3.4 戦火を逃れてヌフシャトーの町へ
6月22日、シャンパーニュ地方の総督アントワーヌ・ド・ヴェルジーは、イングランドの幼君ヘンリー六世のフランス摂政であるベッドフォード公から「ヴォークルールの城をイングランドに服従させる目的で重装歩兵1000人を派遣するように」と命じられた。
3週間後、ヴェルジー家の2人、アントワーヌとジャンの指揮のもと、小規模な部隊が出発した。部隊は、上級(旗持ち)騎士4人、下級騎士14人、重装歩兵363人で構成されていた。ボーヴェの司令官ピエール・ド・トリエ、ヌーシャテル伯ジャン、フリブール伯が本隊に加わるように命じられた。[352]
行軍中、アントワーヌ・ド・ヴェルジーはいつものように、城の領地にあるすべての村を火と剣で蹂躙した。
ドンレミ村とグルー村の人々は、またしてもよく知っている災難におびやかされ、すでに家畜を奪われ、納屋が燃やされ、妻や娘が襲われるのを目の当たりにした。
少し前に、島の要塞が十分に安全ではないことを経験していたため、人々は村から逃げ出し、ドンレミからわずか5マイルのところにある市場町ヌフシャトーに避難することを決めた。
こうして彼らは7月中旬に出発した。
家と畑を捨て、家畜を先導し、小麦とライ麦の畑を通り抜け、ブドウの木に覆われた丘を登って町にたどりつき、そこで可能な限りの宿を求めた。[353]
ダルク家は、ラ・ルースと呼ばれるジャン・ワルデアの妻に迎えられた。
彼女は、兵士、修道士、商人、巡礼者らが宿泊する宿屋を経営していた。
彼女がいかがわしい女をかくまっているのではないかと疑う者もいた。[354]
実際に、宿の女性客の中には評判の悪い者もいたと考えられる理由もある。
しかし、ラ・ルース自身は評判が良く、裕福な身分で、同胞に貸せるほどお金持ちだった。[355]
ヌフシャトーの町は、ブルゴーニュ派のロレーヌ公爵の所有だったが、この宿屋の女主人はアルマニャック派(シャルル七世の味方)に傾倒していたと考えられている。しかし、フランス王国の苦難に関するラ・ルースの感情を探ろうとしても無駄である。[356]
ヌフシャトーでは、ドンレミ村と同様に、ジャンヌは父の飼っている家畜を野原に放牧し、羊の世話をしていた。[357]
手先が器用でたくましいジャンヌは、ラ・ルースの家の仕事も手伝っていた。[358]
この状況から、ジャンヌが酔客やいかがわしい女たちがたむろする宿屋で女中をしていたという、ブルゴーニュ人による悪意ある噂が広まった。[359]
だが、実際のところ、ジャンヌは家畜の世話や女主人の手伝いをしていないときは、ずっと教会に入り浸っていた。[360]
町には立派な修道院が2つあり、1つは灰色修道会(ベネディクト派)、もう1つは聖クレア姉妹教会で、ともに聖フランシスコ派修道会の僧と尼僧がいた。[361]
灰色修道会の修道院は、200年前にロレーヌ公マチュー二世によって建てられた。現職の公爵は最近、修道院の財源として大金を寄進した。そこには、貴婦人や大公、そしてとりわけドンレミ村とグルー村のブルレモン領主が、真鍮の棺の中で眠っていた。[362]
かつて、これらの托鉢修道士たちは、歴史の最盛期に、大勢の市民や農民ばかりか、多数の王侯貴族たちを第三会に迎え入れていた。[363]
(⚠️第三会(third order crowds):在俗にありながらキリスト教的な完徳を実践するグループ。第一会が男子修道院、第二会が女子修道院)
しかし、今や彼らは、フランスの修道士たちの間で堕落し、腐敗していた。
争いや分裂が頻繁に起こった。
コルビ家のコレットが権威を回復させようと試みたが、昔ながらの戒律は守られていなかった。[364]
托鉢修道士たちは、鉛のメダイを配布し、お守りとなる短い祈りを教え、イエスの聖なる名に特別な献身を誓った。[365]
ヌフシャトーの町で過ごした2週間の間に[366]、ジャンヌは灰色修道会の教会によく出入りし、2〜3回は同修道会の仲間に告解(懺悔)した。[367]
ジャンヌは聖フランシスコ第三修道会に所属していたとされており、それはヌフシャトーに滞在中にさかのぼると推測されている。[368]
この推論は非常に疑わしい。
いずれにせよ、修道会との関係はそれほど厳粛なものではなかったはずだ。
わずか2週間という短期間で、一体どのようにして修道士たちがジャンヌに聖フランシスコ会の教義について指導できたのか、理解するのは難しい。
ジャンヌはすでに、霊的な力と世俗的な力に関する教会の思想に染まりすぎており、神秘と啓示に満たされすぎていた。修道会の精神を染み込ませることは不可能だ。
その上、ヌフシャトー滞在中のジャンヌは不安に悩まされ、不在によって中断されていた。




