7.1 最初にジャンヌを審理した人(1)シャルル七世の忠臣
ポワティエの町は、約14年間、「フランス人によるフランス王国」の首都だった。
(⚠️フランス人によるフランス王国:1420年のトロワ条約で王太子だったシャルル七世が廃嫡され、パリを含む北フランスはイングランド支配下による英仏連合王国になっていた)
王太子シャルルは、ポワティエに高等法院を移した。正確には、パリから逃れてきた少数の評議員たちがそこに集まっていた。
ポワティエの高等法院は、小さな院(会議室)2つで構成されていた。
審議すべき問題があればソロモン王のように賢明な裁きを下しただろうが、訴訟を持ち込む者は現れなかった。ポワティエに向かう道中で傭兵や略奪者に襲われる危険があり、王国中が乱れていて訴訟どころではなかったのである。
評議員のほとんどはパリ近郊に領地を持っていたが、(パリを捨ててポワティエに来たため)衣食に困窮する生活を送っていた。
彼らにはめったに給料が支払われず、特典もなかった。
登録簿には「報酬が支払われるまで審議しない(Non deliberetur donec solvantur seeds)」と刻まれていたが、訴訟人からの支払いは見込めず、無意味だった。[721]
司法長官ジャン・ジュヴネル・デ・ウルサンは、イル・ド・フランス、ブリー、シャンパーニュ地方に豊かな土地と邸宅を所有していたが、彼の家族——善良で高潔な妻、子供11人、義理の息子(娘婿)3人——でさえ、みすぼらしい服装で靴も履かずに町の通りを歩いているのを見て、人々は同情の念に駆られた。[722]
国王と運命を共にすると決めた学者や教授たちは、本来ならば知性と学識の源泉であったが、教える大学がなかったため、その弁論や博識さから生計を立てることができなかった。
ポワティエの町は、シャルル七世が統治するフランス王国の首都だったが、高等法院はあれど大学はなく、まるで「高貴な生まれだが片目しかない貴婦人」のようだった。なぜなら、高等法院と大学は、偉大な都市の両目だからである。
このような惨状の中で、彼らは悲しみに暮れながら「もし神の意志があるならば、国王の運命と自分たちの運命を回復させたい」と切望していた。
その間、彼らは寒さに震え、飢えで衰弱しながら、うめき声をあげ、嘆き悲しんでいた。
エジプトの荒野をさすらうイスラエルの民のように、神が彼らの祈りに耳を傾け、こう言ってくれる日を待ち望んでいた。
「あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。
そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう」
(旧約聖書『出エジプト記』第16章12節)
(⚠️もう少しわかりやすく翻訳:「主は夕暮れにはあなたたちに肉を与え、朝にはパンを与えて満ち足りるであろう。主はあなたたちが主に向かってつぶやく願いを聞かれたからである」)
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ジャンヌ・ラ・ピュセルの審理を担当する博士や書記官(聖職者)の大部分は、貧困に苦しみながらもシャルル七世に忠実に仕えている人たちの中から選ばれた。彼らは、以下のとおりである。
①ポワティエ司教[723]
②マグローヌ司教[724]
③ジャン・ロンバール師(神学博士、かつてパリ大学の神学教授)[725]
④ギヨーム・ル・メール師(神学学士、ポワティエの律修司祭)[726]
⑤ジェラール・マシェ師(国王の告解聴聞司祭)[727]
⑥ジョーデイン・モラン師[728]
⑦ジャン・エロー師(神学教授)[729]
⑧マチュー・メナージュ師(神学学士)[730]
⑨ジャック・メレドン師[731]
⑩ジャン・マソン師(民法と教会法の非常に著名な博士)[732]
⑪ピエール・ド・ヴェルサイユ修道士(フランスのサン=ドニ修道院のベネディクト会修道士、神学教授、サン=ピエール・ド・ショーモンの修道院長、ラオン司教区のタルモン修道院長、フランス国王陛下の特命大使)[733]
⑫ピエール・テュレル修道士(聖ドミニコ修道会、トゥールーズの異端審問官)[734]
⑬シモン・ボネ師[735]
⑭ギヨーム・エメリー修道士(聖ドミニコ修道会、神学博士、神学教授)[736]
⑮セガン・ド・セガン修道士(聖ドミニコ修道会、神学博士、神学教授)[737]
⑯ピエール・セガン修道士(カルメル会修道士)[738]
その他、国王の顧問官から民法および教会法の免許取得者を数名ほど。




