6.8 聖職者と占星術師の意見
ジャンヌを尋問した聖職者たちは、彼女に関してさまざまな意見を持っていた。
ある者は、「彼女の使命は偽り(でたらめ)であり、国王は彼女に注意すべきだ」と主張した。[648]
また別の者は「彼女は神から遣わされた」と言い、「国王に何か伝えたいことがあると言っているのだから、少なくとも話を聞くべきだ」と正反対の主張をした。
当時、国王に仕えていた二人の司祭、グルノーブル高等法院長のジャン・ジラールと、後にサン=マルタン=ド=トゥールの副司教(助祭長)となるピエール・レルミットは、この件は「難しいが興味深い」と判断し、オルレアン家とフランス王太子に長年、評議会と外交の両方で仕えてきたアルマニャック派の高位聖職者ジャック・ジェリュに相談した。
ジェリュは60歳近くになったため評議会から引退し、トゥール司教座を離れて、より地位が低く隠遁に適したアンブラン司教座に移っていた。名声が高く、尊敬に値する人物だった。[649]
ジャン・ジラールとピエール・レルミットは、乙女の来訪について手紙でジェリュに知らせた。その手紙の中で、「神学教授3人から順番に尋問を受けた結果、彼女は信心深く、まじめで、節制しており、週に一度(毎週)告解と聖体拝領の秘跡を受けている」ことも伝えた。
ジャン・ジラールは、「彼女はユディトとデボラの再来で、巫女の口を通して語った神によって遣わされたのではないか」と考えた。[650]
(⚠️ユディトとデボラ:聖書に登場する勇敢な女戦士たち)
シャルル七世は敬虔な人で、毎日3回のミサを欠かさず、ひざまずいて熱心に聞いていた。
典礼の時間になると(定時に聖務日課を行い)、まずは死者のために祈り、その他の祈りに加えて、慣習的な祈りを繰り返した。毎日告解(懺悔)し、祝日ごとに必ず聖体拝領を受けた。[651]
(⚠️聖務日課:修道士や司祭が毎日おこなう祈りの儀式(典礼)。私的な祈りとは区別され、すべての信者のために祈り、神への賛美を通して昼夜の働き(仕事・家事労働など)をささげ、聖化するように努める)
その一方で、シャルル七世は、星を読み出来事を予言する占星術も信じており、その点では当時の他の君主たちと変わらなかった。彼らの誰もが、それぞれ占星術師を抱えていた。[652]
亡きブルゴーニュ無怖公は、ユダヤ人の占い師、メートル・ムスクをいつも付き添っていた。
彼が日没を見ることはなかったあの事件の日も、モントロー橋に向かう際、メートル・ムスクは「これ以上進まないように」と忠告し、「公爵は二度と帰ってこないだろう」と予言した。公爵はそのまま歩みを進め、殺害された。[653]
シャルル七世は、ジャン・デ・ビュイヨン、ジェルマン・ド・ティボンヴィルなど、とんがり帽子をかぶった人たちに信頼を寄せていた。[654]
彼は宮廷に常に2〜3人の占星術師を雇っていた。
これらの暦作成者たちは、出生図を作成して運命を占い、戦争や反乱の到来を空から読み取った。
そのうちの1人、パリ大学の研究員で公証人のメートル・ロランは、ある夜、ある時間に、屋根の上から空を観察していたところ、上昇点(アセンダント、東の地平線と黄道が交わった点)にある乙女座の頂点(MC)、金星、水星、そして太陽が空の半ばに見えた。[655](占星術用語につき、翻訳に再考の余地あり:the apex of Virgo in the ascendant, Venus, Mercury, and the sun half way up the sky. [655])
彼の同僚であるジュネーブ出身のギヨーム・バルバンは、これを「イングランド軍がフランスから追い出され、名もなき乙女の手によって王が復活する」と解釈した。[656]
また、異端審問官ブレアルの言うことを信じるならば、ジャンヌがフランスに来る少し前に、セビリアの賢明な天文学者ジャン・ド・モンタルサンが国王に次のような手紙を書き送っていた。
「処女の助言により、汝は勝利するであろう。パリの門まで勝利の道を進み続けよ」[657]
ちょうどその頃、シャルル七世はシノンに、ノルマンディー出身の老占星術師ピエールを連れていた。もしかしたら、パリの聖職者ピエール・ド・サン・ヴァレリアンと同一人物かもしれない。
彼は最近、何人かの貴族を伴って(シャルル七世の長男)ルイ王太子と婚約したマーガレット王女を迎えに行き、スコットランドから帰国したばかりだった。
その後まもなく、真実かどうかはともかく「ピエール卿は空を見上げて『ムーズ川流域の羊飼いの娘がイングランド軍を追い払うために運命を託された』ことを読み取った」と信じられていた。[658]
ジャンヌは宿屋で長く待つ必要はなかった。
シノンに到着してから2日後、彼女が熱望していたことが実現し、王のもとに連れて行かれたのだ。[659]
前世紀(19世紀)まで、グラン・カロワの近く、木造の家の向かいに井戸があった。言い伝えによると、ジャンヌは城へと続く急な坂を登る前に、馬から降りてその井戸の縁に足をかけたという。
ラ・ヴィエイユ・ポルトを通り[660]、ジャンヌはすでに堀を渡っていたが、王はまだ彼女を迎えるかどうか迷っていた。
王の親しい顧問たち、特に重要でない人たちは「悪事を企んでいるかもしれない見知らぬ女に用心するように」と助言した。
また、他にも「この羊飼いの娘は、ロベール・ド・ボードリクールの手紙によって紹介され、王に敵対する地域を通り抜けてきたこと、旅の途中で、ほとんど奇跡的な方法で多くの川を渡ってきた」ことを王に伝える者もいた。
これら、さまざまな意見を考慮して、国王はジャンヌを迎えることに同意した。[661]




