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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝  作者: しんの(C.Clarté)
上巻・第五章 オルレアン包囲戦:1428年10月12日〜1429年3月6日

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5.8 オルレアンの私生児

 レ・トゥーレルの砦を奪われた翌日、その喪失をできる限り回復した後、「国王の中将」が町に乗り込んできた。


 ジャン卿は、ポルシアンおよびモンタンの伯爵で、シャルル七世のもとで「フランスの大侍従長」を務めており、1407年に無怖公ジャン(シャルル七世の家臣に殺されたブルゴーニュ公)の命令で暗殺されたオルレアン公ルイの息子である。



(⚠️王弟オルレアン公ルイについて:狂王シャルル六世の弟。シャルル七世の叔父。精神に異常をきたした王の代理をめぐってブルゴーニュ無怖公と争った末に殺害された。王がまともに裁かなかったため、王弟オルレアン公の遺族と家臣はブルゴーニュ無怖公に弾劾状を送りつけ、宮廷闘争は武力衝突に発展。当時百年戦争は休戦中だったが、イングランドは内乱に乗じて再びフランスに侵攻する。なお、オルレアンの私生児ジャンとシャルル七世は幼なじみで当時4〜5歳)



 オルレアン公ルイの死をきっかけにフランス王国で内紛が勃発し、アルマニャック派はブルゴーニュ派に抵抗するために武装した。


 母親はカニー出身の女性だが、公爵が父親である以上、オルレアン公爵夫人の息子として扱われた。


 不倫関係で生まれた婚外子(私生児・庶子)であっても、不利益になるどころか「王子の私生児」と呼ばれることは大きな名誉だった。

 百年戦争中ほど多くの私生児がいた時代はなく、「子供は穀物のようなものだ。盗んだ小麦を蒔いても、同じように芽を出す」という慣用句があった。[522]


 当時、「オルレアンの私生児」は弱冠26歳ほどだった。

 包囲戦の前年、ウォリック伯爵に包囲されていたモンタルジの住民に食料を届けるために、彼は少数の部隊を率いて急行した。彼は町に食料を運んだだけでなく、ラ・イル隊長の助けを借りて包囲軍を追い払った。これはオルレアンにとって幸先のいい兆しだった。[523]


 オルレアンの私生児は、当時の王侯貴族の中でもっとも賢かった。

 文法と占星術をよく知っており、誰よりも正確に話した。[524]

 親しみやすさと聡明さは父親に似ていたが、父親よりも慎重で節度があった。

 彼の愛想の良さ、礼儀正しさ、そして思慮深さは、王妃も含めてすべての女性から好かれていたと言われている。[525]


 戦争でも外交でもあらゆることに有能で、驚くほど機転が利き、如才なく、完璧な嘘つきでもあった。


 我が君「オルレアンの私生児」殿は、名声ある騎士、隊長、従騎士、つまり高貴な生まれか勇敢な武勇の持ち主をつれてきた。


 ブサック元帥。

 ブルボネーの執事長(セネシャル)でショーモン領主ジャック・ド・シャバンヌ。

 ロンバルディアの騎士テオドール・ド・ヴァルペルグ。

 戦争と略奪に長け、最近はモンタルジの救援で功績をあげたラ・イル隊長。

 足の不自由な馬に乗って王のもとにやって来た若者たちのひとりで、苦難と貧困という二人の賢女から教訓を得たジャン・ド・ブイユ卿。


 これらの騎士は、800人の兵士、弓兵、弩兵、そしてヴェネツィアやフィレンツェの教会にある「聖ゲオルギウスの盾」のような幅広の盾を持ったイタリア歩兵を率いてきた。

 彼らは、現時点で集まることができたすべての貴族と自由人(傭兵)を代表していた。[526]


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