9.2 ジャンヌの従軍司祭、ジャン・パスケレル修道士
ジャン・デュ・ピュイの家で、ジャンヌはアウグスティノ修道会の修道士ジャン・パスケレルから訪問を受けた。
彼は、ピュイ=アン=ヴレの町から帰ってきたところで、そこで、ジャンヌの母イザベル・ロメと、ジャンヌを国王のもとに案内した人たちに会っていた。[805]
この町にある「アニスの聖域」には、聖王ルイがエジプトから持ち帰った聖母像が保存されていた。
これは非常に古いもので、高く崇拝されていた。なぜなら、古代イスラエルの預言者エレミヤが「これから生まれる処女の姿」を幻視して、自らの手でシカモアの木(sycamore)から彫り出した聖母像だったからだ。[806]
聖週間(復活祭の前週)になると、フランスだけでなくヨーロッパの各地から、貴族、聖職者、兵士、市民、農民などさまざまな身分の巡礼者が押し寄せた。
苦行のため、あるいは貧困のために、多くの人が杖を手に持ち、戸口から戸口へとパンを乞いながら徒歩でやってきた。
巡礼者目当ての商機を期待して、あらゆるジャンルの商人たちも集まってきた。
そのため、ここは最も人気のある巡礼地であると同時に、世界で最も豊かな市場のひとつでもあった。
旅人の流れが、町の周囲の道からブドウ畑、牧草地、庭園へとあふれ出ていた。
1407年の祭りの日には、群衆の中で押しつぶされて200人が亡くなる事故があった。[807]
(⚠️聖週間:キリスト教会の暦で復活祭前の1週間のこと。イエスの受難、死、復活が集中している)
キリストの受胎告知の祝日(3月25日)とキリストの死の祝日(聖金曜日)が重なる年がある。キリスト教最大の「神秘の約束」と、その「約束の成就」が一致する貴重な1日だ。
すると、聖金曜日(Holy Friday)はさらに神聖なものとなる。
大いなる金曜日(Great Friday)と呼ばれ、この日にアニスの聖域に入った者は「完全な免罪符(すべての罪が免除される)」を受けられるため、巡礼者の群衆は例年以上に多くなる。
さて、1429年の3月25日は、聖金曜日と重なる「大いなる金曜日」だった。[808]
したがって、修道士パスケレルが、この期間中にピュイでジャンヌの家族に会ったことは、何も特別なことではない。
農民の女性が、雪と霧の季節に、兵士や盗賊がはびこる地域を徒歩で250マイルも旅することは驚くべきだが、ジャンヌの母の愛称「イザベル・ロメ」の由来を思い出してほしい。信心深い彼女にとって、特別な免罪符を得るために遠出することは、日常茶飯事だった。[809] このときの旅路は、ロメにとって初めての巡礼ではなかったのだから。
善良な修道士パスケレルが、ジャンヌの護衛の誰に会ったかはわからないが、ベルトラン・ド・プーランジーがその中にいたと推測しても差し支えないだろう。
彼についてはほとんど知られていないが、その話し方から、信心深い人物であったことがうかがえる。[810]
ジャンヌの仲間たちは、パスケレルと親しくなり「ジャンヌのところへ行こう」と誘った。
「私たちと一緒にジャンヌのところへ行かなければなりません。ジャンヌと会うまで、私たちはあなたを離しませんよ」
修道士パスケレルは、彼らと一緒に旅をして、ジャンヌが去った後のシノンへ行き、その後、修道院があるトゥールへ向かった。
アウグスティノ派(アウグスティノ会)はフランシスコ会と並ぶ托鉢修道会で、修道士たちは同じ戒律にしたがい、染色していない灰色の僧衣を着用した。
前年、国王は、幼い息子の王太子ルイの従軍司祭(Chaplain)をこの修道会から選んだ。
修道士パスケレルは、この修道院でレクトル(講師・朗読者)の職に就いていた。[811]
彼は司祭の叙階を受けていた。おそらく非常に若く、当時の多くの托鉢修道士のように放浪癖があり、神秘的な奇跡に関心があり、過度に信じやすかった。
ジャンヌの仲間たちは、トゥールで彼女に再会するとパスケレルを紹介した。
「ジャンヌのために善良な神父を連れてきたよ。彼のことを知れば、きっと気に入るだろう」
「この善良な神父様は、私を喜ばせてくれます。私はすでに彼について話を聞いてますし、明日はこの神父様に告解するつもりです」
翌日、善良な神父はジャンヌの告解(懺悔)を聞き、ジャンヌの前でミサを唱えた。
こうして修道士パスケレルは、ジャンヌの従軍司祭となり、決して彼女のそばを離れなかった。[812]
(⚠️チャプレン(chaplain):本来の意味は「(教会以外の施設に付属する)礼拝堂で働く司祭」だが、ここでは「(特定の主人に付属する)従軍司祭」の意味合いが強い)




