第一話
真っ白で凛々しく、大きくて輝く羽根は、無残にもリオウの背中から消えてしまった。
肉体的痛みは全くなかった。けどどちらかといえば、今現在のほうが肉体的苦痛に耐えているほうだ。
リオウは、大声で叫びながら雲を一つ越え、また一つ雲を越えてさらに横目では真ん丸と夜空を照らす満月に見守られながら落ちてきた。
そして落下地点は暗闇に覆われた森の中だった。
運よく木々の串刺しだけは免れたが、背中と尻を強くうったせいでさっきまで身動きが取れなかった。
普通の人間なら確実に即死していただろう。しかし、彼は元天使だ。そこいらの人間どもと同類にしないでほしい。
一時間もたった今では、余裕の表情で森の中をさまよっていられるほど元気なものだ。
「おーい!」
と声を出しても返事がくるはずはなかった。
羽根さえあればこんな暗闇!
高くそびえる木々を見上げながら悔やむが、いくら背中に力をいれてもあの立派な羽根はもう出てくることはない。
嗅いだことのない土の匂い、聞いたことのない鳥らしき鳴き声、さすがのリオウも少し不安になってきた。
それに今まで歩くことすらあまりなかった足は、もう限界に近づいていた。
「ちくしょー!!」
とうとう、地べたに座り込んでしまうリオウ。
ひんやりと夜の気温に冷まされた土は、疲れた足を癒してくれているみたいだった。なんて、思ってもみるが天界の仕事着、純白のローブが黒く汚れているのにまだ気がついていなかった。
このまま、森の神となって居座ってやるか! と思った矢先である。
「誰じゃ!!」
「!?」
後ろから老人の声が森の中に響き渡った。
慌てて振り返ると初老のおじいさんが懐中電灯をリオウに向けてきた。
「違う! 俺はけして迷子になってこの森をさまよっているわけじゃねーぞ」
「子供か……」
老人はリオウの顔に照らしつけたライトを地面に向けて歩み寄ってきた。
「君がそうじゃな」
さっぱり意味がわからないがどうやらこちらに対する敵意はなさそうに見えた。
「こんな所に居ても風邪ひくぞ」
と老人は歩けないリオウの手を握り小屋まで案内してくれた。
「うめーーーー」
思わず声を上げてしまうリオウ。
「ホッホッホ、元気な子じゃ、しかし悪いのぉ、こんな物しか出して上げられなくて」
老人が差し出したのはおにぎり二個に味噌汁一杯と質素なご飯だった。けど日本食が大の好物なリオウにとって最高のおもてなしだった。
どうやら老人は、この森の地主らしく学生のキャンプやら林間学校やらと色々な行事に利用させてあげている人だった。
「まだ五月の森は寒いぞ」
と老人は優しく服まで提供してくれたのである。
「おう、ありがと」
今まで物にしか思えていなかった人間にまさか、感謝する日がくるなんて思ってもいなかったが、とりあえずこの老人の善意を心から受け取ることにした。
疲れた体も一気に吹き飛びそうになるくらい、美味しい味噌汁を最後に飲み干したリオウ。
「ごちそうさま」
「こっちも気分がよくなる食いっぷりじゃったわい」
老人は高笑いしながら皿を片付けてくれた。
すべて木材で造られたこの小屋は、老人の秘密基地的な存在であるらしい。自宅は森の入り口付近に建っているらしく、独り身になった今ではこの小屋に居ることがほとんどだそうだ。
「それにしても少年、若いのに苦労しているのじゃろ」
皿を洗いながら老人が話しかけてくる。
どうやら老人は自分と同じ白い髪の毛を眺めてそう言ってきたのであろう。
人間が天使と比べるなんて、かなりの屈辱行為だ……と思っていただろう。しかし、現実的に命を救ってくれたこの人間にそんな悪魔みたいな発言はできなかった。
「そうだな。おれはこう見えても天使だ」
誇らしげな顔で答えてやった。
「ほぉ~、天使さんだったのか、今日は客が多い日なことだ」
皿を洗い終わった老人は、リオウが座っている食卓にやってきた。
「それで、君はこれからどうするのじゃ?」
対面に座った老人は訊く。
「とりあえず、この森からでたいんだけど」
特にいく当てもないリオウが答えた。
「そうか、もう少し一緒に居たかったが残念じゃ」
老人は簡易的に描いた地図のメモをリオウに渡してくれた。
そして、ご飯だけではなく寝床まで用意してくれたではないか。
「それじゃ、わしは自宅に帰るとするか」
「ここまでしてくれたんだ。何かいいことはあるはずだ。天使の俺が言うからには違いないぞ」
「そうか~、天使さんがそういってくれるからには違いないな」
と老人は終止笑顔で小屋を後にした。
テレビもラジオも電化製品もろくにないこの小屋は、さらに殺風景な部屋になってしまった。
無音の世界に疲れたリオウは、布団の中ですぐに熟睡してしまった。
老人は懐中電灯を片手に暗い道をゆっくりと歩いていた。
「どうもありがとうございました」
正面から男の声がした。
「いえいえ、天使さまのお願いを断るわけにはいきませんよ」
老人は立ち止まって、男と会話する。
「これであなたが望んだどおり奥様にもう一度、逢えるようにこちらで用意しておきます。安心してください」
「そうですか、そりゃ~楽しみです」
聞こえなくなった声の先にゆっくりと明かりをむけたが、そこには誰も居なかった。
次の日、老人宅には多数の客人が訪れていた。