心から想っているからこそ
巨大な大蛇はタナトスの存在も感知していた。
しかし大蛇にとって動かない獲物は仕留める必要はなく、最優先するべきことは自分の巣にいる脅威の排除だ。
侵入者を殺すために、大蛇は正義の勇者アリストとスイセンとミズキの三人の抹殺を本能的に決めていた。
そして同時に、大蛇は相手が暗闇の中で充分な行動ができていないのを理解していた。
それは実は先に兵士達を襲っていたことが原因で、容易に先手を取れると知っている。
だから大蛇は大声で威嚇してくるアリストに向かって、確実に捕食するために容赦なく長い体を高速で巻きつかせた。
「うぉっと!」
アリストは体に強い圧力を感じて声をあげる。
巻きつくことを攻撃とする蛇の力は強く、圧迫による窒息だけではなく加減をしないので相手の骨を折ることもしてしまう。
更に巻きつきは獲物の心音が完全に止まるまで続き、確実な死を与えるものだ。
普通に生息している生物なら、この大蛇に巻きつかれたらすぐに全身の骨を砕かれて内臓が破裂してもおかしくない。
しかしアリストはそうはいかなかった。
彼女が体の硬度を上げることによる高まる耐性は、圧力に対して特に強い。
まさに鋼鉄の塊そのものになれると同じで押しつぶすより、まだ斬撃の方が薄い傷をつけることが可能なくらいだ。
「悪いけど、あたいに体を密着させるのは自殺行為だよ!」
次にアリストは自分の体重を一気に増やす。
実に自身の重さを六千キログラムにまで跳ね上げて、自ら姿勢を崩して倒れ込もうとした。
獲物の重さが急激に増えるのは初めてで、さすがの野生の大蛇もすぐには回避行動には移れなかった。
身の危険を感じて巻きつきを解こうとした時には遅く、大蛇の尻尾にアリストにのしかかる形となって押し潰した。
相手の体を締め上げて潰すどころか、逆に大蛇の体が潰れて高い声をあげた。
でも潰した箇所は尻尾の尖端に過ぎず、大きなダメージとはならない。
すぐに大蛇は反撃へと転じて、アリストに噛みつこうと鋭い牙をむけた。
毒の体液が滴った牙をアリストの体に突き刺さそうとするが、頑丈な彼女の体に刺さりはしない。
それどころかかすり傷もつかず、大蛇の毒が彼女の体内に駆け巡ることはなかった。
まさに攻撃が通じない相手に、大蛇にとっては手詰まりと言える。
「ここが頭だね!」
アリストは牙との接触で噛みつかれようとしている事に気づくと、大蛇の頭を肘打ちで叩き落とした。
もちろん重さを増やして威力が底上げされている攻撃だ。
その痛みは大蛇の頭を衝撃で揺さぶり、まさに重い一撃だった。
こうしてアリストが大蛇と肉弾戦をしている間に、スイセンは泳いで泉からミズキを引き上げていた。
水が気管に入ったのか激しく咽ていて、体の自由をほとんどスイセンに任せている状態だ。
「ごほっ、げほっごほっ…!」
「大丈夫お姉ちゃん?ほら、もう岸だから呼吸を整えて」
全身が水浸しになってしまった姉妹。
特にスイセンに至っては濡れてしまったことにより、いくつかの道具が水に触れてしまって使用できなくなってしまっていた。
けれどスイセンがそんなことを気にする訳もなく、ただ実の姉のことを心配するばかりだ。
そして二人が泉からあがったとき、大蛇は目標を変更した。
狙いを最初に襲ったミズキへと再び戻して、アリストからの続く連撃を逃れると同時に泉の方へと体を這いずらせようとする。
アリストも間髪なく殴打を繰り出したつもりだったが、暗闇ということもあって攻撃を外すことになって大蛇の行動を妨げることはできない。
アリストの拳が空を切るとき、すでに大蛇はミズキの近くまで接近していて音速に劣らない素早さで噛みつこうとした。
「お姉ちゃん!」
大蛇の殺気と僅かな鳴き声と這いずる音にスイセンは反応して、とっさにミズキを押し倒した。
ミズキは咽ていたこともあり押し倒されるがままで、激しく地面へと倒れ込んだ。
同時に、スイセンの体が宙に浮く。
腹部にも激痛が走り、何かが彼女の体にくい込んでいる感触があった。
「くぅっ…!」
痛みからして噛みつかれた。
しかも咥えたままで、口から離そうとしない。
スイセンは自分が噛まれたことに気がつくと、すぐに懐から短剣を取り出して反撃しようとする。
でも思うように手が動かず、隠し持っていた薬品を余計に落としてしまうだけだった。
大蛇の牙から神経系の麻痺毒が出てることを、スイセンは身を持って知る。
一気に意識が朦朧として、暗闇にも関わらず視界に光りがチラついて自分の状態が良くないことを察した。
舌が痺れて、えづくような声しか出せない。
体が痙攣して、抵抗どころか助けを呼ぶ事もできなかった。
「おっ……ねぇ……ん…!」
必死に絞り出した声。
けれどその声はミズキの耳には届かず、ただ妹が大蛇に襲われたことだけを彼女は理解する。
「スイセン!」
助けたいのに暗くて見えない。
妹は自分を助けてくれたのに、自分は妹を助けられない。
何とかしなければとミズキは懸命に名前を呼びかけながら、剣を鞘から引き抜いた。
大蛇の気配は強く、暗闇ということもあって神経が研ぎ澄まされているから体の位置はだいたいは把握できた。
しかしミズキが剣を振ろうとも、肝心の距離感が曖昧過ぎて刃が大蛇の体を傷つけることはない。
