6.2 シャルル七世の貧困と金策
シャルル七世の貧困について、ばかげた話が流行っていた。
聞くところによると、王は靴を新調する金銭さえなく、靴職人は新しい靴を足から引き抜いて古い靴を残して帰ってしまったという。[585]
またある日、ラ・イルとザントライユが王に面会を求めると、王妃と食事中で、鶏2羽と羊のしっぽが唯一のご馳走だったという話がある。[586]
しかし、これらは単なる微笑ましい話に過ぎない。
王は依然として広大で豊かな領土を所有していた。
オーヴェルニュ、リヨン、ドーフィネ、トゥーレーヌ、アンジュー、そしてギュイエンヌとガスコーニュを除くロワール川以南のすべての地域である。[587]
国王の主な財源は、三部会を召集することだった。
(⚠️三部会(États généraux):フランスの身分制議会のこと。第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。3つの身分の代表者が集まり、重要議題を議論する)
貴族たちは「税金を差し出すのはプライドに関わる」と主張して何ひとつ出さなかった。聖職者たちは貧しいながらもいくらか献上したが、常に財政負担の大部分を担っていたのは、第三身分だった。
戦時下の臨時税「タイユ」が、毎年課せられるようになった。[588]
国王は毎年、時には年2回、三部会を召集したが、困難がつきものだった。[589]
街道はとても危険で、国中いたるところで旅人が襲われたり殺されたりした。
税金を徴収するために町から町へと旅する役人たちは、武装した護衛が付き添った。[590]
1427年、ランジェに駐留していたサバトという名の自由兵は、トゥレーヌとアンジューを恐怖に陥れていたため、町の代表者たちは三部会を欠席した。
自分たちが納めた税金が王国のために使われると信じていれば、状況は違ったかもしれない。しかし人々は、国王がまずは貴族への借金返済に充てることを知っていた。
代表者たちは、略奪を鎮圧する対策について話し合うために三部会に呼ばれた。[591]
しかし、いざ命の危険を冒して集まったとしても、彼らは黙ってタイユに同意することを強いられる。国王に仕える役人たちは、口を開けば「川に投げ込んで溺死刑にする」と脅した。
1425年にメアン=シュル=イェーヴルで開催された三部会で、善良な町の人々は「喜んで国王を助けたいが、まずは略奪を終わらせてほしい」と望み、ポワティエの司教ユーグ・ド・コンベレルも同様のことを述べた。
司教の意見を聞くと、ジアック卿は国王に「もし私の助言を聞いていただけるなら、コンベレル司教は同調する仲間とともに川に投げ込むべきでしょう」と進言した。結果的に、26万リーブルを可決した。[592]
また、1427年9月、シノンで開かれた三部会では、戦費として50万リーヴルを承認した。[593]
1428年1月8日、国王は「6カ月後の7月18日にトゥールで全国三部会を招集する」と王令を発布した。[594] しかし、当日は誰も出席しなかった。
7月22日、国王から新たな召集状が出され、9月10日にあらためてトゥールで開くよう命じられたが[595]、その三部会は10月に入ってようやくシノンで開催される有様だった。すでにその頃、ソールズベリー伯爵がオルレアンをめざしてロワール川沿いを進軍していた。
そのため、三部会は50万リーブルを承認した。[596]
だが、善良な人々がこれ以上税金を納めることができなくなる日は遠くない。
戦争と略奪の時代には、多くの畑が休耕地となり、多くの店が閉鎖され、町から町へと駄馬に乗ってのんびり行商する商人もほとんどいなかった。[597]
このような時勢だったので、税金の徴収はうまくいかず、王は実際に資金不足に苦しんでいた。
貧困という恥から抜け出すために、国王はその場しのぎの金策を3つ講じた。
第一に、あらゆる人から借金した。義母ヨランド・ダラゴン[598]、寵臣ラ・トレモイユ[599]、宰相[600]、肉屋[601]、新鮮な魚を提供してくれるブールジュ司教座の参事会[602]、料理人[603]、従僕[604]——、そのため税収のほとんどを債権者に渡さざるを得なかった。[605]
第二に、シャルル七世は王領を手放した。彼が所有している町や土地は、他人のものになっていた。[606]
第三に、彼は偽の貨幣を鋳造した。とはいえ、それは悪意からではなく、必要に迫られてのことであり、貨幣の質を下げる対策はごく普通におこなわれていた。[607]
何にしても、慢性的な赤字を根本的に解決する方法は何もなかった。




