10.3 ブルゴーニュ公の介入と亀裂
突然の屈辱が、イングランド軍をさらに弱体化させた。
ポトン・ド・ザントライユ隊長とともに、ブルゴーニュ公への使節として派遣されていたオルレアンの行政官2人——ギヨン・デュ・フォッセとジャン・ド・サンタヴィ——は、4月17日にオルレアンに帰還した。
ブルゴーニュ公は彼らの要請を受けて、オルレアンの町を自身の保護下に置くことを承諾した。
しかし、イングランド摂政ベッドフォード公は受け入れなかった。
摂政は、「自分が藪を叩いた後に、別の者が雛鳥を奪っていくようなことになれば、非常に残念だ」と答えた。[849]
結果的に、この申し出は却下された。
とはいえ、使節団の派遣は決して無駄ではなく、ブルゴーニュ公爵とイングランド摂政の間に新たな争いの種を蒔いたことに意味があった。
使節団は、ブルゴーニュ公に託された伝令官を連れて帰還した。
伝令官はイングランド軍の陣地に向かってラッパを吹き鳴らし、主君の名において、ブルゴーニュ公に忠誠を誓うすべての戦闘員に対し、包囲を解くよう命じた。
この命令を受けて、ブルゴーニュとピカルディとシャンパーニュ出身の弓兵と武装兵、数百人がただちに立ち去った。[850]
(⚠️ブルゴーニュ・ピカルディ・シャンパーニュ出身の弓兵と武装兵:ブルゴーニュ公と主従関係を結んでいる。イングランド軍の援軍として包囲戦に参戦していたが、この命令を受けてオルレアンから手を引いた)
翌日の午前4時、勢いづいたオルレアン市民はこの機会を逃すまいと、サンローラン・ド・オルジュリルの敵陣を攻撃した。
見張りを殺して侵入すると、そこで山積みの金銭、マルタンのローブ(robes of martin)、そして大量の武器を発見した。人々は金品に目がくらみ、防御を忘れて略奪に没頭してたところ、イングランド兵が大挙して押し寄せた。
彼らは不意を突かれて逃げ惑い、多くの者がイングランド軍に殺された。
その日、オルレアンの町には父親、夫、兄弟、近親者を亡くした女性たちの嘆きが響き渡った。[851]
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本来、オルレアンの城壁の内側には1万5000人しか入れないのに、いまや4万人[852]もの人々が身を寄せ合って暮らしていたため、あらゆる種類の苦悩が膨れ上がっていた。
苦しみに悶え、家庭の悲しみに押しつぶされ、不安に苛まれ、絶え間ない危険と絶え間ないパニックに狂わされた膨大な群衆だ。
当時の戦争は、後代ほど血なまぐさいものではなかったが、オルレアン市民の出撃によってかなりの犠牲者が出ていた。
3月中旬以降、イングランド軍の砲撃が町の中心部に落ちるようになり、必ずしも無害では済まなかった。
聖枝祭の前夜、臼砲から発射された石弾によって5人が死傷し、別の石弾では7人が死傷した。[853] アラン・デュ・ベイ司祭など、多くの住民が疲労と汚染された空気によって命を落とした。[854]
(⚠️聖枝祭(Palm Sunday):エルサレム入城の日。イエス・キリストが十字架にかかり亡くなって三日後に復活したとキリスト教徒が信じる出来事の一週間前に、エルサレムへ入城した記念日を指す。だいたい3月中旬〜4月中旬ごろ)