それどころかアリストのこともあったため、大蛇はスイセンを咥えたまま這いずって逃走を始めた。
這いずる音は頭上の方へと天井を渡っていき、離れていく。
一度大蛇は諦めて、撤退してしまった。
このままだとスイセンは殺される。
その焦りと不安は酷く強く、ミズキは妹の名前を叫び続けた。
「スイセン!待って行かないで!スイセン!嫌だ、やめてぇ!」
どれだけ必死に呼びかけても、本人からの返事はない。
気づけば大蛇の這いずる音も完全に遠ざかっていて、もはや連れて行かれてしまったのだと思うしかなかった。
足元が竦んでしまうような喪失感と恐怖が、彼女の心を苛む。
そのなかアリストだけは冷静で、ミズキに声をかけた。
「妹が連れて行かれたのかい!?あんたの身にケガがないなら、急いで追いに行くよ!」
「追うって…、どうやってですか!暗闇でどこに行ったか分からない。どこに行けばいいかも分からない。探すことも追うこともできない状況なのに!」
「諦めるんじゃないよ!大切な妹なんだろ!助けたかったら、嘆いている時間なんてありやしないんだよ!何があろうと行動を起こして前に進むしか、物事に変化が訪れることはないのさ!」
意思の強いアリストは力強く言い切った。
正義の勇者に相応しい振る舞いと態度かもしれないが、一人の少女に過ぎないミズキにとってはついていけるものではない。
実際、アリストには打開策は無かった。
なぜならいつもはこういう緊急時こそ、正義の勇者の仲間達が代わりに思考して案を考えるからだ。
いわゆるアリストは士気を上げる火付け役だ。
確かな行動力と意思はあるが、具体的な考えまでは伴っていない。
そして打開策を口にしないから、ミズキとしては泣くことしかできなかった。
そんな傍らでアリストは自分が行動で示さなければミズキも動かないと考えて、彼女は勇者らしく諦めずに手探りで道を探し始めた。
「大蛇の大きさから考えて、人が通れそうな穴があるはずなんだ。それならすぐに見つけることができてもおかしくない…!」
アリストは自分にそう言い聞かせて探すが、簡単に見つけることはできない。
ミズキも探す行動をするべきだとは思っているが、悲しみが強いせいで感情が落ち着かなくて動けなかった。
妹が死ぬと思うと辛くて、余計に思考が回らなくなるという悪循環に陥る。
「スイセン…!スイセン……うぅっ…!嫌だ、死なないで。お願いだから死なないでよ、スイセン…!」
もう名前を呼んで泣くしかなかった。
どうしようもできない環境と状況に絶望して、濡れた体でミズキは涙で顔を更に濡らす。
そんなとき、小さな赤い光りが漂った。
「ミズキ、なぜ泣いている。何かあったのか…?」
弱々しく低い声。
でもその声は、俯いていたミズキの顔を上げさせるものだった。
何者かの手がミズキの片手を握り、近くにいるのだと知らせてくる。
その手は力強くて、とても暖かい。
「ミズキの泣いている声が聞こえたんだ。教えてくれ、どうして泣いているんだ。俺が必ず守る。だからどうか、痛めている心を救わせてくれ」
いつも以上に落ち着きがあるが、確かに聞き知った声でミズキは手を握ってきた人物の顔を暗闇の中で見つめた。
そしてミズキは握ってきた手にすがり、助けを呼ぶ声をかけた。
「…大蛇にスイセンが連れて行かれたんです!助けてください、タナトスさん!」
ミズキの心の底からの叫びだ。
水色の髪の少女にタナトスと呼ばれた彼は、赤い目を光らせて小さく頷いて彼女の懇願する想いに応えた。
その声は優しくて、落ち着きがあるものだ。
「分かった、スイセンだな。安心しろ。すぐに助けてやるから、もう泣くな」
そう言って彼は、ミズキの頬を伝う涙を指先で拭き取った。
それから嗅覚を働かせて、彼は上を見上げた。
まるで全てが見えるかのように赤い瞳の視線を泳がして、天井に通れる穴があるのを簡単に見つける。
タナトスは穴を見つめては、ミズキとアリストに話しかけた。
「上の穴から薬品独特の刺激臭がする。きっとスイセンの持っていた薬品が大蛇の体に付着したんだ。すぐに追うぞ」
この言葉に驚いたのはアリストで、彼女は声を荒らげた。
「待ちな!いつ起きたんだか知らないが、あんたこの暗闇の中で眼が見えているのかい!?」
「あぁ。魔人の力を発現している間は、俺の眼は暗闇でもよく視える。それより天井の穴まで遠いから、俺が一人ずつ背負っていこう」
タナトスはあっさりと答えを返しては、次の行動への言葉を口にした。
彼はまるで何も気にかけずに当たり前のように言っているが、ミズキとしては聞き捨てにならない言葉が含まれていた。
「タナトスさん、魔人の力って何のことですか…?」
「俺のことについての説明は後でしてやるさ。本当の意味でお前を心の底から守る以上、俺が隠し事をするわけにもいかないからな。さぁ、スイセンを救出しに行くぞ」
タナトスはそう言って、少し強引にミズキを背負い込んだ。
その背中は広く、とても暖かく、いつもと違ってタナトスと心が通じ合っているような感覚をミズキは全身で感じていた。
とても不思議なことだけど、さっきまで絶望して泣いていたのが嘘と思えるほどに彼女は安心できた。




