9.6 ジャンヌの装備(4)軍旗とバナー
シャルル七世はジャンヌに何も命令を与えなかった。王は学者たちの助言に従い、ジャンヌが兵士たちとともにオルレアンに行くことを妨げなかった。
ジャンヌが約束されたしるしを示すことができるように、王は公的にジャンヌをそこへ連れて行く段取りを整えた。
王は、ジャンヌを導くためではなく、ジャンヌを護衛するために兵士を与えた。
ろくに道を知らなかったジャンヌが(シノンからポワティエへ連れて行かれる時、オルレアンに行くと勘違いしていた)、どうやって兵士を導くことができるだろうか?
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その間に、ジャンヌは聖カタリナと聖マルガリータの命令に従って、「天の王の名において、軍旗を掲げよ!」と書かれた軍旗(standard)を作らせた。
それは、粗い生地の白い布、またはバックラム(接着剤で強化された粗い綿織物)でできており、絹のフリンジで縁取られていた。
ジャンヌは「声」が命じるままに、町の画家に、彼女が「世界」[829]と呼ぶものを描かせた。
それは、神が玉座に座り、右手を上げて祝福し、左手に地球儀を持っている姿である。神の左右には、教会で描かれるような天使たちがいて、フルール・ド・リスを捧げている。上または片側には「Jhesus-Maria」という名が書かれ、背景には王家の金の百合が散りばめられていた。[830]
神の絵が描かれた軍旗の裏側には、(盾型の)紋章を描かせた。
青い盾に銀色の鳩が描かれ、そのくちばしには「De par le Roi du Ciel(天の王より)」と書かれた巻物をくわえていた。[831]
アランソン公爵の召使いペルスヴァル・ド・カニーによると、ジャンヌはもうひとつ、より小さな旗、すなわちバナー(banner)を作るよう命じた。バナーには、天使の挨拶を受ける聖母マリアが描かれていたという。
ジャンヌが雇ったトゥールの画家は、スコットランド出身でアミッシュ・パワーと呼ばれていた。
彼は材料を提供し、大小2つの盾型紋章の絵を描いた。この仕事の報酬として、彼は戦費会計係から25リーブル・トゥルノワを受け取った。[832]
アミッシュ・パワーにはエリオットという名の、結婚を控えた娘がおり、ジャンヌはのちに彼女に親切にしていた。[833]
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軍旗(standard)は集結の合図だった。
長い間、それを掲げる権利があったのは、王と皇帝、戦争の指導者だけだった。
封建領主はそれを前に掲げ、家臣たちは領主のバナーの下に集まった。
しかし、1429年当時、都市、ギルド、教区以外でバナーを使用することはなくなり、平和時の軍隊の前でのみ掲げられた。戦争ではもはや必要とされなかった。
最も卑しい隊長も、最も貧しい騎士でさえ、自分の軍旗(standard)を持っていた。
フランス軍の兵士50人がオルレアンから出撃し、一握りのイングランド軍の略奪者と戦うとき、蝶の群れのように多くのバナーが野原でひらめいた。
「軍旗を掲げる(To raise one's standard)」とは、「高ぶる」という意味の比喩だった。[834]
したがって、自由気ままな略奪者が、わずか20人程度の兵士と半裸の弓兵を率いて「軍旗(standard)を掲げる」ことはよくあった。
ジャンヌが自分の旗を「主権の象徴である」と考え、天の王から授かったそれを他のすべての旗よりも高く掲げようと考えたとしても、フランス王国陣営に(ジャンヌのやり方に)反対できる者がいただろうか?
過去80年間——クレシーの野原にまかれ、ウェールズとコーンウォールの剣士によって茂みや垣根の下に集められ、モーペルテュイのブドウ畑で失われ、アジャンクールの死体が沈んだぬかるみの上でイングランドの射手によって踏みにじられ、ベッドフォード公の略奪者によってヴェルヌイユの壁の下で一握りに集められた——過去80年間、敗北の場面で先陣を切ってきた封建時代の軍旗はどうなったのか?
これらの旗がすべて無残に倒れてしまったから。
ニシンの戦いで、王家の血を引く王子(クレルモン伯)が恥ずかしげもなく貴族の旗を掲げずに逃げてしまったからこそ、農民が今、みずから旗を掲げたのである。
(⚠️軍旗について:原文は「standard/banner」だが、現代語と意味が異なるので注意。伝統的なバナーとは、王侯貴族の紋章のみが描かれた正方形の個人旗のこと。その中でも「国王のバナー」をロイヤルスタンダードと呼ぶ。ただし、本文でも触れられているように、中世末期になると、傭兵やならず者の集団が結束を固めるために自前の軍旗を掲げるようになった。その場合は、バナーは個人旗、スタンダードは軍団旗を意味する)
(※)『上巻・第九章 トゥールのラ・ピュセル』完結。




