ミズキの不安
タナトスがリビングへ向かおうと階段を降りて行くと、慌ただしい足音が聞こえてきた。
その足音を鳴らす人物は玄関前の階段下へと走って行き、すぐにタナトスの目につくことになる。
「なんだ、シャウか。急にどうした?お茶請けの準備でもしているんじゃなかったのか?」
シャウはタナトスに声をかけられて一瞬だけ視線を上げては、玄関の方へと顔を向けてしまう。
そして乱れた髪やリボンを整えながらシャウは答えた。
まさに急いでいて、構っている時間が惜しいと言わんばかりの動きだ。
「師匠に教えておきたいことがあったのを思い出したの!明日でもいいかなって思ったけど、手遅れになるのは困るからちょっと出かけてくるね!あ、リビングには適当に飲み物出しておいたから!寝る場所とかはミズキちゃんに教えてあるから聞いといて!じゃあね!」
「戻るのがそんなに遅くなるのか?ならメメに一言………ん、もう行ったか。よくまぁ、一日中フル稼働できるな」
タナトスがそんな言葉を口にした時には、シャウが自宅から飛び出して玄関の扉が締まる音が鳴っていた。
今頃暗闇の街の中をシャウは駆け抜けているだろう。
ここで棒立ちしていても仕方なく、タナトスはリビングへと足を運ばせてミズキの様子を伺いにいく。
リビングへたどり着くと、やはりというべきか家の大きさに見合った広い空間となっていた。
棚やテーブル、ソファ等と新品のような一式の家具が揃えてあって綺麗な絨毯が敷かれている。
それでも華やかというより、落ち着いた内装なのはシャウの好みなのかもしれない。
シャウのことだから、もっと可愛らしい雰囲気を重点にしていても違和感はないのにな、とタナトスは思いつつもミズキの方へと視線を向けた。
するとタナトスの視線に気付いてなのか、ソファに座っていたミズキは振り返って笑顔で反応する。
「あ、タナトスさん。お疲れ様です。シャウさんが色々と用意してくれたんですよ。どうぞ、お座りになってください」
「あぁ、すまない」
タナトスはミズキに促されるがままに、ミズキの対面側にあるベージュ色のソファへと深々と座って、ガラステーブルを挟んで向かい合う形となった。
さすが勇者とだけあって優遇されているのか資産があるのか、ソファの素材と作りが良くて座り心地がとても良い。
普段、木の椅子にしか座ることがないだけに、タナトスはそんな些細なことに内心小さな感動を覚える。
そしてテーブルの方へと視線を移せば、ミズキが慣れた手つきで瓶やら袋からと焼き菓子を丁寧に取り出しては小皿に綺麗に飾ってみせた。
彩りも鮮やかに見えるように置かれている辺り、ミズキの繊細さが表れている。
ミズキは楽しそうに準備をしては、優しい声でタナトスに何を飲むのか尋ねてきた。
「飲み物は何にしますか?医薬の街アスクレピオスで採れるハーブの紅茶。食の街アルパで作られた果物のドリンク。リール街で醸造されたワインと色々あるみたいですよ」
「酒か。普段は山篭りしているから滅多に飲む機会がないからな。せっかくだから酒を頂こう」
「分かりました。色々と種類があるみたいですけど、何にしますか?」
「何でもいい。まぁワインだからな。できれば匂いが柔らかいのがいい」
タナトスの注文を受けたミズキはソファから立ち上がって、棚の方へと静かな足取りで歩いて行った。
それから棚の戸を開けていくつかのボトルを手に取り、ボトルに貼られているラベルを眺めては選別を始める。
その後ろ姿をタナトスは見ながら、何気なく質問を投げかけた。
「ミズキはワインに詳しいのか?」
「あ、いえ…飲むわけではないのですけど、よく食の街アルパの本を読んでいたので僅かながら知識だけはあるつもりです。とは言っても専門的な知識は皆無に等しいんですけどね、えへへ。でも、料理で使うこともあるので匂いくらいなら記憶してますよ。故郷暮らしの時は、色々な種類の材料とか試してみたりしましたから。あ、これがいいですね。白ワインの葡萄酒です」
ミズキはそう言って一本のワインボトルを手に取り、カップを一緒に持ってソファの方へと戻っていく。
すぐにミズキはワインボトルの栓をコルク抜きで開けては、カップの中へと黄緑がかった液体を注いでいった。
カップは気泡を発する液体によって満たされ、ミズキはボトルを置いて両手でカップをタナトスに差し出す。
「ん、ありがとう」
タナトスはカップを受け取っては白ワインの匂いを浅く嗅ぎ、ゆっくりと煽ってからカップを口につけた。
すると味を楽しむのかと思いきや、意外にも一気に飲み干してしまう。
その様子を見てミズキはタナトスに問いかけた。
「お酒、強いんですか?」
「……ふぅ。あー、いや…強くは無いが、久しぶりでつい飲み干してしまっただけさ。それにしても良い選択だな。俺の要望通り匂いが柔らかく、口の中に含んだ時すっきりと飲めた。どこか爽やかさが強い気もするが、味の広がり方と飲んだ後の感覚のまろやかさは充分だ」
