選抜記録会①
今回はいつもより長めですね
今更ですが、この作品内のタイムは設定との矛盾がないリアルなタイム設定にしてます。
記録会前日の練習は、短かった。
やることは最低限。スタートの確認と、流しを数本。身体を追い込むような練習は、もうしない。
空は、昼間よりずっと低い色をしていた。薄い雲が広がっていて、夕焼けはぼんやりしている。
「明日だな」
グラウンドを出たところで、一輝が言った。
「だな」
それ以上、言葉は続かなかった。校門までの道は、意外と長い。
アスファルトの上を、俺たちが歩いている音だけが響いている。
「緊張してる?」
一輝が、前を見たまま聞いてきた。
「……まあ」
「俺はしてないけど」
即答だった。
「嘘つけ」
「ほんとだって。だってさ」
一輝は少し間を置いてから、笑った。
「どうせ、やることは同じだろ」
それだけ言って、自転車にまたがる。
確かに、そうだ。スタートに立ったら、考えることは一つしかない。
「じゃ、また明日な」
「ああ」
一輝の背中が、夕暮れの中に小さくなっていく。
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家に帰ると、リビングには誰もいなかった。テレビは消えていて、冷蔵庫の音だけがする。
部屋に戻って、鞄を置く。スパイクを取り出して、紐をほどく。
何度も見てきたはずの靴なのに、今日は少しだけ違って見えた。
ベッドに腰を下ろして、天井を見る。
全中。インターハイ。そんな言葉が、頭の中をよぎる。
――でも。
考えすぎても、走りは良くならない。
分かっている。それでも、考えてしまう。
「……明日か」
独り言が、部屋に溶けた。
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朝は、思ったより静かだった。
空は高く、雲は少ない。少しだけ風がある。
学校に着くと、もう何人か来ていた。トラックの上に、朝露が残っている。
ジョグを始めると、靴底が少しだけ滑る。
冷たい空気が、肺に入る。目が覚める感覚。
「白井」
呼ばれて振り向くと、監督がトラックの内側に立っていた。
「今日は、見るからな」
それだけ言って、歩いていく。
周りを見ると、先輩たちも、いつもより口数が少ない。
一輝が、隣でスパイクを履いていた。
「なあ」
「ん?」
「俺さ」
一輝は、紐を引っ張りながら言った。
「お前と走れるなら、それでいいわ」
相変わらず何を言ってるんだこいつは。
「勝てよ」
「当たり前だろ」
短いやり取り。でも、それで十分だった。
スタートラインの方を見る。
白線は、いつもよりはっきり見えた。
――走るだけだ。
そう思って、深く息を吸った。
とりあえず先に1本流しをしていこうと思った時だ。
ふと、隣のレーンを見る。
茶南先輩は、遠くを見ていた。
——多分、あの人も。
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今日で俺の仲間が決まる。
って言っても県とか東海、ましてはインターハイの時の調子によって変動はするって監督から聞いてるんだけどさ。
こうやって、朝が少し湿っぽくて肌寒い時期になると去年のことを思い出すな。
あの時はリレーなんて個人種目の付属品としか考えてなかった。
去年の俺たちは俺、恒一、佐原さん、河合さんの4人でリレーを走った。
俺らのリレーは全体的にレベルも高く、バトンもミスが無かったからかなり上位のレベルだったんだ。
あの日の舞台はエコパスタジアム。
俺らのホームとも言える競技場だった。
1走から2走。河合さんと佐原さんとの間のバトン区間。
少し遠かっただけだったんだ。
レースに出ている誰かを応援する大歓声の中。
俺らのバトンは宙を舞った。
それに気づいた佐原さんは後ろを向き、もたついた。バトンを2人で支えるようにして持ち直し、佐原さんも、恒一も懸命に走ってた。俺が貰った直後、ゴールラインを見た。
他のチームはとっくに前にいたんだ。
最後まで諦めずに走った。
最後に1人だけ抜かしたらしい。
東海大会の決勝だった。
上位6チームが行けるインターハイ。
7位だった。
インターハイに行けなかった理由を自分たちだと語る先輩たち。
恒一はそれを見て涙を流して、一緒に抱き合ってた。
でも、俺は一緒に泣けなかった。
2年生で100メートルを制し、個人ではインターハイ出場を決めていた。
だから、来年も当たり前のようにあると思っていた。
今年で終わる先輩たちと一緒の舞台には立てなかった。
俺なら抜かせたはずなんだ。
