湯畑の裏で死んだ兄弟
本作『草津温泉土産店の兄弟』をお読みいただき、ありがとうございます。
舞台は、湯煙と旅人の笑顔に包まれた草津温泉です。
観光客でにぎわう湯畑の近くに、老舗土産店「湯のしずく」があります。店を支えてきた兄・榊原直人と、自由に生きようとする弟・榊原翼。性格も生き方も異なる二人は、同じ夜、それぞれ別の場所で遺体となって発見されます。
弟が兄を殺したのか。
兄が弟を殺したのか。
それとも、兄弟の死には、まだ誰にも見えていない第三者が関わっているのか。
事件を追うのは、東京で事件記者として働いた過去を持つ神谷しおりです。ある取材で人を傷つけた経験から記者を辞め、故郷の草津へ戻った彼女は、観光案内所で静かに暮らしていました。
もう事件には関わらない。
そう決めていたしおりでしたが、兄弟の死に残された小さな違和感を無視できません。
直人の袖口に付着した湿った砂。
遺体に掛けられた赤い風呂敷。
店の棚の奥に隠された古い帳簿。
そして、事件の夜に何かを目撃しながら、証言を変えた一人の女性。
しおりが真相へ近づくほど、温泉街の人々は口を閉ざしていきます。
そこにあったのは、単純な悪意だけではありません。
店を守りたい。
家族を守りたい。
町の評判を守りたい。
大切な人の生活を壊したくない。
誰かを守ろうとする思いは、本来なら優しいものです。しかし、その思いが秘密と沈黙を生み、いつしか取り返しのつかない悲劇へ変わることがあります。
本作は、兄弟殺人事件の謎を追うミステリーであると同時に、「守る」という言葉の意味を描いた家族の物語です。
真実を明らかにすることは、本当に正しいのか。
沈黙することは、必ずしも悪なのか。
家族への愛情は、どこから罪へ変わってしまうのか。
美しい温泉街の風景と、その裏側に積み重なった人々の事情を感じながら、最後までお楽しみいただけましたら幸いです。
なお、本作はフィクションです。作中に登場する人物、団体、店舗、事件および各種の事業はすべて架空のものであり、実在する人物、企業、施設、行政機関、観光団体などとは一切関係ありません。
草津温泉という魅力ある土地への敬意を込め、その美しい風景を舞台としてお借りしています。
それでは、湯煙の向こうに隠された兄弟の物語を、どうぞお楽しみください。
朝霧颯
草津温泉の湯畑近くにある老舗土産店「湯のしずく」。
ある夜、店主の榊原直人が店内で刺殺され、翌朝には弟・翼の遺体が湯畑の裏道で発見される。
警察は兄弟の争いによる事件と見立てるが、二人の死亡時刻、遺体に掛けられた赤い風呂敷、直人の袖口に残された湿った砂は、その推測と食い違っていた。
事件を追うのは、東京で事件記者として働いていた神谷しおり。
過去の取材で人を傷つけ、故郷の草津へ戻った彼女は、もう事件には関わらないと決めていた。しかし、隣のカフェ店員・小野寺玲奈が口にした、ある目撃証言をきっかけに、兄弟の死を調べ始める。
店の棚の奥から見つかった古い帳簿。
帳簿から切り取られた一枚。
兄弟の母が相続した土地。
そして、温泉街の観光利益を守るため、長年続けられてきた沈黙。
真実へ近づくほど、町の人々は同じ言葉を繰り返す。
「町を守るためだった」
兄は何を守ろうとしたのか。
弟は誰を救おうとしていたのか。
事件の夜、玲奈は店の裏口で何を見たのか。
湯煙に包まれた温泉街で、家族への愛情と善意が、やがて最も残酷な形へ変わっていく。
美しい観光地の裏側に隠された、二つの殺人と三十年の沈黙を描く、温泉地ミステリー。
最後まで『草津温泉土産店の兄弟』をお読みいただき、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、単なる犯人探しだけではありません。
人は何かを守ろうとするとき、必ずしも正しい選択ができるわけではない。
家族を守りたい。
店を守りたい。
町を守りたい。
大切な人の暮らしを守りたい。
その思い自体は、決して悪いものではありません。しかし、「守る」という言葉を理由にして真実から目を背けたとき、善意は少しずつ形を変えていきます。
直人は、店と家族を守ろうとしました。
翼は、兄を不正から救おうとしました。
兄弟の母は、失われた息子への思いから、取り返しのつかない行動を選びました。
玲奈は、恩のある人を守るために沈黙しました。
町の人々は、観光地としての信用と自分たちの生活を守るために、同じ言葉を繰り返しました。
そして、しおりの母もまた、娘を守るために真実を語らない道を選んでいました。
この物語には、完全な悪人も、完全な善人もほとんど登場しません。
誰もが自分なりの事情を抱え、正しいと思ったものを守ろうとしています。それでも、その選択によって傷つけられる人がいます。
善意があることと、その行動が正しいことは、必ずしも同じではありません。
主人公の神谷しおりは、かつて新聞記者として、真実を公にすることだけが正義だと考えていました。しかし、真実の伝え方によっては、関係のない人まで傷つけることがあります。
だからといって、真実を隠してよいわけでもありません。
事実を明らかにしながら、その出来事に関わった一人ひとりの弱さや恐れ、愛情まで記録する。
それが、しおりがこの事件を通してたどり着いた答えでした。
美しい湯畑には、毎日変わらず湯煙が立ちのぼります。
事件が起きても、誰かが深く傷ついても、温泉街の景色はすぐには変わりません。
けれど、一度真実を知った人には、同じ景色も以前とは違って見えるはずです。
湯煙が何かを隠しているのではなく、人がその向こうを見ようとしなかっただけなのかもしれません。
本作の舞台として、草津温泉という多くの人に愛される場所を選びました。歴史ある温泉街の情緒、湯畑を包む白い湯煙、観光客の笑い声、土産店の明るい商品棚。
そうした華やかで親しみのある風景と、人間の心に潜む暗さを並べることで、日常のすぐ隣にある不穏さを描きたいと考えました。
もちろん、物語に登場する事件、人物、店舗、団体、不正取引などはすべてフィクションです。実在する人物や施設、企業、観光団体などとは一切関係ありません。
最後に残った「守るなら、三段目」という言葉には、秘密を隠し続けることではなく、壊れてしまう前に真実を誰かへ渡してほしいという翼の願いを込めました。
家族を守るとは、すべてを一人で背負うことではない。
苦しみを隠すことでもない。
間違いを認め、誰かに助けを求め、真実を手渡すこともまた、大切なものを守る方法なのだと思います。
この作品を読み終えたあと、皆様の心に少しでも湯煙の残像と、兄弟が守ろうとしたものへの思いが残れば、作者としてこれ以上うれしいことはありません。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
朝霧颯