「っけひひひ、お口に合ったようで何よりです」
「それで、シャウは師匠に会いにいくとか言っていたが、詳しい内容はミズキは聞いているのか?」
タナトスは小皿に盛られていたクッキーを一枚手に取り、口の中へと放り込んだ。
噛むと砂糖の甘味に混じって薬味が広がる。
医薬の街アスクレピオスのハーブが入っているのかと、癖のある味に思わず少しだけタナトスは苦い顔をした。
「いえ、聞いていませんけど、おそらくリール街での出来事を報告しに行ったんだと思います。遅くなれば情報が交錯して、余計な混乱と誤解を招く恐れがあると思いますし…」
「確かにな。シャウはこの街レイアでは情報の伝達が遅いとは言っていたが、絶対の保証はない。なら行動は早くするべきだ。…げほっげほっ!焼き菓子の欠片が喉に詰まった…!」
突然咽ながらタナトスは自分でカップに白ワインを注いでは、また一気に飲む。
強くはないと言っていたのに、そう飲んで大丈夫なのかとミズキは不安そうな顔をした。
数秒後にはタナトスの咽せは治まるも、早くもタナトスの耳と顔の肌が赤く染まりつつあって酔いが回り始めている。
「で、ミズキは何か具体的な打開策、妹の居場所の目星はあるのか?」
「……あぁ、えぇっと……うぅん」
唐突に近い本題の入り方にミズキは面をくらい、唸ってしまった。
全く宛てがないわけじゃない。
むしろサタナキアの戦闘の時に拾ったナイフのおかげで、実は妹は近くに居るのではという思いさえしている。
でも確信はなく、呼びかければ出てくるわけでもないのは分かっている。
とても中途半端な状態と言っていい。
手がかりはあるが、どうすればいいのかという案や判断がミズキにはない。
ナイフのことをタナトスに言うにしても、真実を知るのが恐くて、どうなるのか恐くて言い出せない。
最悪、妹はタナトスに罪を着せたまま死んで貰おうと、殺害を企んでいる可能性だってある。
とにかく今のミズキにとっては情報と状況の整理が必要だった。
可能であれば、まずは自分ひとりで妹と話し合いたい。
暗殺の真実に限らず、どうして家から出て行ったのかという理由も問い詰めなければいけない。
「ミズキ?」
「え、あぁすみません!つい考え込んでしまいました!えぇっと、私の妹ですよね。もしかしたらタナトスさんに罪を着せたことを利用して、リール街に留まっているのかもしれません。そうすれば、唯一現場を目撃したタナトスさんに見つかる恐れはありませんから!」
「なるほど、それは盲点だった。確かにそうされていたら、かなり厄介だな。シャウ単独でリール街を探索して貰うしかなくなる。それは厳しいな…」
ミズキは思いつきで言ったものの、咄嗟にしては機転の効いた答え方だった。
一つの可能性に過ぎない話にしても、充分にありえる話をすれば真意は紛れてしまうものだ。
タナトスはミズキの言ったことを考えながら、またカップに白ワインを容れて飲み始める。
あまり飲まないと言っていただけに、飲み慣れていないのかペース配分が早い。
タナトスの顔の火照りの赤みが更に増している。
「タナトスさん、大丈夫ですか?すでに酔いが回っているように見えるのですが…。飲み過ぎると明日に支障が出ますよ?」
「あぁ、そうだ。そうだな。明日、どうしようか。剣が折れたからな。レイアで剣を買わないとな…。無一文に等しいが剣が欲しい」
「そういえば私も剣を買い直さないといけませんね。明日、シャウさんに場所を聞いて剣を一緒に見に行きましょうか」
「金がねぇ…。くっそ…絶対に許さねぇネズミめぇ…。この世にネズミさえいなければ俺はこんな罪を着せられることはなかったのに…。この騒動が終えたら、ネズミ狩りの旅に出てやる…!」
「えぇっと、タナトスさん?」
酷く会話が噛み合わないどころか、ミズキの言葉がタナトスの耳に入ってすらいない。
タナトスは愚痴同然の独り言を続けながら、まだ白ワインを飲み続けた。
「ネズミ滅すべし…!ネズミ討伐のギルドでも立ち上げてやろうか。だいたいネズミなんて腐敗した肉でも食っていればいいのに、わざわざ俺の貯蔵の食料を食べやがって…。魔物だって食えなくもないが、全部が全部食べれるわけでもなければ、だいたいは食用には向いていないんだぞ…!こうやって美味いワインを飲むことすら稀なのに、食すら不味いものなんて耐えられん…。俺には耐えられん!」
「ちょ…、ちょっとタナトスさん。一旦、カップをテーブルの上に置きましょうか?そうです、置きましょう。置きましたね?じゃあ更に落ち着きましょうか。って、それお皿ですよ!お皿に落ち着くじゃないです!更に、落ち着くです!なんで、お皿に顔を突っ込んだんですか!?…あぁあぁ、ボトルを一気飲みはダメですって!死にますよ!死にますって!タナトスさん、タナトスさん…!駄目です、それ以上は逝っちゃいますよぉ!」
気づけばリビングでは大騒ぎとなっていて、ミズキ一人で慌てている有り様となっていた。