アンカーをやらせてもらったんだから、全員抜いて勝たないと意味がなかった。
あれから個人種目だけではなく、リレーにも目を向けた。
東海新人は3番。
100も勝つ。200も勝つ。リレーも勝つ。
次の東海は三冠。
もう負けはない
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「……なあ、恒一」
気づけば、俺はトラックの内側に立っていた。
朝の冷たい空気が、さっきまでの記憶を少しだけ薄めていく。
「久我たちの方がさ」
一拍置いて、続ける。
「佐原さんたちより、速くやれてるかな?」
恒一は一瞬だけ考えてから、肩をすくめた。
「さあな。でも、今の方がうるさいのは確かだろ」
「それ、褒めてんのか?」
「多分な」
自分の中にある疑問を、後悔を押し殺しながら。
今日、この疑問は払拭できるのだろうか。
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全員がアップや流しを終え、みんなが集まると、監督が前に出て記録会の説明をした。
「今日はスタブロを使った60mを電子測定で測る。1人ずつだ。記録はマネージャーが随時メモしてくれる。」
「最初の記録会のタイム順でいく」
監督はそう言って、手元の紙に目を落とした。
「茶南、庵原、柊木」
一拍置く。
「次、久我。中村。白井・・・」
自分の名前が聞こえた瞬間、一気に自分の中で現実味が増した。
一輝の言葉が、頭の中を何度も回る。
――あいつと一緒に走る。
その決意だけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。
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測定器やマネージャーの準備が終わると、茶南がスタブロをセットし始めた。
まだ部員のみんなはザワザワ話している。
その時、マネージャーから声がかかる。
遂に始まった。
『オン・ユア・マーク』
静止。
号砲。
茶南のスタート。普段は庵原と共に走っているためあまり集中して見ることはない。
しっかり見ると、"あんな"後半を持っている選手とは思えない速さだ。
50m地点。
普通なら、ここで伸びは終わる。
脚は回転に切り替わり、
ストライドは変わらないか、少し増えるだけ。
——だが。
茶南は、違った。
50mを過ぎても、
一歩一歩が、まだ前へ出る。
地面を叩く音が、軽く、一定だ。
まるで、
もう一段、ギアが入ったみたいだった。
60m。
ゴールライン。
電光掲示板に映る数字。
6.67
一瞬、
空気が止まった。
次の瞬間、
小さな声が、あちこちから漏れる。
「……はや」
「意味わかんねえ」
「後半型って、こういうことかよ」
誰も大きな声を出さない。
出せない。
茶南は首を軽く回し、
掲示板をちらりと見ただけだった。
「……もっといけたな」
その一言に、
周囲がざわつく。
——あれで、満足していない。
俺は、無意識に息を吐いていた。
気づけば、拳を握っている。
(6.67……)
数字が、頭に焼き付く。
スタートが特別速いわけじゃない。
なのに、
後半で全部ひっくり返す。
——ああ。
この人は、
**「繋ぐために速い」**人なんだ。
リレーの最後で、
全てを決めるための脚。
胸の奥が、少しざわつく。
(俺は、どこで勝負する?)
考えたくなくても、
考えてしまう。
そんな時だった。
「次、庵原」
その名前が呼ばれた瞬間、
空気が、また一段階引き締まった。
庵原先輩は、何も言わずに前へ出る。
表情は、相変わらず淡々としている。
スタブロを合わせる動きに、
一切の迷いがない。
——静かだ。
「オン・ユア・マーク」
「セット」
号砲。
速い。
最初の一歩から、
前に“置いていく”走り。
前半で、もう差がつく。
30m。
40m。
脚の回転が落ちない。
むしろ、整っていく。
50m。
ストライドが、わずかに広がる。
——前半型なのに、減らない。
60m。
ゴール。
掲示板。
6.64
今度は、はっきりとどよめいた。
「……え」
「前半であれ?」
「化け物かよ」
庵原先輩は、タイムを確認すると、
小さく息を吐いただけだった。
「まあ、悪くないな」
その言葉に、
後ろで茶南が鼻で笑う。
「お前は基準がおかしい」
「お前にだけは言われたくない」
短いやり取り。
でも、その間に流れる空気は、重い。
——速い。
タイプは違う。
けど、
どっちも“本物”だ。
俺は、スタートラインを見つめる。
まだ、
ここに立ってすらいないのに。
心臓が、静かに速く打っていた。




