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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝  作者: しんの(C.Clarté)
上巻・第五章 オルレアン包囲戦:1428年10月12日〜1429年3月6日

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5.11 1429年2月、ニシンの戦い

 国王の評議会は、オルレアン救援のためにあらゆる努力をしていた。

 国王(シャルル七世)はオーヴェルニュの貴族たちを召集した。


 彼らは、ノートルダム・ダンシスの聖職者(Canon)でまだ子供と呼べる年齢の王太子が、反乱を起こした2〜3人の男爵を鎮圧するために険しい山々を越えて旅をした日からずっと、ユリの花(フランス王家の紋章)に忠誠を誓ってきた。[547]



(⚠️Canon:聖職者の一種。司教座聖堂参事会員。私有財産を持たない司教や修道士と違って、世俗の仕事や財産を持っている。司祭、助祭、副助祭などの階位に応じてさまざまな聖務を執り行うことができる。シャルル七世は十代半ばにこの資格を取得している)



 国王の呼びかけに応じて、オーヴェルニュの貴族たちは山から出てきた。


 2月初旬、クレルモン伯の旗のもと、彼らはブロワに到着した。そこでスコットランドの司令官ジョン・ステュアート・オブ・ダーンリーが率いるスコットランド軍と、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ男爵とトゥアール男爵の指揮下にあるブルボネ出身の部隊と合流した。[548]


 ちょうどその頃、オルレアンを包囲するイングランド軍のために、ジョン・ファストルフがパリから食料と弾薬などの補給物資を輸送しているという知らせが届いた。


 オルレアンの私生児は、クレルモン伯と対策を話し合うため、兵士200人を連れてオルレアンから出発した。

 すぐに攻撃することが決まった。クレルモン伯と私生児の指揮のもと、ブロワからの全軍は、ジョン・ファストルフを迎え撃つためエタンプに向かった。[549]


 2月11日、オルレアンから1500人の戦士が出撃した。指揮官はギヨーム・ダルブレ卿、スコットランド総司令官の弟であるウィリアム・スチュアート卿、ブサック元帥、グラヴェル卿、サントライユ隊長2名、ラ・イル隊長、ヴェルデュザン卿、その他大勢の騎士や従騎士だった。


 彼らは、オルレアンの私生児に呼び出され、エタンプへの道中にあるアンジェルヴィル近郊のルーヴレ・サン・ドニ村で、クレルモン伯の軍隊に合流するよう命じられた。[550]


 翌日の土曜日、四旬節レントの最初の日曜日の前夜、彼らはクレルモン伯の軍隊より先にルーヴレイに到着した。


 そこで、早朝、ザントライユとラ・イルのガスコーニュ人2人は、エタンプ街道に沿って平野を行軍しているイングランド補給部隊の先頭を発見した。


 そこには、補給物資を満載した荷馬車300台が長い列をなし、ノルマンディー、ピカルディ、パリから派遣されたイングランド兵に守られながら商人や農民が率いていた。多くても1500人ほどだったが、皆落ち着いていて警戒心が薄かった。


 ガスコーニュ人ふたりは、当然ながら、敵が油断している瞬間に不意打ちで襲いかかり、短時間で片付けようと考えた。


 彼らは大急ぎでクレルモン伯に攻撃の許可を求めた。


 トロイアのアブサロムやパリスのような美男子で、口数が多く虚栄心に満ちたクレルモン伯は、拍車を与えられた(騎士に叙任された)ばかりでこれが初陣だった。まだ若く、あまり賢明とはいえなかった。[552]


 彼は愚かにも、「自分が到着するまで攻撃しないように」と指示した。

 ガスコーニュ人は大いに失望しながらも指示に従ったが、待つことで何が失われるかを理解していた。


 やがてイングランドの補給部隊は、自分たちが虎口に入ったことに気づき、指揮官のジョン・ファストルフ、エヴルーの代官リチャード・ゲシン、パリの憲兵司令官シモン・モリエは、万全の戦闘態勢を整えた。


 平野に荷馬車を並べて細長い「囲み」を作り、そこに騎兵を駐屯させ、前方には弓兵を配置して、先端の尖った杭を地面に突き立てた。[553]


 このような備えを見て、スコットランドの司令官は我慢できなくなり、騎兵400人を率いて突撃させたが、杭に阻まれて馬の脚が折れてしまった。[554]


 イングランド軍は、自分たちを取り囲んでいる相手は少数の部隊に過ぎないと気づき、騎兵を出して猛烈な突撃を仕掛け、フランス軍を打倒して300人を殺害した。


 その頃、オーヴェルニュの兵士たちはルーヴレに到着し、村を捜索して地下室を空にしていた(略奪していた)。オルレアンの私生児は、彼らを置いて、兵士400人を連れてスコットランド軍の救援に向かった。しかし、彼は足を負傷し、捕らえられる寸前の危機に瀕していた。[555]


 この戦闘で、ウィリアム・スチュアート卿と彼の兄弟、ヴェルデュザン、シャトーブラン、ロシュシュアールの領主、ジャン・シャボーをはじめ、その他大勢の高貴で勇敢な者たちが命を落とした。[556]


 イングランド軍はこの殺戮では飽き足らず、逃亡者を追いかけて散り散りになった。


 ラ・イルとザントライユは、敵の軍旗が平原に散らばっているのを見て、できるだけ多くの兵士を60人から80人をほど集めてイングランド軍の一部に襲い掛かり、これを打ち負かした。


 もし、この時点でフランス軍の残りが集結していれば、その日の名誉と優位を挽回できたかもしれない。[557]


 しかし、クレルモン伯は、オルレアンの私生児とスコットランドの司令官を助けようとしなかったばかりか、最後まで臆病さを見せつけた。仲間が全員殺されたのを見届けると、軍隊を率いてオルレアンに向かい、2月12日の夜遅くに到着した。[558]


 その後、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ男爵、トゥアール子爵、ブサック元帥、グラヴェル卿、そして辛うじて鞍にしがみついたオルレアンの私生児が、秩序なき部隊を率いて戻ってきた。


 ジャメ・デュ・ティレー、ラ・イル、ザントライユは最後に到着し、イングランド軍の援軍が砦から襲撃して完全な敗北を喫することのないよう、しんがりとなって見張っていた。[559]


 四旬節の断食が始まっていたため、オルレアンを包囲するイングランド軍のために、ジョン・ファストルフ卿がパリから運んできた食料は、主にニシンの燻製だった。


 この戦闘で樽が壊されて、中に詰まっていたニシンが損傷していた。

 イングランド人は、皮肉たっぷりに「ディエップ出身者(ニシンの産地)を多く打ち破ったフランス軍」を称えて、この戦いを陽気に「ニシンの戦い」と名付けた。[560]


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