その質問にミズキは一瞬だけ目を細めては、すぐに愛想笑いを浮かべて答えた。
「メメ…ちゃんは、お父さんの近くで眠っていますよ。一晩中一緒にいて診ているって言っていたので、毛布だけはかけて、下手に動かさないようにしてはいるのですが…」
「さすがに小さな女の子を床に寝かすのはまずいかなぁ。ぐっすり眠っているの?」
「……眠ってますよ。それは本当に深くぐっすりと、目が覚める様子がないほどに」
今のミズキの答え方には、どこか変な物の言い方があった。
明確には分からないが、何か違和感を覚える口調だ。
しかしシャウは少しだけ変に思うだけで特に気には止めず、ミズキに物事を頼むのだった。
「そうなんだ。なら悪いけど、メメちゃんをベッドに移して貰っていいかな?本当は私が運んであげたいけど、先に雨で濡れた服とか綺麗にしておきたいから。それとしつこいようだけど、別に先に寝てていいからね?」
「それくらい大丈夫ですよ。任せてください。では、私はメメちゃんを別の寝室に連れて行ってから、お言葉に甘えて先にお休みを頂きますね。おやすみなさい、シャウさん」
「うん、おやすみ~」
シャウはそう言いながら浴室の方へと歩いていく。
ミズキはその後ろ姿を見届けてからリビングを出て上がり階段へ行き、本当に小さな溜め息を吐いた。
そしてさっきまでの愛想笑いからは打って変わり、冷酷な表情と共に冷たい眼をして呟く。
「さすがにタナトスとかいう人の近くだと難しいか」
冷酷な表情となった水色髪を束ねた少女は、服の内側から慣れた手つきで柄が水色の短刀を取り出す。
それから暇を持て余すかのように、鮮やかに短刀を手首と指先の動きだけで回転させながら足音を一切立てずに階段を上がって行った。
二階に上がると水色髪の少女は右側の廊下を歩き、突き当たり奥の扉を僅かに開けて覗き込む。
すると、男性が眠るベッドに顔をうずめている少女の姿があった。
静寂で暗闇に包まれた部屋。
そんな中でベッドに顔をうずめている少女はピクリとも動きはせず、ベッドに眠っている父親と同じようにとても深すぎる眠りに落ちていた。
水色髪の少女はそのことを確認すると扉を閉めて、わざわざ外側からのピッキングで親子が眠る部屋の扉に施錠をかける。
ピッキングは数秒足らずの出来事で、ピッキングに使った簡易的な道具を服の内ポケットへと素早くしまいこんでいた。
「平和の勇者が来る前にメメとかいう親子は処理済みだし、これですぐに気づかれる心配はなしだね。お姉ちゃんも大丈夫。あとは……平和の勇者を殺すだけかぁ。くひひひひっ」
水色の髪の少女は不気味に笑い、暗殺者としての色濃い影を顔に映す。
あとはタイミングを見計らうだけ。
ミズキの妹であるスイセンはそう思い、シャウを暗殺するためにもひとまずは別の寝室の方へと身を忍ばせた。
このとき、外の雨の降る勢いは増しており、家内にまで雨音が響くほどとなっていた。




