1.3 子供時代
薄いワインと黒パンを食べ、厳しい生活で鍛えられたジャンヌは、実りのない土地で、荒っぽい地味な人々の中で育った。
ジャンヌは完全な自由の中で暮らしていた。
働き者の農民たちの間では、子どもたちはほとんど放任されている。
イザベルの娘は村の子どもたちとうまくやっていたようだ。
近所に住む小さなオヴィエット(Hauviette)はジャンヌより3〜4歳年下で、毎日の相手だった。
二人は同じベッドで一緒に寝るのが好きだった。[171]
両親が近くに住んでいたメンジェット(Mengette)は、ジャック・ダルクの家によく来て糸を紡いでいた。彼女はジャンヌの家事を手伝った。[172]
糸巻き棒を持って、ジャンヌはよくサン・タマンスに住む農夫ジャッキエの家に出かけて夜を過ごした。彼には幼い娘がいた。[173]
男児も女児も当然のように隣同士で育った。
ジャンヌとシモン・ミュニエ(Simonin Musnier)の息子は隣人同士だったので一緒に育てられた。
ミュニエの息子がまだ幼かったころに病気になると、ジャンヌが看病した。[174]
当時、村の若い娘たちが文字を知っているのは珍しいことではなかった。
数年前、ジャン・ジェルソン師(パリ大学総長で神学者)はシャンパーニュ地方の農民である姉妹に読み書きを学ぶよう助言し、できるようになったら啓発的な本を与えると約束していた。[175]
教区司祭の姪であったにもかかわらず、ジャンヌはホルンブック(horn-book)を学ばなかったため、村のほとんどの子供たちと同じだったが、全員が文盲だったわけではない。なぜなら、近隣のマクセ村にはドンレミ村の少年たちが通う学校があったからだ。[176]
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(⚠️訳註)ホルンブック(horn-book):15世紀から16世紀にかけて作られた教科書の原型。紙や羊皮紙に学ぶべきアルファベットや主の祈りなどを手書きまたは印刷し、それを保護するために薄く透明にした角(つの、ホーン)で覆い、羽子板状の薄い板に貼りつけたもの。取っ手の先に穴が開いており、そこにひもを通して腰のベルトにくくりつけるようなっていた。
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ジャンヌは母親から「主の祈り」「アヴェ・マリア」「ミサの定型文」を学んび[177]、聖人に関する美しい物語をいくつか聞いた。
それがジャンヌの教育のすべてだった。
聖なる祝日には、教会の身廊の説教台の下で、農民の男たちが壁を囲んで立っている間、ジャンヌは農民の女らしく、つま先を立てて膝をつき、司祭の説教を聴いていた。[178]
ジャンヌは十分に成長するとすぐに畑で働き、土を耕したり草むしりをしたり、現在のロレーヌ地方の女性たちのように男の力仕事もしていた。[179]
ムーズ川沿いの牧草地は、川のほとりに住む人々にとって豊かな資源だった。
干し草の収穫が終わると、ドンレミの村人は耕作地の取り分に応じて、一定数の家畜を牧草地に放牧する権利を持っていた。
各家庭は持ち回りで、牧草地で家畜の見張り番を交代で務めた。
ジャック・ダルクは小さな放牧地を持っていたため、他の村人と一緒に自分の牛や馬を放牧した。
自分の当番が来ると、娘のジャンヌに見張り番を任せ、ジャンヌは糸巻き棒を手に牧草地へ向かった。[180]
しかし、ジャンヌは裁縫や糸紡ぎなど家事をすることを好んだ。
ジャンヌは信心深かった。
神や聖人の名にかけて誓うことはせず、何か真実を主張するときは「間違いありません」と言えば満足した。[181]
アンジェルス(祈祷)の鐘が鳴ると、彼女は十字を切ってひざまずいた。[182]
土曜日(聖母マリアの日)になると、ジャンヌはブドウや果実の草木が生い茂る丘を登り、丘の麓にグルー村がたたずむ、森に覆われた台地にたどり着いた。そこから東には緑の谷と青い丘が見えた。
村からわずか2.5マイルほど離れた丘には、せせらぎの音が響く日陰の谷間があり、ブナ、トネリコ、オークの木の下から澄んだ水が湧き出て、熱病と傷を癒すサン・ティエボーの泉があった。
この泉の上には、ノートルダム・ド・ベルモンの礼拝堂がそびえている。
晴れた日は野原と森の香りが充満し、冬になるとこの高地は悲しみと静寂を羽織ったマントのような雲で包まれる。
当時、ノートルダム・ド・ベルモン(マリア像)は、王のマントと王冠を身につけて神の子を腕に抱き、若い男女から祈りと供物を捧げられていた。彼女は奇跡を起こすと言われていた。
ジャンヌはよく、姉妹のカトリーヌや近所の子どもたちと一緒に、または一人でここを訪れた。
そして、できる限り頻繁に、天国の女性に敬意を表してろうそくに火を灯した。[183]




