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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝  作者: しんの(C.Clarté)
上巻・第六章 シノンのラ・ピュセル/予言

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6.1 シャルル七世の悲惨な生い立ち

 聖カトリーヌ・ド・フィエルボワの村から、ジャンヌは口述して書いてもらった手紙を国王(シャルル七世)に送った。彼女は文字の読み書きを知らなかったからだ。


 この手紙でジャンヌは、国王に謁見する許可を求め、国王を助けるために150リーグ以上も旅をしてきたこと、国王のためになる話をたくさん知っていることを伝えた。さらに、「もし国王が他の多くの人々の中に隠れていたとしても、自分は見分けられるだろう」と付け加えたと言われている。[572]


 しかし、後日、この件について尋問されたとき、ジャンヌは「そのような記憶はない」と答えた。


 正午ごろに手紙が封印されると、ジャンヌと護衛たち一行はシノンに向けて出発した。[573]


 当時、アジャンクールやヴェルヌイユの戦いで死んだ騎士の息子たちは、困窮する未亡人の手で育てられ、15歳ほどになると草原で足の不自由な馬をつかまえて廃墟から国王のもとへ向かった。忠誠、欲望、飢餓、理由はさまざまだが、自分自身とフランスの運命を立て直すために。[574]


 彼らと同じように、ジャンヌも王太子のもとへと向かった。


 シャルル七世はフランスであり、フランスの象徴であった。

 しかし、彼は狂気の王シャルル六世と多産な王妃イザボー・ド・バヴィエールの間に生まれた悲惨な子供たちの11番目で、不幸な人間のひとりにすぎなかった。[575]


 彼は災難の中で成長し、4人の兄たちに先立たれて唯一生き残った。

 しかし、発育の悪い体つきをしていて、膝が曲がり、脚は細くて内股だった。[576]

 見た目だけを考慮すれば、正真正銘「王子らしい」顔立ちでありながら、王統の血脈を疑われていた。[577]


 ある賢者がいうように、「そこに居合わせるくらいなら死んだ方がましだったあの日、モントローの橋の上で起きた事件」以来、彼は青ざめて震え、周囲であらゆるものが破壊され、破滅していくのを呆然と見つめていた。[578]



(⚠️モントローの橋の上で起きた事件:王弟殺しのブルゴーニュ無怖公を、王太子の家臣が殺害した事件のこと。当時のシャルル七世は王太子になって2年目、16歳だった)



 イングランド軍は、ヴェルヌイユでの勝利とメーヌを一部征服した後、4年間の猶予を与えた。


 しかし、シャルル七世の友人も、彼を擁護する者も、彼を救う者も、みな同様に恐ろしい存在だった。


 シャルル七世は敬虔で控えめな性格で、質素な妻に満足しながら、ロワール川沿いの城で悲しみと不安に満ちた生活を送っていた。


 彼は臆病だったが、そうなったのも当然だった。なぜなら、彼が貴族の一人に友情を示したり信頼を寄せた途端、その貴族は殺されたからだ。


 リッシュモン大元帥とラ・トレモイユ卿は、模擬裁判の後にジアック卿を溺死刑に処した。[579]


 ブサック元帥は、リッシュモン大元帥の命令で、さらに簡略化した無礼なやり方でカミュ・ド・ボーリューを殺害した。ボーリューは、クラン川の岸辺の草地でロバに乗っていたときに襲撃を受けて倒れ、頭を割られ、片手を切り落とされた。寵臣のロバだけが国王のもとへ連れ戻された。[580]


 リッシュモン大元帥は、彼に代わる新たな寵臣としてラ・トレモイユをシャルルに与えた。樽のように太った巨漢で、国中を食い荒らす伝説の巨人ガルガンチュアのようだった。


 ラ・トレモイユがリッシュモンを追い払った後、非常に恐ろしい大元帥が戻ってくるまで、国王はラ・トレモイユをそばにとどめた。


 実際、このように従順で臆病な王子が、あのブルターニュリッシュモンを恐れるのには理由があった。常に敗北し、常に激怒し、苦々しく、猛烈で、不器用さと暴力的な行為のために、無礼で厚かましいイメージを作り上げていた。[581]


 1428年、リッシュモンは国王に対する影響力を取り戻そうとした。

 クレルモン伯爵とパルディアック伯爵は、リッシュモンを支援するために団結した。国王の義母であるヨランド・ダラゴン(シチリアとエルサレムの実権なき女王で、アンジュー公爵夫人)は、不満を抱く貴族たちの味方になった。[582]


 クレルモン伯爵は、フランスの宰相、王室の筆頭大臣を捕らえて身柄を拘束したが、国王は身代金を払って解放させた。[583]


 イングランド軍がロワール川に向かって進軍している間、ポワトゥーではリッシュモン大元帥が国王の家臣たちと戦い、王家に忠誠を誓っていた地域では無所属の傭兵(フリーランサー)たちが国王の金で浪費に明け暮れていた。


 こうした悲惨な状況下で、小柄で小心なシャルル王はますます小さく痩せ細り、人間不信をこじらせて臆病になり、哀れな姿をさらしていた。


 しかし、彼は他の王に劣らず優秀であり、おそらく当時は彼こそが時代に求められていた王だった。もし、ヴァロワ王朝の初代フィリップや二代目のジャン二世なら、剣を交えて領地を奪い合うことを楽しんだだろう。


 哀れなシャルル王は、武勇伝を誇示したり、軍勢を駆って大衆を蹴散らし、戦いの最前線に躍り出るような手段も願望も持ち合わせてなかった。


 シャルル七世には美徳がひとつあった。彼は武勇を好まず、勇敢な偉業を誇るために戦争をしたり、侠気あふれる騎士にはなり得なかったことだ。


 彼の祖父シャルル五世も騎士道精神に欠けていたが、イングランドに大きなダメージを与えていた。孫は祖父のような知恵を持っていなかったが、祖父譲りの小賢しい知性を失っていなかった。槍の切っ先を交えるよりも、政治的な交わりで条約に署名する方が多くの利益を得られると信じる傾向があった。[584]


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